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自分とは違う目で世界をとらえてきた人と出会い、
外の世界ともつながっていってほしい

廣瀬 克哉さん廣瀬 克哉さん

郊外の住宅地の変遷から社会全体のあり方を考えていく

田中 本日は4月から法政大学総長に就任される廣瀬克哉先生の素顔に迫りたいと思います。実はこれまで大学についての話ばかりで、ゆっくりと先生ご自身について伺う機会がなかったのでとても楽しみにしています。ご出身は奈良だとか。

廣瀬 はい。現在の奈良には古都と大阪郊外の新興住宅地という二つの顔がありますが、私は後者の地区で育ちました。両親ともに大阪育ちで父の仕事先も大阪でしたので、奈良に住んでいても大阪圏の人間という感覚でした。

田中 小さい頃はどんなことに関心を持っていらしたのでしょうか。とても関心領域が広くていらっしゃるので、今のご専門とは異なることにも知的好奇心をお持ちだったに違いないと思うのですが。

廣瀬 母方の叔父が一級建築士だったこともあって、昔から建築には興味を持っていました。今でもゼミのテキストは、半分は自治体政策の専門家が書いたものですが、もう半分は都市政策や街づくりの専門家が書いたものを使っています。東日本大震災後、日本建築学会の学会誌であり建築に関する批評誌でもある『建築雑誌』に2回ほどインタビューや座談会に出していただきました。我々は他の専門の学会誌に関わることは基本的にはないことなので、とても光栄なことだと思っています。

田中 そうですか。では建築の世界に進んでも不思議ではありませんが、そうしようとは思われなかったのですか。

廣瀬 空間を捉える力に優れていない自覚があり難しいと思いました。一方、娘は小学生の頃から立体的なことを理解する能力があったので建築の面白さをよく話しました。建築学科を卒業して現在はハウスメーカーに勤務しています。

田中 奈良ご出身ですが、寺社建築ではなく近代的な建築に関心がおありだったのですね。

廣瀬 郊外の住宅地の変遷に関心がありました。私が育った街も1955年ごろから開発が進んだ地区で、私が育った頃は街自体も子どもが多く若々しかったのですが、子どもたちは巣立っていき、やがて後期高齢者中心の街になり、近年にいたって世代交替でようやく次世代が入ってくるという典型的な郊外の住宅地のライフサイクルとなっています。社会の縮図としてのこうしたプロセスを見ながら、まちの持続可能性や循環の望ましい姿を考えていきたいと常に思っています。

田中 当時は集合住宅もずいぶん建てられましたが、先生のお住まいの周りは一戸建てが多かったのですか。

廣瀬 丘陵地が開発されて「マッチ箱が並んでいる」と評されたような、小さな戸建て住宅が一面に並んでいる典型的な新興住宅地でした。うちも最初は平屋でしたが、5歳下の妹が大きくなってきた頃に2階建てに増築しました。同じように周りも増築する家も多かったのは高度成長の成果です。平屋の頃はピアノを置く場所がなく、私はマリンバを習っていましたが、妹は小学生でピアノを習い始めました。

田中 そういう情操教育の歴史も興味深いですね。私にも5歳上の兄がいまして、下町育ちなのに兄も私もバイオリンを習っていました。ピアノは買えないし置けないので、鈴木メソッドが広がっていった時期だったこともあってバイオリンでした。戦後史の中で子ども達がお稽古事をする時代があり、それが情操に影響を与えていきました。廣瀬先生も音楽をされていたからでしょうか、歌がたいへんお上手ですよね。校歌を歌う時に隣にいらっしゃるので、いつも聞き惚れていました。

廣瀬 実は音楽に夢中になった時期がありました。中学校に進学した1971年当時はフォークブーム。北山修の影響を強く受けた時代の中で親にねだってギターを買ってもらい、高校の文化祭ではステージで弾きました。さらには、ヤマハのポピュラーソングコンテストの作曲部門にも応募。西日本の決勝には残ったのですが、残念ながら全国大会には進めませんでした。同じステージから全国大会に出たのは、後に社会人入学で法政大学を卒業された庄野真代さんでした。2016年度の武道館で行われた学位授与式で来賓として祝辞をいただきましたが、その時私も理事として壇上にいたので、40年の時を経て同じステージにたつ機会が得られました。

田中 私もフォークソングに影響され、やはり高校生のころはギターを弾いていました。京都を中心に関西はフォークが盛んでした。その中で西日本の決勝に残るなんてすごい。そういえば廣瀬先生は、関西弁のイントネーションがありませんね。

廣瀬 ある時、ずっと大阪にいる妹から「お兄ちゃんの関西弁は変や」と言われ、似非関西弁を話すくらいならとやめました。高校の同級生からは「お前は関西弁を捨てたのか」と言われることもあります。ただ、私は地方自治体で講演する機会が多いのですが、大学での授業や関西以外の地方での講演で使わないせいか、関西の自治体でも関西弁での講演はどうもしっくり来ないんです。実は今私が話しているのは完全な共通語ではなく、自分なりにあらゆるイントネーションを平準化した言葉を発しているつもりです。イントネーションを意識しているせいか、普段生活をしていても地域特有の小さな発音の違いなどにも敏感になってしまっています。

田中 面白い。やっぱり音の感覚が鋭いのですね。

社会全般の観点と専門家の視点の両者のバランスを大切にしてきた

田中 大学は東京大学の法学部政治学科に進まれました。

廣瀬 最初に取り組んだのは防衛庁の文民統制に関する研究でした。技術革新が進む軍事については専門家でないとわからないことがばかりですが、かといって専門家に丸投げしてしまうのは国民生活に大きく関わる大問題なのでそんなことはとてもできない。素人が物事を決めてもうまくいかないですが、専門家に任せきるわけにもいかない。そういった事柄をどんな風に社会の中に上手く組み込んで民主主義が損なわれない形にしていくかということが私の関心事でした。その研究結果は1989年に『官僚と軍人』という本にまとめました。

田中 そのご著書は櫻田會の奨励賞をお取りになりましたね。その後はどんな研究をされましたか。

廣瀬 この後、軍事から電気通信や情報政策の方に関心を移していきました。なぜ関心領域を変えたかというと、軍事について自分は専門の外側の人間だということを強く感じていたからです。専門性と民主性という観点で論じるときに、ある程度の専門の内側を理解して議論することができないと限界があるというふうに感じました。当時、新しい世代の専門家が言っていることを半分くらいならわかるなと思ったのがITの領域でした。ちょうど1990年代半ばでインターネットが社会の普通の道具になっていく過程にあり、情報通信の技術的な転換、規制行政の劇的な転換が迫られていました。若手の専門家たちと話をしている中で、この領域であれば消費者や社会全般の観点と専門家の視点の両者をバランスよく見ることができるのではないかと思ったわけです。また、インターネットが世の中全体を変えていく勢いや影響の深みとか範囲の広さとかが非常に大きなものだとも思いましたので、研究対象をこちらに移す決断をしました。ウィンドウズ95が出て初めてインターネットが世の中の普通の道具になったとたん、自治体もインターネットで情報発信する必要が出てきたプロセスの中で、いろいろな自治体の人と知り合うことにもなりました。現場の人たちと一緒に勉強会をしたり、「自治体の情報戦略」といったテーマの研修の講師をさせていただいたり、そういう機会が90年代から増えていきました。結果として、全学のネットワークの整備や総合情報センターの仕事など、研究領域で得た知識を活用して大学運営においても貢献できました。

田中 まさに最先端の領域に関わっていらしたのですね。

廣瀬 1996年には、社会や評論の世界からインターネットを見てきた立場から『インターネットが変える世界』という新書を共著で出しました。ちょうど同じ時期に、慶應義塾大学の村井純さんが技術を作ってきた当時者としての立場から書かれた『インターネット』という新書が話題になり、一緒に座談会に出たりしていました。津野海太郎さんという編集者でもあり演劇人でもある大変面白い方が大日本印刷と組み、エディトリアルデザインには平野甲賀さんを迎えた『本とコンピュータ』という季刊誌を1997年に発行されたのですが、そこにもレギュラー執筆陣として関わらせていただきました。この雑誌で力強いグラフィックデザインをされていた平野甲賀さんが実は隠れ法政ファンだったことがわかったのも嬉しい発見でした。市ケ谷キャンパスの学生会館で開催されるジャズライブに通われていたとのこと。70年代のアングラ文化の中心にいた方々と90年代末にインターネットをめぐる評論の分野でご一緒できたのは刺激的な経験でした。また同じ頃、読売新聞で「マルチ読書」といって電子会議で書評座談会をするという企画に2~3年にわたって参加するなど、読むこととICTとの関わりといった領域の仕事を90年代後半にたくさんさせていただきました。

現状打開の突破口は議会とマニフェストで有権者と政策をつなぐこと

田中 多様なものを繋ぐ編集、デザイン、そしてインターネットに深く関わっていらした。そして現在のご専門は地方自治です。

廣瀬 そうですね。自治体の仕事ほど身近なものはないですが、それを成り立たせる仕組みがこれほど身近でないものは珍しいという意味での課題を感じている領域です。例えば、バックヤードのことをわかっていない首長や国会議員が政治的には良かれと思って指示することが、現場に負担だけをかけて結果はかえって良くないといった本末転倒な事例が少なくありません。コロナ禍での様々な政策においてもこうした例は多いと感じています。必ずしも政治家が専門家である必要はありませんが、住民の素朴な問題意識とバックヤードのしくみがどうすれ違っているのかは把握して、間をうまく橋渡しすることが必要です。とくに「分かりやすい」政治的判断が的外れで本末転倒だとわかった時は、その原因を見極めて是正する意思決定をすべきです。多様な代表で構成されていて、公開の場で議論できる議会こそが、そういう役割の期待される場所なのですが、実際にはそのようには機能していないことが多い。こうした現状を踏まえた上で自治体職員や議員の方と勉強会をしていく中で、現状を打開する突破口となりうるのは地方議会と、マニフェストという道具を使って有権者と政策をつなぐことの2つであると思い至りました。そして、自分なりの視点で地方議会改革を観察、分析しながら、現実を少しづつ理想に近づけていくための伴走者としての役割も果たせるのではとも思うようになりました。

田中 いろいろな自治体に足を運ばれたのでしょう。

廣瀬 2010年前後には毎年訪れる県の数が30に迫る感じでした。週に3回日帰りで岡山県に出張したこともあります。

田中 市という単位となるとたくさんありますよね。

廣瀬 市町村は1700以上あります。流石に訪問しきれませんが、点在する訪問先に蒔いた種が横に広がっていく面がある。例えば、1970年代に法政大学法学部で学ばれた会津若松市議会の目黒章三郎議長は自分たちの議会だけではなく同じ会津地域の議会にも、また改革の志ある全国の議員の動きにも目を向けて全体をよりよくしていこうという運動を広げています。

田中 組織化されているのですか。

廣瀬 組織というよりも各地に自主勉強会がなんとなくでき、お互いが継続的なコミュニケーションを取りながらあちこちに種を蒔いていく活動に近いですね。

田中 お話を伺っていると、まさに運動です。法政大学がつくられた明治時代初期も結社の運動が社会を変えました。その時代の動きに通じるものがあります。実際、組織化するよりも横に広げていく方が伝わりやすいとお感じになっていますか。

廣瀬 そうですね。ある地域に面白い人がいると横のつながりができ、ふと気づくと大きな変化になっているというケースが多いことを私自身共に学ぶ中で気づかされました。1986年にできた自治体学会もこういった流れが学会という形になったものです。

田中 今でも広がり続けていますか。

廣瀬 自治体学会設立の頃に若手職員だった人がすでにリタイアする年齢を迎えているため世代交替しつつあります。現在、法政の社会人大学院で博士課程に在籍している大学院生である自治体職員の中堅の方は、実際に1980年代の地方自治で活躍したロールモデルともいうべき世代と若手職員とのつながりが切れてしまったことに危機意識を持ち、先輩にあたる世代の自治体職員の自主勉強会などの歴史を研究しながら、次世代を育成していくために地方自治に関心のある学生に向けた講演を頻繁にしています。また、埼玉で市長を巻き込んで政策提案の勉強会をしている団体のプレゼン担当をし、マニフェスト大賞の優秀賞を受賞した学部生もいます。おそらく、他にも法政大学の中に発掘しきれていないネットワークが生き生きと動いているに違いないと思っています。いろいろな世代に生まれてきている多様な動きを、タテにヨコにつないでいくことが60代を迎えた私の次の課題だと思っています。そのことで、法政大学の中でも面白い活動がもっと広がるのではないかと思っています。

田中 実際に大学は教員も学生も、外へのネットワークを持っています。この外への広がりを発見しながら強めていくと、在学生たちにも、大きな可能性を見せられると思います。

廣瀬 外とつながっている先生が多いのが法政の特長でもあります。そういう自由な組織文化に魅力を感じて法政に転職してきた先生もいます。そうした先生が持ち込んできてくれる外とのつながりを大学全体の共有資産にすることは大学自体を強めるし、より面白い場にすると思います。

田中 最後に、在学生やこれから入ってくる新入生へのメッセージを、ぜひお願いいたします。

廣瀬 大学では交遊範囲がぐんと広がります。例えば、本気でアスリートを目指していた人など、これまで自分とは違う目で世界をとらえてきた人とも出会えます。大学では「世の中には本当にこんな人がいるのだ!」という驚く対象になる人と深く交流してほしいと思います。その上で、大学の中だけで閉じこもっていないで外にも目を向けてほしい。そこから、自分ならこういう風に行動するということが見えてくると思います。コロナ禍で制約が多いとは思いますが、制約があるからこそどうやって乗り越えるか知恵を絞ることになる。スポーツだってルールがないと成立しないし面白くないですよね。制約の中で面白いことを考えていくようなポジティブさを持って行動してほしいと思います。

田中 素晴らしいメッセージをありがとうございます。4月からのご活躍を大いに期待しております。


法政大学常務理事・副学長 廣瀬 克哉(ひろせ かつや)

1958年奈良県生まれ。1981年東京大学法学部第三類卒業。同大大学院法学政治学研究科修士課程修了後、1987年同大大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学、同年法学博士学位取得。1987年法政大学法学部助教授、1995年同教授、2014年より法政大学常務理事(2017年より副学長兼務)、2021年4月より総長就任予定。専門は行政学・公共政策学・地方自治。複数の自治体で情報公開条例・自治基本条例・議会基本条例などの制定を支援の他、情報公開審査会委員などを歴任。

法政大学総長 田中 優子(たなか ゆうこ)

1952年神奈川県生まれ。1974年法政大学文学部卒業。同大大学院人文科学研究科修士課程修了後、同大大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。2014年4月より法政大学総長に就任。専攻は江戸時代の文学・生活文化、アジア比較文化。行政改革審議会委員、国土交通省審議会委員、文部科学省学術審議会委員を歴任。日本私立大学連盟常務理事、大学基準協会理事、サントリー芸術財団理事など、学外活動も多く、TV・ラジオなどの出演も多数。


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