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それぞれの能力を生かす活動から、精神的な豊かさを広めていきたい

庄野真代さん庄野真代さん

社会人入学で環境問題とボランティアに取り組む

田中 庄野さんは社会人学生として2000年から4年間、法政大学人間環境学部で学ばれましたが、きっかけは何だったのですか?

庄野 大学で学びたいと思ったきっかけは、1980年から2年間で世界中を周ったのですが、訪れた国々で地球環境のかけがえのなさを痛感したんです。当時の日本は大量生産、大量消費、大量廃棄の時代。「旅人」としては、自分が見てきたことを伝えるのが使命と思いながらも、専門的な知識がないために体験の切り売りしかできない自分に限界を感じていました。そんな時、事故と病気で入院。病室で、人生でやり残したことを一つ一つノートに書いていったんです。「環境の勉強」もその一つでした。退院後、たまった新聞を読んでいたら「法政大学が人間環境学部を作り、社会人入試を行う」という記事に出会いました。運命的なものを感じ、早速願書を取り寄せて受験しました。試験は、小論文と面接。面接の時、「教員は教えるのではなく、学生と同じ目線で一緒にものを考えるべきだと思う」とおっしゃった先生の言葉に感激したのを今でも覚えています。合格通知をいただいた時はうれしい反面、果たして仕事と学業を両立できるか不安でしたが、月火水木が学業中心、金土日は仕事中心という一週間のスケジュールで4年間がんばりました。

田中 ただでさえお忙しいのに、在学中にはボランティアのサークルを作られて活動されていたそうですね。

庄野 2年生の時に作ったサークルが、現在私が代表を務めるNPO法人「国境なき楽団」の前身です。「ボランティア論」の授業で、何かプロジェクトを作って参加するという課題があったんです。ちょうど私はホスピスで母を看取った直後。課題を聞いて、ホスピスの看護師さんの「入院患者のためのコンサートを開きたい」という言葉がよみがえりました。そこで、「コンサートの配達をする」という企画を出したところ、「是非、他の学生にも呼び掛けてください」と言われたんです。声を掛けると多くの学生が共感してくれましたので、任意団体「TSUBASA music デリバリー」を立ち上げ、数多くの施設や老人ホームを訪問しました。法政大学の助成金制度にも採用され、大変励みになりました。

田中 若い人と共に学ぶ経験はいかがでしたか。

庄野 大学では金髪で鎖をチャラチャラ付けている男子学生が、ボランティア活動ではおじいちゃんと手をつないでお話している姿を見て、目頭が熱くなったり、そんな学生たちのご両親が様子を見に来て御礼を言われたりと、彼らが本来持っているものを出せてよかったと感動する経験がたくさんありました。

田中 法政の学生は格好も言葉遣いもいろいろですが、実際はナイーブで優しい子が多いですよね。

庄野 本当にそうですね。そういう内面が活動を通じて見えるようになるんです。

人が豊かにならないと、国も豊かになれない

田中 庄野さんのようなプロの音楽家と交流する機会は、学生にとっても貴重だったと思います。

庄野 打ち合わせの手順や、音響の機材の借り方、出演者とのコミュニケーション方法など、勉強会を重ねて本番に臨みました。この時の仲間の一人が音楽会社に就職し、今も時々NPO活動を手伝ってくれていますし、地方に転勤になったメンバーや嫁いだメンバーともしっかりつながっています。

田中 在学中はロンドンに留学し、さらに学びを追求されましたね。

庄野 3年の後期と4年の前期を使って1年間、ロンドンのウエストミンスター大学に留学しました。人材派遣会社が奨学金を出してくれるという新聞記事を見つけて応募したんです。留学中にボランティア活動をしようと思っていたら、すぐに有名な国際NGOのOXFAM のチャリティーショップでの仕事募集の張り紙を発見。早速足を運ぶと、「今忙しいから来週くらいに来てくれる?」と言われたので、「忙しいんだったら今から手伝います」と言ったら、即採用されました。ここでは、ボランティア先進国の気持ちの良いボランティアのスタイルを大いに学びました。関わる人それぞれが自分の経験や知識を生かした役割を担っている。そんな姿を見ているうちに、私も音楽活動の経験を生かした活動をしたいという思いが出てきました。まわりの人に「チャリティーコンサートをやったらどうかしら?」と呟いたら、多くの人が協力を申し出てくださり、なんと教会でのコンサートが決まったんです。日本からも音楽仲間が来てくれて、アフリカの難民のためにたくさんの寄付をすることができました。

田中 音楽という分野を持っていたのは大きいですね。

庄野 そうですね。日本では音楽家による社会活動を偽善だとか売名だとか言われることもありますが、広く世界を見ると仕事とは別に社会活動をしている音楽家は多い。

田中 江戸時代の農村の人も、人間としての勤めと稼ぎのための仕事を分けて考えていました。火消しも、寺子屋の先生もほとんどがボランティア。コミュニティ全体のことを考えて働くことは当たり前であり、生活のための稼ぎはある程度でいいという考えが社会の基礎にあった。でも、残念ながら今は失われてしまいましたね。

庄野 企業によるメセナも定着していません。2002年9月11日からマンハッタンの街中に市民音楽家に立ってもらい音楽で満たそうと、セプテンバーコンサートという試みがありましたが、多くの企業から寄付が集まり財団として毎年スムーズに運営されています。同じ試みを私も日本で行いましたが、寄付やメディアからの注目が集まるのは初年度だけ。二年目になると寄付が集まらなくなってしまう。どうして日本ではこうした文化が根付かないのでしょうか。

田中 目に見えるメリットがないと予算をたてないのでしょうか?教育への予算も先進国の中ではかなり少ない。文化的なものへの理解が低いんです。精神的に豊かになる土壌が育っていない。

庄野 人が豊かにならないと、国も豊かになれません。私たちとしては、地道に活動を続けることで、少しでも精神的な豊かさを広めていくしかないと思っています。

対峙するのではなく、一緒に何かをやる

田中 現在は、法政大学でも教えていらっしゃいますがいかがですか。

庄野 2年間「アーティストと社会貢献」という授業を持ちました。「ソーシャルアート」というワードを使い、アーティストが社会に提言したり、社会のために能力を使ったりすることの意義を研究しています。授業ではアーティストを呼んだり、ワークソング、プロテスタントソング、ロックと続くアメリカの音楽の歴史の中でアーティスト達は何をしてきたかを映像と共に考えたりしながら、学生達には何かを感じてもらって次に自分がすべき行動を描いてもらっています。レポートは助成金を得ることができる、魅力的かつ実行可能な企画が課題ですが、良い案がたくさん出てきます。例えば、電車の中にアーティスト達の仕事を飾る企画。作品の発表の場にもなり、車内の人の気持ちも和む。また、関係が上手くいっていない父と子が一緒に第九を歌う練習に参加することで親子関係を見直すという企画もありました。

田中 対峙するのではなく、一緒に何かをやるというアイデアがいいですね。共に何かを見るという「共視関係」は日本のコミュニケーションの大事な特長です。紛争回避の際も何かを共に行うことを考えるべきですし、アートはそういうことにふさわしいものです。

庄野 北と南とで人種も言葉も宗教も違い紛争が絶えないスリランカで、北と南の境界線上の子ども達が「一緒にオーケストラをやろう!」と声を掛け合い、平和をめざそうとしています。「国境なき楽団」でも、この子ども達に楽器を寄贈する活動をしています。田中先生の著書『布のちから 江戸から現在へ』(朝日新聞出版)では、布を織ることで対立を乗り越えようとした人々の話が書かれていました。

田中 読んで下さり、ありがとうございます。「みんなで糸を紡ぎましょう」という呼びかけから、ガンジーは宗教対立を超え、独立までこぎつけました。また、布に情報を入れて織り込むことで困難な現状を伝えようとしたチリの女性達もいた。アートや音楽にはたくさんの可能性があるんです。 今回、庄野さんのお話を伺い、自分のできることから一歩踏み出して行動することの大切さ、芸術や文化が持つ可能性の大きさについて改めて考えさせられました。ありがとうございました。

庄野 面白いし、そこに人類の希望があるんじゃないかとも思います。


シンガーソングライター 庄野真代

1954年生まれ、大阪府大阪市出身。1976年にシンガーソングライターとしてデビューし、「飛んでイスタンブール」「モンテカルロで乾杯」などのヒットで知られる。1980年世界一周の旅に出る。2000年、法政大学人間環境学部入学、在学中ロンドンへの留学を経て、2004年に同大学卒業。2006年に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科国際関係学専攻を修了。その年、NPO法人「国境なき楽団」を設立し、代表と務める。現在、法政大学にて「アーティストと社会貢献」という授業を担当。