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市民の声を聴き、ともに活動することで現場を変える ―地元の魅力を伝え、活性化につなげたい

嘉山 淳平さん嘉山 淳平さん

高校時代、リオデジャネイロの地球サミットに感銘

廣瀬 本日は、前神奈川県横須賀市議会議員で、現在は三浦半島で農業体験・漁業体験をプロデュースする事業を展開されている嘉山淳平さんをお迎えしました。実は私は嘉山さんが大学院生時代に知り合い、当時は市議会議員に立候補して地域を活性化したいという夢を語っておられたことを覚えています。大学院在学中、実際に当選されて議員活動をしながら修士論文を仕上げ、その後議員を3期務められて勇退。この春から新しい道に進まれたと伺い、ぜひ本校卒業生の多様な進路とその活躍の社会的な意義を伝えたく思いお越しいただきました。嘉山さんは横須賀市出身で、法政大学第二高等学校を卒業後、法政大学人間環境学部に進まれました。まず、どのような動機で法政を選ばれたのか、そのあたりからお聞かせください。

嘉山 一番の理由は、中学から取り組んでいたテニスをさらに高いレベルで頑張りたかったからです。先生に進路を相談したところ、「法政二高ならば文武両道で充実した高校生活を過ごせるのではないか」と紹介されて志望しました。

廣瀬 法政二高はスポーツに本気で取り組みたいけれど、勉強もしっかりやりたい方に選ばれているようです。

嘉山 実際入ってみたらとても居心地が良く、多くのかけがえのない仲間ができたので、人見知りでシャイだった性格が大きく変わってコミュニケーション力がつきました。二高に入らなかったら議員になるなんて性格的に厳しかったでしょうね。

廣瀬 二高に入ったことが大きな転機でもあったのですね。そして大学は人間環境学部に進まれました。

嘉山 進路選択の際に様々な学部の模擬授業を受けるなか、社会問題を学ぶことが勉強になることに驚き、こんな学問ならばやってみたいと人間環境学部を選択しました。当時、リオデジャネイロで地球サミットが開催された時期で、当時12歳のセヴァン・スズキさんの「どうやって直すのかわからないものを、壊し続けるのはもうやめてください」というメッセージが非常に心に残りました。小さい女の子が世界に向けて強いメッセージを発信したことに感銘を受け、高校生だった私も環境問題に何かアプローチをしなくてはいけないと思いました。

廣瀬 人間環境学部の設立自体が、リオデジャネイロで発信された持続可能な発展という考え方を学際的に追求していくところから構想されたので、まさに学部設立の狙いと嘉山さんの思いが重なったように感じます。実際に入学されていかがでしたか。

嘉山 私は欲張りな性格で、大学時代は環境教育の活動、テニスサークル、アルバイト、ゼミと本当にめまぐるしい日々を送りました。入学直後から環境問題にアプローチをするには何をすべきか考え、「大人を変えるは難しいので、子どもたちの行動を変えていくことが遠回りでも確実ではないか」と、環境教育のサークルを立ち上げ、小学校で授業を行う活動をしました。さらに、より影響力のある環境政策を研究したいと、「持続可能な地域社会の創造」をテーマとした小島聡先生のゼミの門を叩きました。

廣瀬 人間環境学部のゼミでは、ゼミごとに縁のある地域があり、そこを拠点に活動しているそうですね。

嘉山 小島ゼミではフィールドワークのための合宿で、長野県飯山市で環境を軸に置いた政策提言を毎年行っていました。ゼミ代表を務めていた4年生時、小島先生から「地域の起爆剤になる取り組みをやってみよう」という話をいただき、サマーカレッジというイベントを開催しました。学生がファシリテーターを務めるワークショップ形式で実施し、地域の方に飯山市の魅力を再発見していただくとともに、将来を意識してその魅力を地域の中でどのような取り組みにつなげていくかを考えるイベントでした。今思うと、現場を全く知らない中でよく地域の人たちにコミュニケーションを取れたなと思います。

ベクトルを自分ではなく外へ向けるように切り替えた

廣瀬 大学を卒業後すぐには大学院に進学せず、一般企業に就職されました。

嘉山 人の行動を変えていくことに携わりたいという軸で広告業界を志望し、いずれ政治家として政策に携わりたいという気持ちもあり、自分が成長できる会社ということで求人広告の会社を選びました。ハードワークな会社で、朝から終電までの営業活動で体力がつきました。最初は何をやっても怒られていましたが、今思えばベクトルが自分の成長だけに向いてしまっていたことが背景にあると考えています。

廣瀬 政治家になりたいと思われたのはいつ頃ですか。

嘉山 大学1年生の終わり頃、当時横須賀市議会議員だった吉田雄人さんのところでインターンをした経験が大きかったです。出会いは駅頭活動で配布しているパンフレットを受け取ったことがきっかけで、毎日ひたむきに市民の方々とコミュニケーションを取り、市政の課題を政策・施策として解決していく議員の仕事のやりがいを知りました。入社2年目ぐらいの時、仕事の行き詰まりから何かを変えたいという思いもあり、松下政経塾の短期プログラムに参加し、週5日終電まで働きつつ土日は松下政経塾に通うというハードな生活を半年間送りました。そこで、政治家として地元の横須賀市長井という地域に貢献したいという自らの志を自覚。そこから、ベクトルを自分ではなく完全に外に向けるように切り替えたところ、なぜかそこからどんどん仕事もうまく回ったということがありました。

廣瀬 そこから退職されて議員になられた。

嘉山 会社員をしながら地域の仲間と地元の長井を活性化していく取り組みをスタートさせ、丸3年務めたタイミングで退職し、法政の大学院、政策創造研究科に入学。のちに研究科の再編に伴い、指導教員とともに公共政策研究科に移籍しました。在学中に市議会議員に立候補し当選。研究活動と政治活動を並行して行う生活でした。

廣瀬 選挙での勝因はどう分析していますか。

嘉山 営業の経験が大きかったと思います。自分が伝えたいことを人にどのように伝えるかというスキルは営業経験によって身につきました。また、師匠の吉田さんからアドバイスをいただき、毎日まちなかや駅前で市民の方とコミュニケーションをとることを重視し、活動を重ねていきました。

廣瀬 実際に議員になられてみて、1期目の印象はいかがでしたか。

嘉山 当時は26歳でしたので、他の議員からは軽く見られていた印象はありますが、大学院で学んでいる自負を持って議論をしました。当時、横文字を使い過ぎだとかなり言われたりして、議会の空気感や現場にはなかなか慣れませんでした。2009年から吉田さんが市長でしたので、市長と議員という形で対峙しました。

廣瀬 横須賀市は軍港都市という歴史をもち、戦後も米軍基地や海上自衛隊の拠点でしたから、行政経験がある国の官僚出身者が市長に立候補して当選をすることが長年続いていました。そこに若い市議会議員出身の吉田雄人さんのような人物が支持を集めて当選できるんだというのは、同じ時期に行政経験をもたない市長が何カ所かで当選するという動きもあって、全国的にも新しい地方政治の動きとしてインパクトがありましたね。

嘉山 吉田市長が誕生し、表向きには議会と対立する構図だったので、私が当選した際は、吉田市長の後継者という見方をされて風当たりは厳しいものがありました。それでもまず自分ができることをしっかりやろうと思い、雇用政策や環境分野などについて、積極的に発言や提言をすると同時に、議会と市民のコミュニケーションの機会を充実させる努力をしました。特に、2010年に議会基本条例の成立と同時にできた広報広聴委員会の委員長を2回務め、市民とのコミュニケーションを議会改革の要にすることを発信できたことは大きかったです。

地域課題の解決には、現場の声を聴いて行動に移す力が何より大事

廣瀬 市議会の中で多数派に属していなくても何らかの形で実現していく力を徐々に身につけられていったと思いますが、3期目頃はどのような感じの議員でしたか。

嘉山 1期目は常に議員の在り方について悩んでいました。会社員時代は営業だったこともあり明確な目標がありましたが、議員には数値的な目標がない。議員としての評価は得票数なのか、議員提案で条例制定した数なのか、一般質問の数なのか、予算化できた施策数なのかと考え込んでいたところ、現場の課題に対して次々にプロジェクトを立ち上げていく福島県南相馬市の但野謙介議員の取り組みを知り、議員の実績は現場を動かすことに尽きると感じたんですね。そこから、何か課題があれば、現場を動かして地域の人たちと一緒になって汗をかく活動として、長井の漁師言葉で「やってみよう」という意味の「シテコベ」という名前でプロジェクトをスタートさせました。しかし、活動が充実していくにつれて、日に日に市役所の予算化や意思決定のスピード感にもどかしさが高まっていく現実がありました。「これがもしも会社の代表であれば一瞬で決められるのに」と考えるに至り、今後自分はその形でまちを動かしていこうと。一方で議員との兼業では様々な支障や制約もあって、この活動に本腰を入れて現場を動かして行こうと思い、議員を辞職する決意をしました。

廣瀬 大きな決断でしたね。そもそも議員2期目の時にシテコベを立ち上げられた直接のきっかけはあったのですか。

嘉山 多くの市民から寄せられる3つの相談、「田舎だから何もない」「農業、漁業が盛んなのに地元で買える場所、食べる場所がない」「もっと生産物を高く売りたい」という課題を解決できる方法を考えた時に思いついたのが、≪体験≫だったんです。農業、漁業、酪農、あるいは里山体験といった地域でできる体験というコンテンツを作り、お金をしっかり回していくことができれば、全ての課題が解決できると考えました。

廣瀬 なるほど、そうして体験活動に行き着いたのですね。去年、私はゼミのフィールドワークで三重県の南伊勢町に行ったのですが、地場産業のひとつが鯛の養殖でした。そこではなんと生簀の中で鯛と一緒に泳げるという鮮烈な体験ができるのです。鯛と泳ぎ、その鯛を焼いて食べるという体験をパックにするとお客さん一人当たり万円単位の売り上げとなるとのこと。鯛を単に出荷し流通に乗せるだけなら千何百円にしかならないが、地元で体験とセットで提供してそれが評価してもらえれば、生産者により多くの価値を生んでくれる。素晴らしい成功事例ですが、そうした特別な体験を横須賀でも体験できるのですね。体験された方の反応はどうですか。


収穫体験専用の畑 於ソレイユの丘

嘉山 特に子どもたちの反応がとてもいいです。野菜の収穫に目を輝かせている様子を見ている大人もとても嬉しそうです。野菜嫌いな子でも体験後に食べ始めるなど、経験によって子どもの価値観が変わることが私たちのやりがいです。ある種の環境教育にもなっていて、今考えると大学生の時にやっていたことの延長ですね。食育やSDGsを盛り込んだプログラムが評価され、横浜市や川崎市、東京都などから多くの学校がリピーターになってくださり、今年からは長井にある大型公園「ソレイユの丘」で収穫体験専用の畑を管理する新規事業も立ち上げるまでになりました。

廣瀬 地域活性化の総合プロデューサーという感じですね。


法政大学人間環境学部 小島ゼミ生現地調査の様子(上)、ゲストハウス前で (下)

嘉山 スティーブ・ジョブズの有名なスタンフォード大学でのスピーチで「点と点をつなぐ」という話がありました。私も今は地域で体験可能なコンテンツを点として打っている状態です。今年は市民からの空き家相談から立ち上がったゲストハウスもスタートさせていますが、そうした点と他の点といかに結びつけていけるかを考えています。

廣瀬 今、地域課題を解決するためにソーシャルビジネスをやってみたいという思いを持つ学生が以前よりも増えていると感じています。最後にそういう後輩たちに対して、助言をいただけますか。

嘉山 現場の声を聴き、何が困っているか、どういう思いでそれに悩んでいるのか。その人と向き合ってしっかり把握する行動力が何より大事だと伝えたいです。その上で、解決策となる提案を継続的にできるかが問われる。1度失敗したとしても、検証して改善しながら根気よく続けていけば見えてくるものが必ずあります。私もまだその途上ですが、後輩に協力できることは何でもしたいと思っています。小島先生のゼミ生たちにも現場で勉強してもらっています。

廣瀬 法政大学でも学部横断的にSDGsを学べるプログラムなども始めています。その一環として社会課題の解決に向けたビジネスの立ち上げ方や組織のあり方を学べる機会の提供も検討できたらと思います。

嘉山 私でもお役に立てることがありましたらお声をかけてください。

廣瀬 是非ともよろしくお願いします。本日はありがとうございました。


株式会社シテコベ 代表取締役CEO 嘉山 淳平(かやま じゅんぺい)

1984年神奈川県横須賀市生まれ。法政大学第二高等学校を経て、2007年3月法政大学人間環境学部卒業。求人広告会社の勤務を経て、大学院在学中の2011年4月、横須賀市議に当時最年少となる26歳で初当選。以降市議を3期12年務める。2014年3月法政大学大学院公共政策研究科修士課程修了。市議時代から、まちの課題を活性化につなげる具体策を模索。2018年、出身地の横須賀市長井で、地域の魅力に付加価値を高めるため農業体験や漁業体験などを企画運営する「株式会社シテコベ」を起業。長井海の手公園「ソレイユの丘」で、約3,000平方メートルの畑をもつ体験農園の運営などを行っている。