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人生の「紆余曲折」を恐れずに
信念を練り上げ、仲間を見つけ、自分の人生を歩んでほしい

目黒 章三郎さん目黒 章三郎さん

私の使命は「地域資源」を生かして活性化を図ること

廣瀬 本日は、私が長年関わってきました地方自治の勉強と経験交流の会である「市民と議員の条例づくり交流会議」などでお世話になってきた会津若松市議会議員(前議長)の目黒章三郎さんをお迎えしました。目黒さんは会津若松市の議会改革の中心人物として全国の地方議会で名の知られた方ですが、地元にとどまらず他の地域にも改革の動きを広げていく活動をされています。目黒さんとは地方自治の話はよくしてきましたが、ご自身については伺ったことはありませんでした。まずは、若い頃のお話からお聞かせいただけますか。

目黒 私は奥会津といわれる三島町というところで生まれ育ちました。尾瀬が源の只見川沿いの山の中の町です。当時、長男以外は東京など都会で就職する風潮でしたので、縁あって高校から上京しました。1960年代後半の東京はヒッピーもいましたし、学生運動も盛んで世の中が騒然としていてカルチャーショックを受けました。

廣瀬 法政大学に進学されましたがどのような動機からですか。

目黒 教授陣を見て良いなと思い、法学部政治学科に入りました。高校の寮生活からすると、大学は解放感がありました。

廣瀬 当時の法政は学生運動がさかんだったでしょうね。

目黒 学生会館の自主管理を求める学生と大学当局側が対立していた雰囲気はありました。社会運動に携わる人もいて、私はたまたま部落解放運動に参加。東京で解放同盟の支部ができるため書記を探していると聞き、「私が行きます」と手を挙げ2年で大学を中退してしまいました。通信教育課程で学業を続けようと申し込みましたが、意志が続かず卒業できませんでした。

廣瀬 その後はどのようなキャリアを歩まれましたか。

目黒 生まれ育った三島町ではなく、会津若松に戻りました。いわゆる「Jターン」です。会津では一族の建設会社が関連事業を営んでおり、ガソリンスタンドを2年ほど手伝いましたが、その後、損害保険の代理店養成の特別研修生となり、そして独立しました。10年程たった頃一族の建設会社に総務部長として戻るよう促され、人事、労務、安全管理なども担当しました。

廣瀬 地域おこしに関心を持たれたのはいつ頃ですか。

目黒 その総務部長時代ですが、以前から関心のあったことでした。というのは、地元の三島町で過疎が進行し始めた昭和40年代、当時の町長が故郷を持たない都会の人に年会費1万円で擬似的な親類になってもらう「ふるさと運動」という取り組みがなされ一世を風靡しました。町長は「東京にあるものを欲しいと無いものねだりするな。自分たちの足下にあるものが町づくりの元になる」とよく言っていました。今で言う「地域資源」を磨くという考え方です。そして、有機農業や桐箪笥などの加工、山野草やアケビのツルで作った籠など伝統工芸品の生産に力を入れてブランド化に成功しました。この町長は私にとっての政治の師匠のような存在です。
私が会津若松市で本格的に地域おこしに関わったのは、七日町通りに一族の建設会社の支店の建物がきっかけです。その建物は元々銀行でした。昭和の建造物で初めて重要文化財に指定された、皇居のほとりの「明治生命館」を設計した岡田信一郎による重厚なギリシャ建築風の建物でした。その建物に会社の目立つ袖看板を付けていたのですが、私が景観上無粋だと思って外したところ、同じ通りで昔は海産物問屋を営み、今は郷土料理店と旅館に改造した、のちに七日町通りまちなみ協議会の会長となる渋川恵男(ともお)さんや、私とともに副会長となる庄司裕(ひろし)さんの目に留まり、声を掛けられて運動に加わりました。

廣瀬 どのような発想で地域おこしに取り組んだのですか。

目黒 七日町通りの「地域資源」である明治、大正、昭和初期の建物を活用しようという考えです。車社会の到来により寂れていた頃は、通りを歩くのは猫と回覧板を回す人だけと言われるほどでしたが、今や年間30万人近くの観光客を含めた往来があります。町家があり洋館や土蔵もあり、時代や様式は異なるものの、歴史ある建築物が違和感なく混然一体と存在しています。雰囲気のある通りには飲食店や土産物屋のほか、造り酒屋や会津木綿など特産品を扱う店や新選組記念館などもあり、そぞろ歩きしながらゆっくりと楽しむことができます。

廣瀬 成功のポイントはどこにあったとお考えですか。

目黒 人の要素が大きいですね。一つの事例を言うと、渋川さんのカリスマ性、きっちり事務局的役割を果たす庄司さん、私はアイデア出しや行政とつなぐなど、それぞれの役割が上手くはまりました。従来の地域おこし運動は、古いものを壊して「近代化」を進める行政と対立する形が主流でしたが、私たちは行政を活用することが大事だと考えました。
また、当初依頼したコンサルは、ハード的なものを先行するのではなく、商店一軒一軒に細かくインタビューをして通りの歴史や産物(地域資源)を掘り起こし、ワークショップしながらソフト先行で方向性をまとめたのが良かったと思います。そして、イベントの開催、先進地視察などの相互交流を重ねながら、距離の長い通りで当初疎遠だった各商店主の方々も意思が通ずるようになりました。こうした運動では賛成2割、反対・無関心2割、残り6割は様子見という感じに分かれるものですが、この残り6割が変わると一気に変わる。私は「2:6:2の法則」と呼んでいますが、このまちおこしの実体験がその後の議会改革「運動」につながりました。

多数派工作ではなく、候補の所信による議長選をすすめた

廣瀬 平成7年4月、会津若松市議会議員に初当選されました。地域おこしの体験もあって政治に関わるようになったのでしょうか。

目黒 そうですね。私は昔から会津の自然やまちなみ景観を守りたいと思ってきましたが、そのためには政治の力は大きいと感じていました。実は祖父が村長や県会議員をやっていたこともあり、政治の世界に入ることに抵抗感はありませんでした。

廣瀬 議員になった時の印象はいかがでしたか。

目黒 当選後驚いたのは、議長選挙が水面下での会派調整で決まることでした。新人議員など口を出す余地もなく、全く市民から見えないところで議長が選ばれている。また、議会は議論をする場だと思っていましたが、実際は行政への一方通行の質問だけで議員同士の議論もない。「なんだこれは」と思いました。それでも一期目には市のISO9001取得、二期目には経営品質賞導入の二つの政策を通すことができました。

廣瀬 ちょうど地方分権推進法が施行され、平成の大合併の時期でもありますね。

目黒 合併の時は県会議員選挙に出馬して落選中の身でしたが、議員数が移行措置で32人から一時60人を超える議会になって混乱したとは聞いていました。平成19年に市議会議員に返り咲いた頃には、分権改革や二元代表制といった言葉が聞かれるようになっていました。

廣瀬 平成18年に北海道の栗山町で議会基本条例が日本で初めて制定され、会津若松市議会も20年に基本条例を制定。全国的にも早い動きでした。特に党派が異なる複数の議員がチームを組んで推進されたことが印象的ですが、どのように取り組まれた結果だったのでしょうか。

目黒 平成19年に市議会議員に戻った時は、4人の会派(定数30人)に属していました。いつも通り、選挙後に最大会派や二番目の会派から議長、副議長の候補の名前が出始めた時に、同じ会派の会長が「最大会派から名前の挙がっている議長候補に議長をやらせるわけにはいかない」と言い出し、自分が立候補すると言ってきました。私は、勝ち目がないとは思いましたが、議長選の経緯を表に出すのが大切と思い「何のために議長をやりたいのか所信を書いてください」とお願いし、作成したペーパーを持って各会派へ挨拶に回りました。すると、驚いたことにその3~4日後、他会派の議長候補や副議長候補も所信を持って各会派を回り始めたのです。字数や表現は違えども「公正公平、透明性を持った議会運営をします」とか、懸案だった「議員倫理条例制定に尽力します」というように、どの候補が議長になってもベクトルは一緒になりました。「しめた!これでバックギアはないぞ」と思いました。案の定、投票では負けましたが予想以上の善戦でした。振り返れば、この議長選挙は会津若松市議会の「改革」のきっかけ作りとなりました。また、他会派や議会事務局内に同調者がいることも分かり「改革」が進んでいきました。2:6:2の法則の最初の2の塊を認識しました。この時も、ちゃんと信念を伝えれば同調してくれる人がいるのだと実感できました。

廣瀬 そういう経緯だったのですね。会津若松市議の方は一人一人が自分の言葉で議会改革を語ることができ、議会基本条例制定後も視察を積極的に受け入れて議員の方が説明を担当されていて有名です。多くのところでは、議会の視察対応は議長が挨拶だけされて、あとは事務局の方が説明ということが多いのですが、会津若松では議員の方々がそれぞれ自分の言葉で説明されていて、議員にとって自分ごととしての改革であることがよく伝わります。さらには、目黒さんをはじめとして自分の市だけにとどまらず他の地域にも議会改革を広げる活動をされている。また、会津若松市の基本条例には「議会は、議決責任(※)を深く認識する」とあり、議決責任という言葉を条例に明記した初の自治体となりました。私は地元である所沢市の議会基本条例の制定のお手伝いをしたことがあるのですが、ちょうど会津若松市の議会基本条例制定の直後で、この考え方に強く感銘をうけて参考にさせていただきました。
(※)議決責任...地方議会が決定する政策の大半は行政側から提案されるものだが、判断して決定しているのは議会であるため、その政策決定に対する責任は議決した議会にあるのだという考え方を示すのが、議会の「議決責任」という言葉。

鳥の目と虫の目を持つことが大事


法政大学で行われた地方自治と議会改革の勉強会での登壇の様子

廣瀬 私が代表運営委員を務める「市民と議員の条例づくり交流会議」の初めての地方開催である「交流会議in会津」の時には目黒さんに実行委員としてご尽力いただきました。

目黒 全国の志のある議員の方々と交流できてよかったです。今でも関係が続いています。

廣瀬 その後、全国の議会で講演をされたり、議会改革推進の「弟子」を育てられたり、視察や交流に赴かれたりと、議会改革のネットワークを広げられています。

目黒 「弟子」ではなく仲間ですね。改革の志はあり、研修や他議会で学んだことを自分の議会に持ち込もうとしても、何かと抵抗があり苦労しているところも多いようです。各議会とも試行錯誤しながら進んでいるというのが現状だと思います。ただ、私が招かれて自分の経験談を話すということは、同じ議員で「議員心理」が分かりますので、議会改革をより身近に感じてもらえればと思ってやっています。

廣瀬 法政大学で学ぶ後輩たちにメッセージをお願いします。

目黒 中退した私が言うのも気が引けますが、学生のうちに勉強しておくことは大切だと伝えたいと思います。「類は友を呼ぶ」で、私の周りの人は仕事の場面などで「学生時代、もっと勉強しておけばよかった」と必ずといっていいほど言います。

廣瀬 今の学生は安定した世の中で育っているので、決められたレールから外れないことが大事だと思っている印象があります。もちろん将来について予測可能性を求めたいという感覚自体は誰しも当たり前なのですが、自分がイメージしているレールから外れることに対して過剰に不安を抱いている気がします。レールだけで判断しないで自分の人生を歩んでもいいと思ってもらいたいですね。

目黒 まず、自分の興味・関心のあること、つまり何が好きかを考える。次にそれが世の中とどうつながりがあるかと。自分の道は自分で選べます。決断の際にいつも思っているのは鳥の目と虫の目を持つということです。俯瞰する鳥の目と現場を知る虫の目の両方が大事です。時間的にも空間的にも、自分が今どの位置にいるのかを絶えず意識しながら歩んでいかなくてはならないと考えています。
また、地方ならではの良さもあります。東京と地方では個人の比重が違います。東京は人が多過ぎるため個の力が見えにくい。それからすると地方はそれほど人が多くないので、自分の役割が比較的埋没しないし個の力も大きいです。それぞれの地域には数千年もの歴史があり人の営みや自然がある。その中で自分が深く関わろうとすれば、人生も豊かになっていきます。「地方」に住みその活性化を願う者として、若い人にはそういうところで自分の力を発揮することも考えてもらいたいと思います。

廣瀬 私はこの10数年、議会基本条例の制定を機に地方議会の改革の研究をしてきて、その意味で「観察者」なのですが、徐々に条例づくりをお手伝いする形で「参加者」としても関わってきました。4年に1回の選挙で毎回「失業」の危機のある議員ですが、再選のことを気にして自分の行動に自分で制約を設けてしまう人も、有利不利といったことをいったん離れてでも改革の筋道を通して決してブレない目黒さんのような人もいらっしゃいます。再選だけを意識したら何のために議員になったかわかりません。筋道を外れずにきっちりとブレずに取り組んでいれば共感して一緒に活動してくれる仲間も見つかるし、やりがいもある。そんなことを目黒さんのお話から読み取ってもらいたいと思って今回お招きしました。本日はありがとうございました。

*こちらの対談はオンラインにより実施しました。


会津若松市議会議員 目黒 章三郎(めぐろ しょうざぶろう)

1952年福島県大沼郡三島町生まれ。法政大学法学部中退。1995年4月会津若松市議会議員初当選。当選後、文教厚生委員会委員長、総務委員会委員長、議長(のべ6年)を歴任。令和3年現在、6期目。まちおこし運動や環境問題をライフワークとし、再生可能エネルギー(太陽光発電や小水力発電など)の事業化等の支援も。議員のほか、七日町通りまちなみ協議会副会長、野口英世青春通り協議会幹事、いにしえ夢街道協議会監事、環境保全会議あいづ(ECA)理事、NPO法人ほっとハウスやすらぎ理事、日本を美しくする会 会津掃除に学ぶ会世話人、会津新選組同好会(隊士名・井上源三郎)など。

法政大学総長 廣瀬 克哉(ひろせ かつや)

1958年奈良県生まれ。1981年東京大学法学部卒業。同大大学院法学政治学研究科修士課程修了後、1987年同大大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学、同年法学博士学位取得。1987年法政大学法学部助教授、1995年同教授、2014年より法政大学常務理事(2017年より副学長兼務)、2021年4月より総長。専門は行政学・公共政策学・地方自治。複数の自治体で情報公開条例・自治基本条例・議会基本条例などの制定を支援の他、情報公開審査会委員などを歴任。