弥生。桜の花びらの下に人が集まる季節になると、私はかならず八十五年ほど前に、祖母が炊いてくれた”桜ごはん”を思いだすのです。私のおいしい記憶のきわめつけは、この幼いときに食べた”桜ごはん”につきるのです。
わけがあって、祖母は私の育ての母であり、私はいつも祖母を「母ちゃん」とよびました。四十代のなかばで後家になって、そのうえ孫の私を赤児(あかご)のときから育てることになった祖母は大変な苦労をしたのです。
札幌市ススキノの路地裏。古びたアパートの一室で、祖母と幼児の私は貧しくくらしました。寒い冬の日、火の気のない部屋に凍えた手で帰ると、祖母は私の小さな手を自分の襟元から懐に押しこんで素肌であたためてくれるのでした。食事は汁とたくあん漬があれば上等。たいていは雑炊でした。お菜がないときの祖母のおくのてが”桜ごはん”でした。七輪に土鍋をのせ米を炊く。やがて鍋のふたがコトコト音をたてて湯気があがります。祖母はころあいをみて、しょうゆを米にこぼします。再び湯気があがって、しょうゆの香ばしさが鼻にとどきます。しばらくして祖母は「桜ごはん、できたよ」とふたをあけます。鍋一杯に桜色に染まったごはんは空腹にしみるしょうゆの香りとともに目にとびこむのです。あつあつの桜ごはんは私にはなによりものご馳走でした。
しょうゆをこぼすだけの、祖母の桜ごはんには、水かげん、火かげん、ころあいかげんなど料理の秘訣がつまっていたのでしょう。
私は成長してから、真似て桜ごはんを炊いてみました。ふきこぼれたり、焦がしたりで、桜色のごはんはできませんでした。祖母は料理がとても上手だったのです。私は有難いことに、生まれて六十年ぶりで、生みの母と会うことができましたが「あなたのおばあちゃんは、とても料理の上手なかたでね」と教えてくれました。
その後、祖母は私を連れて、飯場や寮の賄婦(まかないふ)として働いて私を育ててくれました。祖母はつくったお菜をご近所のかたにさしあげるとき、半紙にサラサラと文字や墨絵をかいて器にかぶせたりするゆかしさもありました。
祖母は、私が終戦で復員したばかりの秋のある日。頂いた鰈(かれい)を「ひさしぶりのご馳走ね」と喜んで煮ているとき、しょうゆの煮汁の香るなかで急に倒れて、亡くなりました。脳の出血でした。
ことしも桜の季節がきました。私は卒寿を記念して、おいしい記憶をたぐりよせたく思います。もちろん祖母にはとてもおよびませんが”桜ごはん”を炊きます。ぜいたくして、地元秦野が日本一と自慢する八重桜の塩づけを、ごはんの上に散らそうと思います。”桜ごはん”は祖母の仏前に供え、また認知症で寝たきりの妻にも花びらごと食べてもらいたい。もちろん私も、おいしい記憶を相伴させていただきます。