「あなたの 『おいしい記憶』をおしえてください。」コンテスト

読売新聞社と中央公論新社は、キッコーマンの協賛を得て、「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」コンテストを開催しています。笑顔や優しさ、活力などを与えてくれるあなたの「おいしい記憶」を、私たちに教えてください。
第6回
キッコーマン賞
「私とゆで豚とお母さん」
平山 朋子さん(埼玉県・38歳)
読売新聞社賞
「櫻ごはん」
植田 欣也さん(神奈川・90歳)
入賞作品
「目玉焼き丼と息子」
宮澤 勝さん(東京都・55歳)
「ある意味『おいしい記憶』」
小寺 弘治さん(兵庫・54歳)
「エビフライ」
植原 睦子さん(埼玉県・56歳)
「おこげと少年」
畠山 千恵子さん(愛知県・97歳)
「日の丸弁当」
笠井 幸雄さん(福岡県・85歳)
「愛情のさじ加減」
宗田 千奈さん(京都府・19歳)
「幸せ広がれ」
渡辺 喜美さん(千葉県・44歳)
「黄色が好きな理由」
大越 芳子さん(神奈川県・60歳)
「赤魚の煮こごり丼」
樋口 信代さん(神奈川県・62歳)
「おいしい空気」
大塚 紗都子さん(福岡県・30歳)

※年齢は応募時

第6回
読売新聞社賞「櫻ごはん」植田 欣也さん(神奈川県)

 弥生。桜の花びらの下に人が集まる季節になると、私はかならず八十五年ほど前に、祖母が炊いてくれた”桜ごはん”を思いだすのです。私のおいしい記憶のきわめつけは、この幼いときに食べた”桜ごはん”につきるのです。

 わけがあって、祖母は私の育ての母であり、私はいつも祖母を「母ちゃん」とよびました。四十代のなかばで後家になって、そのうえ孫の私を赤児(あかご)のときから育てることになった祖母は大変な苦労をしたのです。

 札幌市ススキノの路地裏。古びたアパートの一室で、祖母と幼児の私は貧しくくらしました。寒い冬の日、火の気のない部屋に凍えた手で帰ると、祖母は私の小さな手を自分の襟元から懐に押しこんで素肌であたためてくれるのでした。食事は汁とたくあん漬があれば上等。たいていは雑炊でした。お菜がないときの祖母のおくのてが”桜ごはん”でした。七輪に土鍋をのせ米を炊く。やがて鍋のふたがコトコト音をたてて湯気があがります。祖母はころあいをみて、しょうゆを米にこぼします。再び湯気があがって、しょうゆの香ばしさが鼻にとどきます。しばらくして祖母は「桜ごはん、できたよ」とふたをあけます。鍋一杯に桜色に染まったごはんは空腹にしみるしょうゆの香りとともに目にとびこむのです。あつあつの桜ごはんは私にはなによりものご馳走でした。

 しょうゆをこぼすだけの、祖母の桜ごはんには、水かげん、火かげん、ころあいかげんなど料理の秘訣がつまっていたのでしょう。

 私は成長してから、真似て桜ごはんを炊いてみました。ふきこぼれたり、焦がしたりで、桜色のごはんはできませんでした。祖母は料理がとても上手だったのです。私は有難いことに、生まれて六十年ぶりで、生みの母と会うことができましたが「あなたのおばあちゃんは、とても料理の上手なかたでね」と教えてくれました。

 その後、祖母は私を連れて、飯場や寮の賄婦(まかないふ)として働いて私を育ててくれました。祖母はつくったお菜をご近所のかたにさしあげるとき、半紙にサラサラと文字や墨絵をかいて器にかぶせたりするゆかしさもありました。

 祖母は、私が終戦で復員したばかりの秋のある日。頂いた鰈(かれい)を「ひさしぶりのご馳走ね」と喜んで煮ているとき、しょうゆの煮汁の香るなかで急に倒れて、亡くなりました。脳の出血でした。

 ことしも桜の季節がきました。私は卒寿を記念して、おいしい記憶をたぐりよせたく思います。もちろん祖母にはとてもおよびませんが”桜ごはん”を炊きます。ぜいたくして、地元秦野が日本一と自慢する八重桜の塩づけを、ごはんの上に散らそうと思います。”桜ごはん”は祖母の仏前に供え、また認知症で寝たきりの妻にも花びらごと食べてもらいたい。もちろん私も、おいしい記憶を相伴させていただきます。

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