「あなたの 『おいしい記憶』をおしえてください。」コンテスト

読売新聞社と中央公論新社は、キッコーマンの協賛を得て、「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」コンテストを開催しています。笑顔や優しさ、活力などを与えてくれるあなたの「おいしい記憶」を、私たちに教えてください。
第6回
キッコーマン賞
「私とゆで豚とお母さん」
平山 朋子さん(埼玉県・38歳)
読売新聞社賞
「櫻ごはん」
植田 欣也さん(神奈川・90歳)
入賞作品
「目玉焼き丼と息子」
宮澤 勝さん(東京都・55歳)
「ある意味『おいしい記憶』」
小寺 弘治さん(兵庫・54歳)
「エビフライ」
植原 睦子さん(埼玉県・56歳)
「おこげと少年」
畠山 千恵子さん(愛知県・97歳)
「日の丸弁当」
笠井 幸雄さん(福岡県・85歳)
「愛情のさじ加減」
宗田 千奈さん(京都府・19歳)
「幸せ広がれ」
渡辺 喜美さん(千葉県・44歳)
「黄色が好きな理由」
大越 芳子さん(神奈川県・60歳)
「赤魚の煮こごり丼」
樋口 信代さん(神奈川県・62歳)
「おいしい空気」
大塚 紗都子さん(福岡県・30歳)

※年齢は応募時

第6回
読売新聞社賞「おこげと少年」畠山 千恵子さん(愛知県)

 昭和十九年。三月も終り頃の或る日。

 私は、県内町村の栄養指導員の一人として、秋田県、能代市近郊の二田(ふただ)という漁村の一画にあった、バラックの仮宿舎に、同じ仲間と合宿していた。

 日課は、早朝の麦踏み、食後は食物として野草の見分け方、山野の果実の採取方法、利用法の修得など、居住地に帰って広めるためであった。

 その日私は、足を痛めて休んでいた。宿舎には、火の気がない。離れた所にあった大きな宿舎の前方の小屋から、煙の上るのを見て、近づいて行った。三、四人の、中学を出たばかりらしい少年たちが、私を見てひとりが

「おばさん。寒いよ、ここへ来て火に当たればいいよ」

と、言うと

「んんだ、んんだ」

と、他の少年も言った。私は嬉しくなって、火に近づいた。

 土で固めたカマドの上に、この地方で使う大きな味噌煮の釜。四人で大勢の朝ごはんを炊いていた。一人が、カマドの火をかき出し、三人が宿舎から、四角の板のおひつを運んできて、カマドの後ろで話し合っていたが、ごはんを移し入れて、何回も運んでいた。

 終わったのか、釜の底をしゃもじで、張りついたおこげをはがし始めた時、一人の大柄な少年が、片手に小鉢を大事そうに持ってきて、

「うまいんだよな、これが」

と、小鉢に指を入れて、中のものをパッパとはじくと、にっこりして皆を見た。他の少年たちは、笑いながら頷き合い、おこげを剥がすと、赤子の拳ほどに握り、おひつの上に乗せて、行こうとした。すると、一人の少年がやにわに、その一個を取ると、私の前に手を出して、

「おばさん。一個だけど食べて下さい。なあみんな」

と、後の少年たちに言い、ほほえんだ。私の喉がゴグリと鳴って、少年たちの優しさに、

「ありがとう。いただくわ」

と、涙声になった。少年たちが去った後、少しずつ口に入れ、噛みしめた。黒茶色の一粒一粒は、苦味と交った穀物のかけらと、ひしゃげた米粒の甘味と、少年が指ではじいたしょうゆの香りが、渾然一体となって、口の中に広がった。当時しょうゆは貴重品だった。

「わあ、おいしい」

 思わず大声が出た。これほど、おいしいおこげは始めてで、一口を愛おしみながら、独り涙が出た。少年たちは、満蒙開拓青少年団の一員だった。戦後七十年、私は九十七歳になったが、生涯あのおいしさは、忘れない。少年たちは、その後、どうなったのか、未だに心が痛む。

[広告]企画・制作 読売新聞社広告局