「迷い」や「ためらい」の中にこそ、真実との出会いがある
松岡 正剛さん
偏った言葉で喜怒哀楽や世界が語られ始めた
田中 はじめに、言葉というものの現状について話したいのです。以前、お会いした際「言葉が貧しくなった」とおっしゃっていました。同感です。SNSでも人を棘(とげ)で刺すような言葉を発信し、ようやく自分の存在を確認しているような人もいます。
松岡 最近の日本はそういうところで流れているかもしれません。
田中 どうしてそんな風になってしまったのかを考えた時、一つには、学びや言葉の拠点がなくなったからではないか。では失われた言葉の拠点をどう取り戻せばよいのか。江戸時代では、そこに戻れば、何かが発見できたと思える拠り所がありました。四書五経を一部であっても暗唱によって身体に染み込ませることで子どもたちが育っていった。ところが今はそういった拠り所がありません。江戸時代の、意味がわからなくても、まず音を自分の中に入れるという方法は学びにとって重要であったと思うのです。入れた後、自分が覚えたことについて、講義で深く意味を知り、それに基いて議論をするという順番になっていました。
松岡 黙読だけでは考えが深まりませんね。音読、朗読、併読、そして解読が必要です。そうでないと身体が大事なことを忘れる。身体が忘れると、思想にならない。
田中 私も授業の時にはよく学生の前で朗読しました。古典は声にした方がわかる。
松岡 声によって表現するからこそ、力があったのです。ヨーロッパでは、黙読は活字印刷が普及した17世紀以降の習慣で、それ以前は音読文化でした。日本では『源氏物語』も江戸の読本(よみほん)も音読です。ですから、僕は図書館が静かであるというのは大反対なのです。多くの人が音読して、もっとうるさくていい。
田中 松岡さんが校長を務めるイシス編集学校は、学びの拠点になりうる一つのモデルだと思っています。私も何度か学ばせていただきましたが、開講されてもう20年ですね。現在大学でやっているオンライン授業を20年前から実験されてきたわけです。
松岡 私がインターネット上の編集学校を開設しようと思ったのは、1980年代頃から、偏った言葉で喜怒哀楽や世界との関わりが語られるようになったと感じたことが大きな理由です。わかりやすい例でいうと、何でも「かわいい」と言う。新しいことをしようとすると「冒険的だ」とか「意欲的だ」と言う。役者への評価だと「存在感がある」と。これはまずいな、と思いました。「かわいい」と言ってもいいのですが、さらに「伊達」とか「粋」とか「おきゃん」とか、次々と別の表現が続いてほしい。しかし誰もが「かわいい」だけ。これは、言葉がしぼむなと思いました。そこで、ちょうど2000年にインターネットの環境が整ったこともあり、個々の速度で入っていけるネット上の私塾を始めました。ここでは言葉や文章や価値観を共有するだけではなく、個人の学習速度と向き合っていくことができます。早い人は早く深く入って行き、遅い人はゆっくりと入る。言葉の世界には川端もいれば三島もいれば野坂もいる。ドストエフスキーもいればポール・オースターもいればジャン・ジュネもいるという風に、なるべく早く多様な言葉に出会ってもらう工夫もしました。そのためには、学科や単位というものではなく、茶の湯にある「銘」のようなお題が必要だと考え、ネット上に10人単位の教室を10から20作り、各教室に師範代を付け、お題をもとに学んでもらっています。
田中 そのような実践は、教育制度の中でやろうと思ってもできなかったことです。大勢の人をあるレベルまで上げることが教育の役割になっています。それはそれで大切ですが、能力のある人がもっと深まろうとする場がなくなってしまった。さらには、積み上げ型の仕組みの中で、身動きがとれなくなっている。もっと自由で良いはずの大学の学びも、単位の積み上げになっている。今回のコロナ禍でわかったのは、時間と回数でできている単位というものが、オンライン・オンデマンドの時代にはぴったりこないものだということです。学び方や時間のかけ方が一人ひとり違うだけではなく、学ぶ対象ももっと多様であってもいいはずです。イシス編集学校では、学びの段階としてはいわゆる単位ではなく、「守・破・離」という考え方を採用していますね。
松岡 「守・破・離」とは茶の湯や剣道や禅で使う言葉で、学びの基本には型がある、というメッセージです。茶の湯の江戸千家で活躍した川上不白(ふはく)という人が重視した考え方です。まず型を守る力を付ける「守」、型を破るべき時にブレイクしていく「破」、さらにそこから脱出する瞬間の「離」。それらを自由な状態で学んでもらいます。そのために、編集学校で学んだ生徒が最短1年半くらいで師範代という「教える側」に立てるようにした。
田中 師範代や師範と言われる先輩達の存在が少人数教育を可能にしていますよね。寺子屋や私塾においてはやってきたことなのですが、その仕組みが失われ、今は先生と生徒だけしかいない。そうなると個々の違いによる指導ができなくなる。学ぶ時に本当は何が必要なのか、考えさせられます。
暗示的合理がやってくる瞬間に賭けたい
松岡 学ぶとは伝えることであり、教えることでもあり、学びを伝えてくれた人を敬うことでもあります。つまり多様な感情を含む総合的な作業です。それを通して、ピンとくるものがある。僕は、学校では物理や数学がたんに好きなだけで、得意ではありませんでしたが、私淑する湯川秀樹さんの「あんな、素粒子というのは、奥にハンケチがたたむくらいの隙間があるんや」という言葉から、「あ、この人は、"わかったこと"を僕に伝えてくれているんだ」と一挙に広がりが見えたという経験があります。その言葉に出会うまでに1年ほどかかった。学びというのは積み上がっていくわけではなく、ある瞬間に「正岡子規ってこれだ!」「ユーミンってこれだ!」という「わかる」経験を伴うものなのです。
田中 そのとおりですね。私自身が「わかった!」と思う瞬間が、大学在学中に何度もありました。そこから能動的に深めていきたくなる。特に江戸文化に関する「わかった!」の瞬間は強烈で、「私はいったい何をわかったのか」を知りたくて研究を始めました。そういう瞬間がいくつもあれば、人間の能力はたいへんな深化を遂げると思うのです。
松岡 そこですよ。例えば蝉が地中から地虫(じむし)になって、ある木の2、3メートルの高さまで上がると、急にシャトル系が開いて地虫の背中が割れて、薄羽蜉蝣のようなキラキラした夢のような羽がパッと出る。その瞬間に出会えた時、自分は昆虫の研究を一生しようと思う人もいる。暗示的に合理がわかる、というか。暗示と合理は逆なことなのに暗示的合理がやってくる瞬間がある。学習はそこに賭けるべきです。
田中 先日、松岡さんが館長を務めている角川武蔵野ミュージアムに私も足を運んでみました。最初に江戸関係の本のところに行ってみた。最初は「あの本がない」「この分野がない」という風に思ってしまいましたが、それは従来の図書館や書店の分類の発想ですね。そう思いながら歩いていて次に起こった反応は「私ならどうするか」ということでした。
松岡 さすがですね。
田中 自分ならどうするか、を喚起させる本の並べ方になっているのです。それを狙っていらっしゃったのでは?
松岡 一言でいうと、狙っています。僕は取り合わせ、アソシエーションということが知の空間にとって一番大事だと思っているのです。もう一つ大事なのは網羅ですが、どんな人にもキャパシティーがあり、どんな空間にも限界がある。どこまで削れば最小限の取り合わせが可能かということも知には必要だろうと思っていました。それは茶の湯や連歌、庭園の世界にも通じることです。いくつかの取り合わせがあれば、そこから枝葉が出てきてまた別の取り合わせができる。となると、アソシエーション、つまりいくつかの組み合わせというものが何かを感じさせるという構造で本を置いてみたいと考えました。アソシエーションには連想という意味もあります。本棚におもしろい本を上手く組み合わせれば連想の翼は閉じない。次から次へ羽ばたいていけるな、と。
田中 今日の茶の湯の席をどうしつらえようか、というのと同じ発想が個々人に生まれる場所だということですね。そういう場所には偶然の出会いもあります。私は、子どもの頃に通っていた古本屋を思い出しました。子供用、などの分類のない古本屋には雑然と本が置かれているので、偶然の出会いがあるのです。小学生のとき、フランスの詩集やエドガー・アラン・ポー、ディケンズの小説などには、そのように出会いました。
松岡 確かに、本で大事なのは自分に似合うものとの出会いなのです。しかし自分に似合うものに出会うまでは、ちょっと迷って探してもらうことが必要なのです。
田中 偶然の出会いで思い出しましたが、ある大学の学生が書いた「コロナ禍の大学で残念だったことは、偶然がなくなったことである」といった内容の文章を読んでその通りだと思いました。
松岡 なるほど。最近私が一番大事にしている言葉は、偶有性という意味のコンティンジェンシー(contingency)です。それは常にあるものの奥に別の可能性があるということで、九鬼周造が最後まで一番大事にしたキーワードです。コロナ禍でイレギュラーなことが起こったので、もう一度レギュラーを取り戻そうとしてニューノーマルとか言っていますが、これは危ない。ひょっとしたらイレギュラーの中にも何か発見があるかもしれない。こういう時にしかわからないこともある。もっと奥にひそむ偶有的なことに気づいたほうがいいですね。
トータルなニュアンスごと読む
田中 もう一つ今日伺いたかったのは「読むとは何か」という問題です。「読む」というと私たちはどうしても本やリテラシーと結びつけてしまいますが、現実の生活では我々はもっといろいろなものを読んでいます。人の表情だって読んでいるし、空間も読んでいる。読まなければ次の創造や発言に繋がらない。読むことは全てに関わってくる分野だと思うのです。
松岡 セザンヌが故郷の風景を描くことも「読む」ことですし、星を観測すること、バレエをレッスンすること、ピアノの演奏も「読む」ことです。本を読むとは、本の中にはいろんなプロセスが重なりながら文章化されているわけなので、その「重なり」を「読み」が開いていくことです。それが読むということだと思います。花は見ているだけで美しいですが、スケッチしてみると、もっといろいろなことが見えてきます。だから真似ること自体にも既に読みが入っている。
私たちは近代知の中で構成要素に分解して読むことに陥ってしまい、トータルなニュアンスごと読むことができなくなっています。大きなニュアンスを保持しつつ部分に入っていけるということが、読むことに求められているのではないかと思います。
田中 これまでお話をしていて、やはり言葉の貧しさというものに、今の私たちは向き合わざるをえないのだと思いました。実は私自身も自分の言葉の貧しさに向き合ってしまっています。例えば、総長が書くべき文章とか、すべき挨拶というものがある。別に型にはまる必要はありませんが、役回りということの中に入ってものを考えるということを、おそらくいろいろな立場の方がやっている。別の表現があることを知りながらそのことだけをやっていると、言葉に飢えてくるのです。
松岡 それは近代社会が確立し、進化した間に進んだことでもあります。本来は形になるのかならないか、あいまいなままでよかったものをフォーマットにしてしまう。するとその度に、失われるものが増えていく。つまり言葉が近代社会をなぞっている。もったいないです。ご存知のように、本居宣長は「ただの言葉」に対して、「あやの言葉」が重要で、ただの言葉で語れることだけでは半分以下になると言いました。しかし、今メディアなどで「あやの言葉」を使うと、「よくわかりません」とほとんどカットされてしまう。こうなると戦いです。僕は、人は迷っている時の方が何かに気づくと思っている。そのためらいの中にこそ真実との出会いがあるので、むしろそういう言葉が社会の中に必要だと思っています。
田中 これから必要なものは、身体的なものや全体的なものを凝縮した詩のような言葉だというのが、今の私が感じているひとつの思いです。それはちょうど今日、松岡さんがおっしゃったことでもあります。わかるとかわからないではなく、その「あわい」のところを表現しなければならない。昨今のオンラインでの会議や講義でも、とりわけわかりにくいところを削いでいった。ニュアンスが届きにくく、論理的に話さないとやりとりできない状況だったので、なおさらいろいろなものが削がれてしまいました。
松岡 この社会は理解ではなくて了解とか承認しやすいものに向かい過ぎてきたと思います。だけど、本当の理解はわかりにくさとか未熟さとか、深過ぎるとかtoo muchとかそういうものが出たり入ったりするもので、詩人たちはそういうものを何とかしようとしてきたわけです。それをどうやったら現実の社会の中に取り戻せるか。それには普段から学んだ言葉を使っていくしかない。
田中 そうですね。今日お話を伺って、まだまだ日本の中には言葉の拠点、戻っていける場所を創っていくことができるのではないかと思うことができました。2017年に出版した『日本問答』に続き、2021年1月に松岡さんと私の共書『江戸問答』が岩波新書から出ます。こちらも是非多くの皆様に読んでいただきたいと思っています。本日はありがとうございました。
- 編集工学研究所所長・イシス編集学校校長 松岡 正剛(まつおか せいごう)
1944年京都府生まれ。1980年代、編集工学を提唱。情報文化と情報技術をつなぐ方法論を体系化し、様々なプロジェクトに応用する。一方、日本文化を独自の視点で読み解く著作やテレビ番組の監修も数多く手掛ける。2000年「千夜千冊」の連載を開始。同年、eラーニングの先駆けともなる「イシス編集学校」をネット上に開講し、編集術とともに世界読書術を広く伝授している。著書に『知の編集工学』、『日本問答』(田中優子氏との共著)シリーズ「千夜千冊エディション」ほか。
- 法政大学総長 田中 優子(たなか ゆうこ)
1952年神奈川県生まれ。1974年法政大学文学部卒業。同大大学院人文科学研究科修士課程修了後、同大大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。2014年4月より法政大学総長に就任。専攻は江戸時代の文学・生活文化、アジア比較文化。行政改革審議会委員、国土交通省審議会委員、文部科学省学術審議会委員を歴任。日本私立大学連盟常務理事、大学基準協会理事、サントリー芸術財団理事など、学外活動も多く、TV・ラジオなどの出演も多数。