トップ>オピニオン>東日本大震災が浮き彫りにした公共性の空洞化と希望
中澤 秀雄【略歴】
中澤 秀雄/中央大学法学部教授 専門分野 政治社会学・地域社会学
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東日本大震災関係で、私がChuo Onlineに投稿するのは5回目になる。過去には、中央大学のボランティア活動について2012年・13年と連続して連名記事を載せていただいた[1]。また復旧過程において浮上してきた法的・制度的な課題について2012年秋に上下に分けて寄稿した[2]。2013年夏になると「『復旧』に回収される『復興』」と題して、現地の疲弊をリポートする文章を書かざるを得なかった[3]。今回も気持ちが晴れないまま執筆しているが、主流マスメディアが壊れてしまった今、こうして一人一人が発信し続けるしか方法がないのだと言い聞かせている。
「もう被災地は復興したんでしょう?」と聞かれることも多くなった。たしかに東北の中心都市・仙台は一層繁栄しており、昨年には華々しく国連世界防災会議が開催された。岩沼など仙台平野部分の防災集団移転・区画整理も、一部を除き目処がついた。しかし、牡鹿半島以北のリアス式海岸地区についてはそうではない。想像を絶する規模で土埃が舞う国道45号線沿いの様子を見て、「復興などしていないことがよく分かった」と案内した学生たちは異口同音に感想を漏らす。また福島県浜通りについては、政府が強引に原地復帰政策を進めているが根本的な問題解決は遠く、浜通り住民の口は重くなるばかりである。一方で在京の主流メディアは調査報道と議題化の能力を失い、もはや東日本大震災を阪神大震災と同じ過去の出来事と位置づけたかのようだ。河北新報・三陸新報など東北ローカル報道に日々接している私は、全国紙や地上波テレビを滅多に見なくなっているのだが、無意義に展開されるパッチワーク情報をたまに一覧して、同じ国に生きているとは思えず言葉を失う瞬間がある。確かに阪神大震災のとき東京が冷たかったとは関西圏の人がよく言うことだが、それでも関西では1995年に生まれていなかった子にも、確実に記憶がリレーされている。2004年中越地震を経験した新潟の人々は「今度は自分たちが恩返しをする番だ」とこの5年間言い続けてきた。しかし3.11当時に中学生だった今の大学新入生について言えば、在京メディアが何も伝えなくなった事実の端的な反映として、東日本大震災は一過性のぼんやりした記憶に止まっている。苦労して2014年から中央大学ボランティアセンターを立ち上げたものの、毎年白紙状態から被災地に触れさせ考えさせるところからスタートするので、正直なところボラセンスタッフにも現地にも若干の徒労感がある(学生が悪いわけではない。若い人は社会状況を正直に映す鏡である、というだけの話だ)。東日本大震災とは、昭和時代とは異なり一国単位での公共性が成り立たなくなった日本の姿を、残酷に明らかにした事件でもあったと、現在の私は考えている。思い返せば震災直後からその予兆はあった。「日本は変わらなければいけない」とか「平成の後藤新平よ出よ」とか熱に浮かれたように日本改造案を論じる「識者」が多く現れ、中には「これは天罰だ」と公言する人までいた。要するに震災を奇貨として自分たちの望む社会を実現しようという発想であり、学問的には「ショック・ドクトリン」(Naomi Klein)と呼ばれる行動様式に近い。ちなみに佐藤優は「客観性・実証性を無視ないし軽視して、自分の望むように社会を理解する態度」と反知性主義を定義しているが、これを適用すると上記「識者」たちの態度は、むしろ反知性主義に近いのではないかという疑いもある。小熊英二が2011年6月の時点で「『がんばれ日本』とか転換期とかいう話をしているのだけれども、結局のところ自分の利害構造で、自分のところから話しているだけ」(『東北再生』イースト・プレス社: pp.19-20)と冷ややかに述べていた指摘は、遺憾ながら図星だった。これとは逆に三陸リアス地域は5年間のあいだに、現実を客観的に認識している。「震災直後は地元住民も『一日でも早い復興』と口にしていました。今は誰も口にしません」(気仙沼市議会議員・今川悟氏、2015年の土木学会シンポジウムにて)。「復興加速化」という政府のスローガンは東北では空しく響き、逆にハッキリと「空洞化してしまった日本社会の公共性」を指し示している。
こうして震災後3年ほどすると「東日本大震災を経て、果たして日本社会は変わったのでしょうか?」と質問される機会も増えた。この質問は反語表現に近く、「何も変わっていないですよね」という語気を含んでいる。然り、既に311以前から公共性が空洞化していた以上、一国レベルで日本社会が変わるはずがない。それは論理的に導かれる結論だ。この状況下では、公共性ではなく政治権力のヘゲモニーを握った人間・集団の決定が、昭和時代とは比較にならない大きな梃子の力で制度を変えていくことになる。これも論理的に導かれる帰結だ。東北被災地はその混乱の中で、更に忘れられていく。
しかし一方で、東北ないし三陸沿岸というスケールで見れば、東日本大震災は地域社会の編成原理を変えた。よそ者・ネットワーク・企業などの外部資源がかつてない規模で流入し、比較し考えるための素材が多くもたらされて、東北人自身が客観的・実証的に自画像を描き直すことになったからだ。これまで「年齢階梯制」(長老格の男性が支配するピラミッド型地域構造)とか「行政依存」という言葉で表現されることの多かった東北で、若年層・女性・よそ者の動きが目立っている。東北に移住するとか、そこまで行かなくても生活の重点を北に移す非東北人も多い。日常的に、各分野の一流の人材が出入りするようになったので「幕末の長崎はこんな感じだったのではないか」と言う人もいる。
起業も目立って増えており、例えば「気仙沼ニッティング」(高級手編みセーター)「GANBAARE」(帆布製品)「東北食べる通信」(Community Supported Agricultureを促進するためのプラットフォーム)「気仙沼地域エネルギー開発」(間伐材を利用した木質バイオマス)など震災後に立ち上がって全国的な認知度を享受している企業・NPOもある[4]。厳密な意味での起業ではないが、気仙沼の老舗水産加工業者である(株)阿部長商店は、「マーメイド」という新ブランドを立ち上げてアヒージョなど新商品を開発し、積極的な販路拡大に取り組んでいる。同社の阿部泰浩社長は、中大生を前に次のように語ってくれた(2015年2月18日)。「震災から3カ月たったころ、テレビ朝日の『報道ステーション』が壊滅した工場をバックに生放送したことがある。そのとき古舘キャスターと2時間くらい話をしたのですが、彼は『東北は昔から労働力を搾取されてきたという不満がありますよね』という。自分は今までそんなことは考えたことがなかった。しかし、よく考えたら、下請けみたいなことを今までやっていたなと気付いたのです。お袋も東京に集団就職で行って働いていた。もっと知恵を働かせばできると思ったので、今はマルハやニッスイとは組まない。自分のブランドを作る方向に転換しました」。同じく老舗の斉吉商店は、気仙沼の高校生のアイデアを商品化した「なまり節ラー油」を扱っているが、この商品は高校生による起業のモデルとして様々な媒体で取り上げられている。このように新たな希望が同時多発的に芽吹いている気仙沼において、私ども中央大学も幸い、協働相手と位置づけていただいている。中澤は気仙沼市面瀬行政区まちづくり協議会アドバイザーに就任しているが、学生たちも面瀬地域を中心に小学校への学習支援、仮設住宅でのコミュニティ活動、地域資源の発見のための調査、地域誌の編集などに継続的に携わらせていただいている。
5年を経た東北は「若い人が客観的に自らを認識し、自ら決意して動けば社会が、そして公共性が変わる」と実感できる現場にもなっている。中央大学ボランティアセンターとしては、その熱が学生に伝わり、やがて日本全体の公共性を創り直してくれる人材が輩出することを願って、今日も現場での学びをサポートする後方支援を続けている[5]。