「あなたの 『おいしい記憶』をおしえてください。」コンテスト

読売新聞社と中央公論新社は、キッコーマンの協賛を得て、「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」コンテストを開催しています。笑顔や優しさ、活力などを与えてくれるあなたの「おいしい記憶」を、私たちに教えてください。
第4回
キッコーマン賞
「母の味」
小島 由美子さん(岐阜県・58歳)
読売新聞社賞
「ルーもの」
手塚 絵里子さん(東京都・40歳)
入賞作品
「母の麦茶」
井上 秀子さん(東京都・45歳)
「魔法のふりかけ」
松田 万喜さん(愛知県・34歳)
「父の味噌汁」
米澤 泰子さん(福岡県・57歳)
「お雑煮」
河端 勢津子さん(東京都・64歳)
「醤油カレー」
相川 京子さん(千葉県・58歳)
「放課後のインスタントラーメン」
遠藤 玉江さん(埼玉県・55歳)
「ばあちゃんの冷凍ピザ」
吉本 千恵さん(大阪府・23歳)
「いなり寿司と妹」
益田 幸亮さん(東京都・65歳)
「弁当」
村岡 大二さん(埼玉県・43歳)
「スパイシーカレー」
菊池 啓さん(東京都・45歳)

※年齢は応募時

第4回
読売新聞社賞「ルーもの」手塚 絵里子さん(東京都・40歳)

 彼や夫を繋ぎ止めておくには、胃袋をつかめとよく言うが、その逆だってあると思う。私は何の変哲もない、普通のハヤシライスの味にやられて陥落した。

 若い頃の私は忙しかった。母子家庭で育ち、苦労する母を見てきたので、ばりばり働いて自立することばかり考えていた。就職するとすぐ家を出て、平日は夜中まで、ときには休日も働いた。

 当時お付き合いしていた彼とは月に数回しか会えず、たまに彼が遊びに来ても、一人放ったらかしにして外出することもあった。それでも一緒にいてくれることが有難い反面、このままではいられないという不安もあった。普通に結婚して落着きたいという彼の気持ちに反して、私は一人の生活を変えようという気がなかった。実家で兄弟の世話や家事をして過ごしてきた日々を思うと、やっと手に入れたマイペースな生活を手放すのが嫌だったのだ。

 ある日また私は、遊びにきた彼を部屋に置いて出勤していた。仕事を終えて夕方アパートに戻ると、換気扇から、甘酸っぱい美味しそうな香りが漂ってきている。ドアを開けて目の前のキッチンにあったのは、弱火にかかった鍋だった。

「おかえり。今日の夕飯はハヤシライスよ。」

 と、鍋をかき回しながら彼が言う。しばらく使っていなかった炊飯器からは久々に蒸気がたち、鍋の中ではつやつやと光るソースが煮えていた。その香ばしい匂いに、疲れて萎え気味だった食欲が猛烈に刺激された。具は細切れ肉ときのこと玉ねぎという、シンプルなハヤシライスだった。調味料入れの上には、見やすいよう立て掛けたルーの箱が置いてある。料理慣れしていない上にきっちりした性格の彼は、箱に書いてある説明書きを忠実になぞったのだろう。水の分量もしっかり量ってあり、私が普段大雑把に作るものよりずっととろみも強く、味が濃かった。疲れた胃袋に、ちょっと甘く、こってりしたルーが染みとおるようだった。おかわりしてお腹いっぱい食べて、子供にかえったような気分になった。

 王道のカレーでもなくハヤシだったのは、辛いものが苦手な私への配慮だった。私の家にはわさびも辛子も置いていない。それならカレーもだめだと、唯一作れる「ルーもの」で、辛くないものを選んだのだという。誰かが自分の好みを考えて材料を揃え、料理してくれたものを帰宅早々食べるなんて、なんという贅沢だろう。一人で作って数日食べ続けるものとは、全く別の食べ物のようだった。

 あー美味しかった、と畳にごろりと寝そべると

「どう?二人も悪くないでしょ?たまにはこんな特典もついてくるよ」

 と彼が言った。腹におちるとはよく言ったものだ。どんな説得よりもパンチがあった。翌年、私たちは夫婦になった。

 10年経った今でも、「ルーもの」は彼の担当だ。几帳面に説明書きに従う彼が作る方が、断然美味しい。教科書どおりの普通の味だが、私にとっては一人でないことの意味を教えてくれた、特別な味だ。

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