どんな時も目標を見失わないことが次の大きな目標につながる
尾﨑 世梨さん
パリでの経験が私をスタートラインに立たせてくれた
廣瀬 尾﨑さんは2024年、パリの大舞台で世界の強豪チームと戦い、フェンシング女子サーブル団体で見事銅メダルに輝きました。さらに2025年1月にブルガリアで開催されたワールドカップでは、同じく女子サーブル団体で金メダルを獲得しました。少し時間も経ちましたが、改めてこのパリ大会とそれ以降のことを振り返ってみていただけますか。
尾﨑 帰国後は様々なメディアからのインタビューを受け、結果について取り上げていただき、私自身も銅メダルを獲ったという実感が徐々に沸いてきたという感覚でした。そしてワールドカップでは金メダルという結果を残すことができましたが、今振り返ると、パリでの経験が私にとってとても重要だったと感じています。自分の競技生活における大きなステップアップになりました。達成感を得たというよりも、むしろあの時、スタートラインに立ったのだと今感じています。
廣瀬 パリで世界のトップと競い合うステージにエントリーできたという実感があったということですね。
尾﨑 幸い結果を残すことができましたが、私たちにとって、まずそのステージに行くこと自体がそもそもとても困難で、そこに至る道のりも大きな成長になりました。努力が報われた瞬間であったことは間違いありませんが、同時に日本が世界に通用するチームになれたことは大きな自信になりました。
廣瀬 パリを競技人生の区切りにして大会後に引退された選手もいます。燃え尽き症候群という言葉もありますが、尾﨑さんはあの大舞台の後で初めてスタートラインに立ったと感じたということですが、新たな気持ちでフェンシングに向き合えたのはどうしてだと思われますか。
尾﨑 帰国後はメディア対応やお世話になった方へのご挨拶や、子どもたちにフェンシングを教えたりと、自分が思う以上に忙しい日々を過ごしていました。ただ、それまで認知度の低さが課題であったフェンシングという競技が、多くの人に知ってもらえるチャンスになると捉え、そうした忙しささえも今しかできない貴重な活動だと楽しむ余裕も生まれました。また銅メダルという結果には、達成感とともに悔しさもありました。そのため、すぐに次の大会へと気持ちを切り替えていましたので、燃え尽きるという感覚はありませんでした。そうした自然な流れが、ワールドカップでの金メダルにつながったのだと思います。
必死でついていく立場からチームを引っ張っていく立場へ
廣瀬 パリでは、法政大学の卒業生である先輩の二人と、キャプテンの江村美咲選手の中で、いわば末っ子的な存在だったわけですが、年が明けて、ワールドカップでは、江村キャプテンと尾﨑さんと、新人2名というチーム編成で、中堅としての立ち位置になったと思います。何かご自身の中で、チームのなかでの役割や団体戦での戦い方など変化はありましたか。
尾﨑 引退していかれる先輩たちを見て、いよいよ私がチームを引っ張っていかなければいけないという自覚が芽生えてきました。それまでは先輩たちに必死でついていかなければという感覚でしたが、コーチからもこれからは私が引っ張る立場で臨むよう激励を受け、日ごろから後輩にアドバイスする機会を増やしてみたり、日本代表としての経験を生かしてチームを盛り上げるような役割を意識していました。
廣瀬 リーダーシップを発揮することは得意な方ですか。
尾﨑 実はあまり得意な方ではありませんでした。そのため、チームをまとめるというより、選手一人一人を理解して信頼し合える雰囲気づくりをするように努めました。
廣瀬 団体戦といっても、戦っているその瞬間は一対一の個人との勝負ですよね。団体スポーツと言われるサッカーやバスケットボールなどとは競技のタイプが異なりますが、尾﨑さんはどのような気持ちでこの団体戦を戦っているのでしょうか。
尾﨑 個人戦も団体戦も経験して、どちらも戦っている最中は一対一ではありますが、ピンチに追い込まれたときなど苦しい展開があった時、個人戦だと自分ひとりで戦って自分で何とかしないといけないのですが、団体戦の場合は、対戦中も後ろにすぐチームメートがいるという安心感があって、声をかけてもらえるのはもちろん、自分自身の意識の中で、ここで粘れば次はキャプテンが必ずカバーしてくれる、自分がここで頑張れば次にしっかりとチームメートがつなげてくれるという気持ちがあって、信頼関係のもと、一人で戦っている時も一人ではないという思いはすごく感じます。
コロナ禍でも目標を見失うことなく高校生活を完全燃焼
廣瀬 剣道のように、町の道場や警察署など身近なところで教室が開かれていて、子どもの頃から触れる機会がさまざまにあるのとは異なり、フェンシングは始める機会が限られたスポーツではないかと思います。尾﨑さんはいつどのようなきっかけでフェンシングを始められたのですか。
尾﨑 私は中学1年生から始めました。もともと空手とチアダンスをやっていたのですが、中学ではなにか違う部活に入りたいと思っていたところ、フェンシング部の体験入部の機会があって参加しました。対人競技であったり、相手との間合いの取り方といったところが空手と似ていると感じて興味を持ち、フェンシング部に入部しました。空手よりも世界で戦えるというところに少し惹かれたということもあります。
廣瀬 出身は北海道ですが、高校は自宅から遠く離れたフェンシングの名門校である鹿児島南高校に進まれました。やはり日本一を目指したいと考えられたのですか。
尾﨑 北海道でもできないことはなかったと思いますが、続けていくうちに勝つことが楽しくなり、両親も応援してくれたため、強豪校でさらに良い環境でフェンシングに打ち込みたいという一心で、もちろん不安もありましたが、親元を離れることにしました。
廣瀬 高校での競技生活はいかがでしたか。
尾﨑 想像以上にトレーニングは厳しかったです。県立高校で部員のほとんどは地元から通うなか、私は他の部員とは違い下宿生活だったので、家族がいる自宅に帰ることができずホームシックになったこともありました。そういう厳しさもありましたが、鹿児島に行っていなかったら今の自分は無かったと思えるくらい、充実した高校生活を送ることができました。
廣瀬 尾﨑さんはコロナ禍の2020年に、高校生としての競技の集大成ともいうべき貴重な3年生の一年を過ごしたわけですから、いろいろな制約を受けてきたのではないでしょうか。
尾﨑 私は高校時代、インターハイ優勝を目指して練習に取り組んできました。1年生の時は3位、2年生で準優勝ときて、いよいよ3年生で優勝を、というところでインターハイが中止になりました。その時は目標を失ってしまい、気持ちが落ち着かず、どうしていいかわからない時期もありましたが、顧問の先生から、高校で競技生活が終るわけではないと励まされ、シニアの大会で世界で活躍していきたいという目標を定め、今できることに最大限力を尽くそうという思いで気持ちを立て直しました。最終的にはJOCカップという大会で優勝することができ、高校生活をやりきることができました。
スポーツに取り組むため、最高の環境を提供してくれる法政大学
廣瀬 高校卒業後、法政大学への進学を選択されたのは何か理由がありますか。
尾﨑 法政大学は競技を続けるにあたり、練習環境も整っていましたし、何より先輩方が結果を残していて、お互い切磋琢磨できるチームメートに出会えると期待し、法政大学一択でした。
廣瀬 高校時代も全国レベルの強豪校の練習環境の中で過ごされていたわけですが、法政大学に入ってみて、大学ならではという点など、何か違いを感じることはありましたか。
尾﨑 大学では自主性が求められるというところが高校時代の練習と比べて一番違うところです。「やらなくてもいい」という環境に置かれるイメージです。誰かに強制されて何かをするのではなく、自分で行動しなければ強くなりません。また、法政大学のフェンシング部は期待通り周りのレベルも高いため、勝ち続けるために自分で努力をし続けなければなりませんでした。ただ、インカレ4連覇という目標があったので、先輩たちに憧れるだけではなく、むしろ食らいついていこうという気持ちでトレーニングに励みました。
廣瀬 尾﨑さんは法政大学フェンシング部の一員として戦うという側面と、日本代表に選出されてからは、大学という枠の外で日本代表チームとして世界で戦うことになりましたが、二つの立場をそれぞれどのように意識して練習や試合に臨まれていたのでしょうか。
尾﨑 大学2年生くらいから、基本的には練習はナショナルトレーニングセンターで行うようになりました。大学ではチームを引っ張っていくという役割がありましたし、日本代表としては逆に引っ張ってもらうという立場でしたから、それぞれの立場を認識して、100パーセントのパフォーマンスで自分自身の役割を果たせるようにそれぞれやっていました。大学の練習に参加する際は、積極的に後輩にアドバイスを行ったり、ナショナルチームで得たものを共有することで、チームビルディングも意識して、法政大学がチームとしてレベルを上げ、チームとして勝つために必要なことをできる限り行うようにしてきたつもりです。
廣瀬 ぜひ伺ってみたいのですが、競技をしていると、調子の波もあるし、自分のピークを大会に合わせて持っていき、かつ継続的に実績を残すことは簡単なことでは無いと思っています。中学生の時から、それぞれの環境でトップアスリートとして結果を出してこられたお一人として、何か秘訣といいますか、意識してこられたことがあれば教えてください。
尾﨑 目標を見失ったり、苦しくてうまくいかない時、逆に調子が上がって勝てる時、そうしたギャップが大きくなればなるほど厳しい環境に置かれるのですが、自分がいつも意識しているのは、しっかりと具体的な目標を持ちイメージすることです。メダルを取るという大きな目標はもちろんですが、毎日の練習のなかでも、今日はここを意識してみよう、これをできるようにしようなど、どんな時も目標を見失わないように意識することで、次の大きな目標につながると思って取り組んでいます。また一日を振り返る時間を大切にしています。
廣瀬 これまで自分に課した目標を達成するために競技に取り組んできて、人生の軸の大部分がフェンシングにあると思いますが、尾﨑さんにとってそうした努力をする価値について言葉にするとしたらどうなりますか。
尾﨑 今まで確かに多くの時間をフェンシングに費やしてきました。練習しても結果につながらないこともありましたが、やはり勝てた時の達成感や喜びは、私のなかでは物凄い価値のあるものだと思っています。スポーツを通して人間力といったものを学ぶこともできましたし、これからも私が大切にするこうした価値にこだわり、スポーツを通して人間としても応援される選手になりたいと思っています。
廣瀬 法政大学では、フェンシング以外の学びについてはどうでしたか?
尾﨑 大学ではSSI(スポーツ・サイエンス・インスティテュート)の授業を履修していました。そこでは同じように競技に打ち込むトップアスリートも在籍していて、そうした空間はとても居心地が良かったです。スポーツに関する授業もあり、他の競技を行う人たちの考えに触れられたのも有意義でした。
廣瀬 大学を卒業し、実業団アスリートとして競技を続けるということですが、最後にこれからの抱負を伺えますか。
尾﨑 法政大学はSSIをはじめスポーツに理解のある大学で、競技に打ち込む環境も整っていて学業と両立することができました。トップアスリートに限らず、スポーツに本気で取り組みたいという学生にとっても、充実した学生生活を送れる場所だと思っています。本当に4年間法政大学で過ごすことができて良かったと思います。卒業後は実業団に所属して、競技を続けていくのですが、これまで以上に競技に専念できるため、さらに本格的にフェンシングに向き合っていこうと思います。次の大きな目標はやはり2028年のロサンゼルスです。個人、団体共に金メダルという大きな目標を持って臨みたいと思っています。
廣瀬 これからも期待して応援しています。本日はありがとうございました。
- 法学部国際政治学科4年 尾﨑 世梨(おざき せり)
フェンシング(サーブル)日本代表選手。2002年北海道札幌市生まれ。中学校入学後にフェンシングを始める。鹿児島県立鹿児島南高等学校卒業後、2021年法政大学入学。
2021年全日本学生選手権個人で優勝。2022年全日本フェンシング選手権個人で江村美咲選手に次ぐ2位。同年世界選手権(エジプト・カイロ)団体で銅メダル。2024年パリオリンピック団体で銅メダル。2025年ワールドカップ(ブルガリア・プロヴディフ)団体では、ワールドカップのサーブル種目では男女を通じて日本史上初となる金メダルを獲得。
- 法政大学総長 廣瀬 克哉(ひろせ かつや)
1958年奈良県生まれ。1981年東京大学法学部卒業。同大大学院法学政治学研究科修士課程修了後、1987年同大大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学、同年法学博士学位取得。1987年法政大学法学部助教授、1995年同教授、2014年より法政大学常務理事(2017年より副学長兼務)、2021年4月より総長。専門は行政学・公共政策学・地方自治。複数の自治体で情報公開条例・自治基本条例・議会基本条例などの制定を支援の他、情報公開審査会委員などを歴任。