多様なことばに出合い、入り込むことで見えてくる世界がある
―純文学がもたらす価値とは―
グレゴリー・ケズナジャット准教授
24時間大学にいるような楽しさがあった京都での学生生活
廣瀬 本日はGIS(グローバル教養学部)准教授で作家のグレゴリー・ケズナジャット先生をお迎えしました。芥川賞候補作となった『開墾地』には、アメリカ南部で「kudzu」として定着している植物の名前の語源が日本語の「葛」であることを知って、アメリカ出身の登場人物が衝撃を受ける場面があります。生まれ育った環境に普通に存在したものが、全く異なる世界との繋がりの中で現れたものだと知った瞬間に、まさに世界が違って見えはじめる感覚が鮮やかに描かれていました。
そこから思い出したエピソードがあります。インターネットが普及し始めた頃に出席した国際会議で、インターネットが急速に普及していく状況を捉え「インターネットは人類の輝かしい未来なのかそれとも際限なく蔓延って困るkudzuなのか」という発表を、アメリカ人の専門家がされていました。人手では抑えられないほどに蔓延る葛を、コントロール不能な困った存在の象徴としたのでしょう。発表者はアメリカ固有の困った植物のことを日本人に一生懸命解説されようとしていたのですが、葛は日本原産と考えられている植物で、1876年のフィラデルフィア万博の時に日本が持ち込み、アメリカの風土にも合い、便利な面もあって広がったことはご存じなかったようでした。あわせてこの報告のタイトルは、日本語ではごみクズのクズとのダブルミーニングになっていてとても面白く感じたことを覚えています。
ケズナジャット 現代の日本語では、外来語はカタカナ表記されるためわかりやすいのですが、英語では視覚的に区別できない言葉も多いため、語源はさほど意識されません。例えば私の出身地であるアメリカ南部には、先住民やヨーロッパ各地の言葉、アフリカの言葉などが日常会話に出てきますが、全てが「英語」だという感覚が強いのです。
廣瀬 私は奈良県で関西言葉の中で育ちましたが、大学進学時から45年以上東京にいます。ですからだんだん関西言葉が話せなくなり、家族に「偽物の関西弁になった」と言われた時は、自分が属していた世界でいつの間にか、他所者になった感覚になりました。これは『開墾地』で、主人公が日本から故郷に帰ってもその社会に戻れない感覚に似ている気がします。
ケズナジャット 確かに近いところがあると思います。私も日本では標準的な英語で話しますが、アメリカに帰って家族と話す時にはなぜか南部方言が強く出ます。多分無意識的に「私は他所者ではないよ、今は別の所に住んでいるけれども、いまだに仲間だよ」とアピールしているのでしょう。これから10年20年日本に住んでアメリカに行った時には「その方言は違う」と同じように言われると思います。
廣瀬 私も関西で講演を行う際、壇上では関西のアクセントは出ません。講演後に雑談する時には関西のアクセントを意識的に使っていますが、やはり「私は関西人です」とアピールしているんでしょうね。
ケズナジャット先生も関西に滞在されていました。京都で外国語指導助手(ALT)をされた後、京都の大学院に進まれましたが、京都での生活はいかがでしたか。
ケズナジャット 幸運にもALTの希望先として競争率の高い京都に来ることができました。京都は、新しい建築物で絶えずリニューアルされている東京とは違い、どこからも山が見えて、自然や歴史が身近に感じられるとても居心地の良いところでした。いつか京都に別荘を持つことが、今のささやかな夢となっています。
廣瀬 私の出身高校の同級生の3分の1以上は京都の大学に進学しました。大学の頃、奈良に帰省する際は京都で途中下車して同級生のアパートを泊まり歩いていました。京都は町のサイズもちょうどよく、友達と生活空間を共有できるのが羨ましかったです。18歳に戻れるならば、次は京都の大学に入ってみたいです。
ケズナジャット 私が住んでいた「鴨川デルタ」の辺りには同志社大学と京都大学の学生が多く住んでいて、歩くと教員や学生に会います。24時間大学にいるような楽しさがあり、アメリカやイギリスの大学寮にいる感覚にも近いと感じています。
日本語と向き合い格闘し、自分の表現を作り上げる
廣瀬 日本語の本をたくさん読むうちに、日本語で作品を書き始めたそうですね。どのようなきっかけで小説を書き始めたのですか。
ケズナジャット もともと日本語の語彙力を増やしたいという非常に実践的な考えから日本語の本を読み始め、日本語の文章を書く練習として日記を始めました。すると気がついたら、当時読んでいた小説の文体が日記にうつっていたんです。ほぼ事実だけを書いたのに、自然と小説の形になっていました。ところが、改めて小説を書こうと意識した途端、何も出てきませんでした。とにかくいろいろ試しながら続けるうちに、ようやく小説のようなものができました。
廣瀬 なるほど、事実だけを書いていた日記が自然と小説のような形になっていたのですね。これまで英語で小説を書かれたことはありますか。
ケズナジャット 趣味で書いていましたし、大学生の時は小説講座の授業にも出ていました。
廣瀬 小説を英語で書くのと日本語で書くのは何か違いはありますか。
ケズナジャット 全く違います。母語だとあまりに滑らかに言葉が出るので、気づいたらどこかで聞いた論や言い回しになってしまうことが多々あります。一方、第二言語で書く時は、言語と向き合う姿勢が変わります。この言語は自分のものではないという警戒心のようなものがあって、本当に言葉と格闘するため、結果として文章の濃度が上がります。第一言語でも第二言語でも、言葉は常に「自分のものではない」ものですが、私の場合は英語で書く時よりも、日本語で書く時の方が自分の表現になっている感覚がしています。
廣瀬 先生のデビュー作である『鴨川ランナー』の舞台は日本で、英語ネイティブの著者が日本語で書いています。逆に『開墾地』では、アメリカ南部を舞台に、英語圏で生きるペルシャ語ネイティブの父親を取り巻く社会を、日本から戻ってきた英語ネイティブの息子の視点から日本語で書くという、3つの言語が飛び交う三重の世界が展開しています。立体的なおかつ複雑な構図で、これを英語ではなく、舞台と距離のある日本語で表現したことで客観化しやすかったのではないかと感じました。
ケズナジャット 私の父はイランで生まれペルシャ語を母語としてアメリカ南部に住んでいましたが、私はこれまでそのことを深く考えていませんでした。ところが、自分が日本語の中で生活したことで、初めて父の苦労に気づき、作品でその問題意識を探求したいと思ったのです。ですから、主人公には別の言語の視点が必要だったのです。
廣瀬 複数の言語の世界にまたがることで「世界が開ける」感覚も描かれていました。翻って日本社会を見ると、中高6年間英語を学んでも、世界が開けるような面白さを感じることができていないようにも思います。
ケズナジャット 今の学生にとって英語は義務になっているので、知的娯楽として純粋に関心を持つことが難しいのでしょう。本当の意味で外国語を学ぶと見えてくる開かれた感覚や、「この言語の中で思考している人は自分とは違う世界の見方をしているのかもしれない」といった好奇心が一番大事なのにもかかわらず、私たちは英語を実用的なツールに矮小化してしまっており、学生から外国語を学ぶことを楽しむ機会を奪っているのかもしれません。
周りの日本人を見ると、柔軟性があって割り切って演技ができる人は語学の上達が早く、逆に真面目であればあるほどつまずいています。それも語学の難しさであり面白さでもあるのですが。
廣瀬 実際、日本人とヨーロッパ人では英語の習得にかかる時間は全く違います。
ケズナジャット それは必ずしも文法や文化的背景の違いだけが原因ではなく、日本は文化とメディアが充実していて外に出なくても困らない環境にあるということが大きいと思います。不足を感じ、それを埋めるために言語を勉強したいと思わない限り、モチベーションの維持は難しい。その世界に入り込み、不条理と戦いながら言語のあり方に付き合っていく姿勢、その言語の中で新たな自分を作ろうとする意思が非常に大切です。
廣瀬 私はApple社の製品を好んで使っていて、ある時期、いち早く新製品の情報を知りたいがために、スティーブ・ジョブズ自身による新製品発表をライブで見るようにしていたのですが、プレゼンテーションに夢中になりながら、ふと「今何語で聞いていたかな?」と思ったことがあります。つまり、英語を意識しないで「ジョブズのプレゼン」にのめり込んでいたわけです。その頃から、自分は英語を学ぶというよりも英語で学ぶところに近づけた感じがしたことを覚えています。
ケズナジャット 多分そこに語学との向き合い方の本質があると思います。
純文学は「ゆるやかな世界」を持つことの価値を教えてくれる
廣瀬 学生が使う日々の言葉を聞くと、省略化された薄っぺらな言葉が気になることがあります。第二言語話者としてそうした言葉への率直な感想をお聞かせください。
ケズナジャット 例えば「ヤバい」といった言葉の汎用性はすごいですね。とはいえ、言葉は常に更新されるものであり、特に若者の造語や自由な言葉遊びが刷新の源であると思います。実際、いわゆる若者言葉で純文学を書いている作家もたくさんいます。純文学は、日常で何気なく使っている言葉の表現性を深く探る場であって、やはり今の学生にそのような作品を読んでみてほしいと思います。私たちはこれまでの世代と全く違う形で日常的に言語に接しています。常にインターネットを見ることで、すぐに感情反応を起こすような極端な言葉で感覚を麻痺させている。一方、純文学はある意味でスロー・リーディングというか、ゆっくり咀嚼しないと読めません。最初は苦しいかもしれませんが、慣れると瞑想のように日常生活に余裕をもたらしてくれます。言語を豊かにする意味でも、思考力を高める意味でも、この現代において心の安らぎを得るためにも、学生には純文学に接してほしいと思っています。
廣瀬 動画でも1.5倍速が若者の標準です。効率的に情報を取り込むにはいいのかもしれませんが、自分の中にゆるやかな世界を持つことの価値を純文学が教えてくれるかもしれません。先生は大学で文学と情報科学の二つを専攻されたそうですが、どのような動機でこの組み合わせを選ばれたのですか。
ケズナジャット 昔から、読書、創作、プログラミングが好きで、大学入学時には周りからのアドバイスでコンピュータサインスを専攻しました。そして、趣味として参加していた文学の授業数が専攻科目と同じくらいになったため、両方の学位を取ることにしました。実際やってみて、この二つは深いところでつながっていると思いました。文学を勉強していると、言語がどういう風に情報を表すのかとか、記号とは何かといったことを深く考えますが、プログラミングでも同じことで、どちらも言葉を使って言葉以上のものを作り上げるという共通点がある。自分にとって両者は、相乗効果を生み出していると感じています。
廣瀬 両方に深く触れ続けることから、自然にその共通性が見えるようになっていったのかもしれないですね。好きなことを組み合わせて面白いと思う方へ進んでいくと、違う世界でつながっていくのかもしれません。
ケズナジャット お話ししていて、本当にそう思えてきました。コンピューターサイエンスも、日本語も、文学も具体的な目標があって勉強したわけではなく、好奇心に動かされてやってきました。法政の学生の皆さんにも自分の好奇心に忠実に進んで行ってほしいと思います。今は1年生からキャリアを視野に入れている学生も多い一方、学生生活でしかできない大事な学びを見失っていないか心配になることもあります。
廣瀬 一番自分の好奇心に忠実になれるのが大学生の世界ですから、その時間を大切にしてほしいですよね。
本日は本当に楽しくお話しができました。ありがとうございました。
ケズナジャット ありがとうございました。
- 法政大学GIS(グローバル教養学部)准教授 グレゴリー・ケズナジャット(Gregory Khezrnejat)
1984年生まれ。米国クレムソン大学文学部英文学科と同大学理工学部情報科学科卒業、同志社大学大学院文学研究科国文学専攻博士前期課程、同博士後期課程修了。博士(国文学)。関西大学非常勤講師、青山学院大学地球社会共生学部助教などを経て、2019年に法政大学GIS助教として着任。2021年に准教授。
2021年に『鴨川ランナー』が第2回京都文学賞の一般部門と海外部門の両方で最優秀賞を受賞。2022年に『開墾地』が第168回芥川賞の候補作に。両作品とも講談社から単行本として刊行。
- 法政大学総長 廣瀬 克哉(ひろせ かつや)
1958年奈良県生まれ。1981年東京大学法学部卒業。同大大学院法学政治学研究科修士課程修了後、1987年同大大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学、同年法学博士学位取得。1987年法政大学法学部助教授、1995年同教授、2014年より法政大学常務理事(2017年より副学長兼務)、2021年4月より総長。専門は行政学・公共政策学・地方自治。複数の自治体で情報公開条例・自治基本条例・議会基本条例などの制定を支援の他、情報公開審査会委員などを歴任。