HOSEI ONLINEロゴ「自由を生き抜く実践知」を体現する卒業生・研究者などを紹介するサイト

法政大学×読売新聞オンライン HOSEI ONLINE
  • twitter-icon
  • facebook-icon
  • line-icon

問題に無関心でいることはできない
学び続け、戦い続けることの大切さ

上原 公子さん上原 公子さん

紛争の中でも有意義だった大学時代を共有

田中 本題に入る前に、やはり気になるのがお着物(笑)。私は長野の飯田紬を着てきましたが、上原さんは?

上原 今日は、山形の白鷹紬。この板締め染めという技法は、間もなく消えてしまうかもしれません。
私は「戦う女」としてすさまじいイメージをもたれていますが(笑)、実際はこうした文化をとても大切に考えていて、壊すためではなく守るために戦っているんです。

田中 文化を語るだけでなく、実践していらっしゃいますよね。
さて、法政へは1969年のご入学、私は1970年ですから、3年重なっているわけです。

上原 学園紛争が一番激しかった時期で、1年の時は授業も試験も、「粉砕」の名のもとほとんど行われませんでした。

田中 そこは1年の違いが大きくて、70年は紛争の質が変化したこともあり、学内での議論は自由にできましたし、授業もかなり再開されていましたね。
でも、やはりそうした環境の中で社会問題に対して目覚めたということはありますか。

上原 同級生には中心的な活動家もいて、一緒に行動はしなかったけれど、よく話をしました。私は彼らから、ノンポリと称して無関心でいることは卑怯だ、問題から逃げずに決断せよ、そう突きつけられたんです。
彼らが生命をかけてやろうとしていることが何か、当時はよくわかっていなかった。ただ、彼らの思いは背負わなければならないと感じました。暴力的な革命ではなく、私なりのやり方で引き継ごう......それが後の社会運動につながったことは確かですね。

田中 私の場合は人ではなく事件、たとえばベトナム戦争、沖縄返還と次々に起こる出来事自体から、お前は何者か、どこに立つのかと問われ続けて、それで、向き合っていく心づもりができた。やはり、そういう時代だったんですよね。

上原 いま思うと、そんなさなかの法政の先生方は素晴らしかった。集会で、学生に激しく追及されながら、毅然と答えていらした当時の中村哲(なかむらあきら)総長を思い出します。あの姿が、法政の伝統的な精神を表していたんでしょうね。

田中 私もその場にいました。当時は反発を感じるところもありましたが、きちんと反応してくれたからこそ私たちが考えるきっかけになった。そういう体験をたくさんさせてくれた4年間でしたね。

自分という軸を持って学んでいく

田中 卒業後は大学院に進まれた。当時の院はなかなか入れなかったでしょう。

上原 実は日本史の卒論が、大学の代表に選ばれて、関東の大会に出たんです。資料がほとんどなかったので、いろんな大学の専門の先生のところに押しかけて、緑の黒髪の大学荒らしがいるというウワサが(笑)。そんなやる気を認めていただけたのか、運よく入れました。

田中 まさに、知りたいことは自らつかんでいくタイプ。その後もいろんな大学や大学院で勉強されていますね。

上原 法政、一橋、農工大......聴講生でなく、盗聴生という場合も多いんですが(笑)。
運動をやっていると、たとえば道路問題で都市計画とか、水質問題で地球科学や生態学とか、勉強したいことがたくさん出てくるんですが、本や講演会ではわからない。それで、社会学から化学まで、雑学的に広く学ばせていただきました。

田中 勉強のやり方には、狭い範囲を深く掘り下げるか、上原さんのように自分という軸があって、知りたいことをあれもこれも吸収して自分なりに消化していくか、2種類ありますよね。私も後者なんですが、研究者としては異端だと言われ続けている。
絞ろうと思ったこともありますが、無理でした。大事なのはわかることであって、エキスパートになることではありませんから。

上原 私の場合、結果的に、市長として物事を総体的・俯瞰的に見る目が養われていました。もちろん、市長になればなったで、勉強することは増えましたけどね。

田中 総長選挙のとき、研究を続けたかったので断ろうとしたら、いい勉強のチャンスだと言われたんです。実際、専門外の高等教育や学校経営に、勉強しながら取り組んでいると、その向こう側に日本の仕組みとか世界とか、机の上では絶対に見えないものが見通せるようになる。市長というお立場ならなおさらだったでしょう。

上原 大学通いは、人脈づくりという収穫も大きかったですね。いろいろな施策を、先生方に手伝っていただきました。
大学にとっては、地域がひとつの実験の場になり、学生がそこに参加することで、足元の問題を扱う生きた学問を学べる。地域と大学双方にメリットのある関係が作れたと考えています。

田中 地域ごとの事情があって容易ではありませんが、大学としても取り組んでいきたい課題ですね。

生活者の代表として政治の場に

田中 そもそも「生活クラブ生協」の国立市での立ち上げに関わられたのは、子育ての真っ最中ですよね。

上原 娘がひどいアトピーで、これは自分が気をつけずにものを食べてきたせいだと。まずは、自分の分身の命を守り切ることが出発点でした。

田中 平塚らいてうが消費組合運動を始めたのも、母親になったことがきっかけだったんです。
でも、政治家ということになると、身近な人への責任ではすみませんよね。

上原 「生活者ネットワーク」の前身が初めて都議を当選させた選挙にかかわったこと、ほぼ同時期に、娘の小学校の校庭を分断する道路建設反対の運動に参加したこと、その中で、自分たちの代表者が、物事を決定する側にいることの重要性はよくわかったんです。
それでも自分が出るのは躊躇しましたが、断り切れずに市議になった。ものすごく勉強して、練りに練った質問で、答弁する市の職員に恐れられました(笑)。

田中 そこからさらに市長へ......そのご決断はどこから?

上原 いったんは運動に戻りますが、あらためて考えると、実現したいことを訴えるばかり、要求するばかりではいけない、自分で責任をとらなければ、と。
それで、やむなくですけど、市長選出馬の要請を受けた。でも、東京で前例のない女性市長、議会は圧倒的に保守、だれも当選すると思ってなかったんですよ。ただ、街宣でのとくに女性の手応えから、私だけはいけるんじゃないかと感じていました。

田中 党の力があって、その上に乗っかっているだけの候補者とは明らかに違ったんでしょう。
その後のご活躍はよく知られているところ。上原さんのような、自治を守る首長が増えてくると、国もおいそれとなぎ倒すことはできなくなるんですけどね。

上原 でも、市長になって初めてわかったことですが、国の締め付けは本当に巧妙なんです。私の場合は議会も反対多数でしたから、言いたいことを抑えて妥協しないことには予算も一切通らなかった。
いまは首輪がはずれたので、堂々となんでも言えますけど。

田中 すごいご経験でしたね。それを今後どんなふうに生かされるか、楽しみです。
ありがとうございました。


元国立市長 上原 公子(うえはら ひろこ)

1949年宮崎県生まれ。法政大学文学部卒。同大学院人文科学研究科中退。その後、主婦として東京都国立市で暮らしながら生活クラブ生協の組織作りに関わり、1989年東京・生活者ネットワーク代表。1991年に国立市議に当選。1993年水源開発問題全国連絡会事務局、1996年国立市景観権訴訟原告団幹事を歴任。1999年の統一地方選挙で3選をめざす現職と激戦の末、国立市長に当選。東京都初(全国でも4人目)の女性市長となり、2期8年を務める。現在、脱原発をめざす首長会議事務局長、法政大学評議員。

法政大学総長 田中 優子(たなか ゆうこ)

1952年神奈川県生まれ。1974年法政大学文学部卒業。同大大学院人文科学研究科修士課程修了後、同大大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。2014年4月より法政大学総長に就任。専攻は江戸時代の文学・生活文化、アジア比較文化。行政改革審議会委員、国土交通省審議会委員、文部科学省学術審議会委員を歴任。日本私立大学連盟常務理事、大学基準協会理事、サントリー芸術財団理事など、学外活動も多く、TV・ラジオなどの出演も多数。


サイトポリシー

「ヨミウリ・オンライン」の偽サイトにご注意ください