破綻の危機に直面した農村の道の駅を
"現場を見る力"で年間240万人もの集客を誇る場所へ
永井 彰一さん
法政大学卒業後は単身カナダのスキー場へ
廣瀬 本日は本学の卒業生であり、近年道の駅ランキングで第1位を獲得している群馬県の道の駅「川場田園プラザ」代表の永井彰一さんをお迎えしました。まずは川場村についてご紹介いただけますか。
永井 四方山に囲まれた87%が森林の農村です。国道も鉄道もなく、人口3,100人の小さな村ですが、人口減少率は比較的緩やかです。現在、東京都世田谷区と協定を結んで村づくりを行っています。
廣瀬 その協定を結ばれた当時の村長さんがお父様だったそうですね。永井さんは地元の高校卒業後、法政大学法学部に入学されました。
永井 とにかく東京に行きたいという思いが強く、何校かに合格することができました。最終的な進路は、当時進路について相談していた法政出身者の方に背中を押され、法政大学への進学を決めました。当時は政治家を目指していたので法学部を選びました。
廣瀬 東京での学生生活はいかがでしたか。
永井 本当に良い環境でした。スキーサークルに入って自分とは違うタイプの友達ができて楽しく過ごしました。1980年代半ばはスキーブームの真っ只中。私は3歳からスキーをしていたので、地面よりも雪の上の方が好きだったんです。学業の方では熱心な人と私を含めそうでない人の差が結構ありましたね(笑)。法学部の刑法や商法の授業は今でも受けて良かったと思うと同時に、もっと勉強すればよかったと思います。先ほど授業風景を覗かせていただきましたが、私たちの頃よりも学生はずっと真面目ですね。
廣瀬 そうかもしれませんね(笑)。卒業後はカナダに行かれたとのことですが、どういった経緯があったのでしょうか。
永井 1988年に卒業後、スキー場の設計がしたいと思い、ちょうどワーキングホリデーのシステムができたので英語を学びながら働こうとカナダに行きました。最初は語学学校を探すのも一苦労でしたが、ウィスラーのスキー場で小学生のインストラクターをしながらスキー場の設計会社をあたったりしていました。ですが、あるアメリカの気に入ったスキー場で「働かないか」と声が掛かったので、ビザの関係で一時帰国したところ、母親の泣き落としにあって家業の造り酒屋を継ぐことになってしまったんです。
廣瀬 当時は家業を継ぐことは考えていなかったのですね。
永井 そうなんです。酒屋を潰せばアメリカに戻れるとまで考えました(笑)。一方で、当時はちょうど吟醸酒ブームの走りの頃で、いくつかの他の蔵を見に行ったこともあるのですが、とても興味深く感じました。杜氏の親方と相談してうちでも吟醸酒を作り始めたら、これが非常に面白かったんです。「水芭蕉」という銘柄の吟醸酒です。それを東京のある酒屋さんが扱ってくれるようになってから広まっていき、あれよあれよという間にいろいろな雑誌に紹介されるようになって新しい蔵まで作ることにもなりました。「酒ってこうやって売れるんだな」と感心しながらも、アメリカへの輸出も考えるなど、アメリカのことが忘れられずにいました。実は、2010年から家族はアメリカに住んでいます。私は酒のインポーター(輸入業者)もやっていてあまりに出張が多いので、家族に「アメリカに行くか」と聞いたら「ちょっとだけ行ってみる」ということだったのですが、2年の予定が今は子どもも大学生となり「もう帰らない」とのことです(笑)。
価格に対する顧客満足度を徹底的に追求
廣瀬 家業を継がれて様々な経験をする中で、今の道の駅につながるビジネスのノウハウを習得されたのでしょうか。
永井 今振り返れば、針の穴に糸を通すような日本酒のマーケティング経験が生きていると思います。日本の人口約1億2千万人のうち飲酒人口は約8千万人、この中で日本酒を常時飲む方が10%から15%、さらに吟醸酒を飲む人はそのうちの20%です。この小さなマーケットで何百社が競合している。これに比べたら道の駅はターゲット層が広く、商品も幅広いので売れないものがあっても他の商品である程度カバーすることができます。
廣瀬 造り酒屋から今の業種に移られた経緯を教えていただけますか。
永井 今の施設は1998年に第三セクターとして作られ、敷地は村が借り上げ、建物も村が所有する形でした。ところが2006年に家賃の減免措置が終わったこともあって破綻の危機に陥ってしまい、2007年の春に当時の村長から社長就任を依頼されました。酒蔵もアメリカの仕事もあるため一度は断ったのですが、「建て直しだけ」という話でしたので「3年という期限で」と引き受けました。
廣瀬 その時は「こうすればなんとかなる」というアイデアはあったのでしょうか。
永井 「2年あれば建て直しできる」と思ったからお受けしたのですが、大きな障壁がありました。それは、働く人の意識です。赤字になれば自治体が補填してくれるという感覚で利益を出す発想がなかった。
廣瀬 意識の改革はどのように行ったのでしょうか。
永井 まず、ボールペン1本も無駄にしないように言いました。そして原価計算や労働分配率に触れながら利益をどう出すかを教えました。次に、お客様が笑顔で帰るようにしなければ次がないと話し、そのためには何をしたらいいかを考えてもらい、ゴミの片付け、挨拶の仕方からやり直しました。後に意識改革の一環として、サービスやホスピタリティーに定評のあるアメリカのテーマパークに視察に行き、サービスを自分事として体験してもらう研修も行いました。
来場者数が上向きになると同時に飲食店の全メニューを刷新し、価格に対する顧客満足度を徹底的に追求しました。おかげさまで、去年は240万人ものお客様が来てくださいました。このうち埼玉や東京など首都圏のお客様が最も多く、県内からは全体の2割です。同様の施設では来場者の平均滞在時間は30分程度ですが、うちは2時間半。7割がリピーターで、年5回以上来場するコア層は約100万人もいます。
廣瀬 黒字化されたのはいつですか。
永井 2期目です。そこで社長をやめるつもりでしたが、増収したらボーナスを上げると約束してしまった。3年で売上高10億円の目標も達成し、社員から「もっとボーナスが上がるまでいてほしい」と言われたんです。4年目にはさらに増収し社員も増え、今度は2足の草鞋を履くのがつらくなったので、2014年からは酒屋は弟に任せ、田園プラザとアメリカの事業に専念することにしました。
「現場を見る力」で地域経済の活性化に貢献
廣瀬 特定の商品だけを目当てに来る方もいるとか。
永井 そうなんです。特に牛乳と卵を使っていない「ふわとろ食パン」は大変好評で1日120斤しか焼けないので週末は整理券を配っています。桐箱入りの1800円のヨーグルトも年間3万5千個売れています。百貨店や高級スーパーで富裕層が買うようなヨーグルトにしようと、サイズやデザインにもお金をかけました。チーズはたまたまチーズ職人の女性に出会ってトントン拍子でうちでチーズをつくる話が決まり、そのチーズが好評を博したのですぐにチーズのファクトリーを作りました。
廣瀬 永井さんのアンテナの感度によるところが大きいのでしょうね。
永井 実は、今自治体や大手企業へのコンサルティング事業もやっています。原石も磨かないとダイヤモンドにはなりません。私は磨き方とカットの仕方でまだまだ日本中に多くの可能性があると思っています。
廣瀬 最初は「こんな高い値段で売れるのか」みたいな意見はあったでしょうね。
永井 もちろんありました。例えば什器だけに2000万円をかけて1個600円のパイを売り出したところ、「そんな高いパイは誰も買わない」と会計士にも大反対されましたが、実際には大好評でした。私は週末の忙しい時は現場で皿洗いをしているので、お客様の服装、ペット、車をなかなか見る機会がないのですが、平日見てみると富裕層の来場が多いと肌感覚でわかったんです。こういう傾向が出ているのなら、投資して付加価値のある商品を出しても売れると確信しました。現場を見れば全部わかるので、私は失敗したことはないんです。
廣瀬 付加価値で回る経済は農協出荷などとは全く違う構造ですね。
永井 一番良い例がりんごです。りんご農家45軒分のりんごが全部うちの施設で売り切れてしまうんです。青物野菜も平日でもほぼ売り切れます。うちの出品者の8割は専業農家ではなく、私よりも少し上の世代の方でセカンドキャリアとして農業を始めた方が多いのですが、年間150万円も売り上げている方がたくさんいます。毎年出品者の皆様に分析表を配ってアドバイスをしています。例えば、例年7月末からお盆で終わるトウモロコシを、「7月頭から9月まで売ってみませんか。3本500円以上で売れますよ」といったところ、最初は「あんたは農業がわかっていない」と言われましたが、実際大いに売れ、去年は売上が4000万円を上回りました。他の野菜も時期を分散させる工夫で非常にうまくいっています。目に見えて経済効果があると意識も変わります。
廣瀬 川場村の人口減少が緩やかなのはそうした地域経済が関係しているのでしょうか。
道の駅 川場田園プラザ
永井 他の山間地域では一世帯あたりの平均人数が1.6人前後ですが、川場村は3.3人くらいで敷地内に3世代住む家も多い。収入があるとお孫さんの支援ができるので世帯人数の減りが極めて緩やかなんです。
廣瀬 地域おこし協力隊に関しては、関心のある若者をうまく定着させている自治体がある一方、がっかりさせてしまうところもあります。
永井 地域おこし協力隊からうちの社員になった人や、県外から酪農や農業に入ってきた若い人もいます。東京で働く方が実収入は多いでしょうが、村は生活コストが違う。心の面も含めてどちらが豊かなのかを考えると、まだまだ川場村には可能性はあると思うんです。実際、いくつかの大学から「研究課題にしたい」「卒論のテーマにしたい」「こんな情報を開示してほしい」という連絡ももらっています。若い人にはできる限りの協力はしたいですし、雇用の面でも住環境さえクリアできれば積極的に採用したいですね。彼らが消費を支えていくわけですから、こちらも勉強させてほしいと本気で思います。
廣瀬 活用されていない空き家もあると思いますから、法政大学の建築学科の学生に若者向け滞在施設へのリフォーム設計を立案させたら面白いかもしれません。
永井 それはいいですね。
廣瀬 インバウンド客は戻ってきましたか。
永井 今春からアジアの富裕層がうちの英語のサイトを見て、温泉地からハイヤーで来てくれています。
廣瀬 やはり英語での発信は大事ですね。グローバル化で英語が話せるのは当たり前の雰囲気がある一方、できれば外国語は避けて通りたい学生もいます。彼らの背中を押すメッセージをお願いします。
永井 「英語だけは絶対!」です。英語がなかったら、多分私が今売っているものの半分はない。これまでの経験でも、英語ができると視野が100倍広がると実感しています。読めなくてもいいから、話せて聞けることが大事です。
廣瀬 本日はありがとうございました。
永井 久しぶりに母校に来られて嬉しかったです。
- 株式会社田園プラザ川場 代表取締役社長 永井 彰一(ながい しょういち)
1963年群馬県川場村生まれ。法政大学法学部を卒業後、カナダに留学・就職。帰国後、永井酒造株式会社に入社し、1999年社長に。2007年、川場村からの要請により株式会社田園プラザ川場社長に就任。道の駅「川場田園プラザ」を関東屈指の人気を誇る施設に導く。
- 法政大学総長 廣瀬 克哉(ひろせ かつや)
1958年奈良県生まれ。1981年東京大学法学部卒業。同大大学院法学政治学研究科修士課程修了後、1987年同大大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学、同年法学博士学位取得。1987年法政大学法学部助教授、1995年同教授、2014年より法政大学常務理事(2017年より副学長兼務)、2021年4月より総長。専門は行政学・公共政策学・地方自治。複数の自治体で情報公開条例・自治基本条例・議会基本条例などの制定を支援の他、情報公開審査会委員などを歴任。