中澤 秀雄 【略歴】
中澤 秀雄/中央大学法学部教授
専門分野 政治社会学・地域社会学
岩手県奥州市の小沢昌記市長は、お会いしたなり一気に語った。「被災県の首長として痛感するが、基礎自治体が発想したものをセコンドしてもらう仕組みになっていない。相変わらず、下々のものが基準に合わせてやっていくやり方だ。もっと風通しのいい復興予算の使い方をさせて下さいと、学者さんたちが共同で輿論形成して下さい」。奥州市は三陸被災自治体――釜石・陸前高田・気仙沼――に隣接し、これら自治体の首長さんたちと仲が良いから、彼らの悩みを代弁したかったようだ。その前日にお会いした気仙沼の中学校の教頭先生からは「大学さんには三陸に防災教育の拠点を作ってもらえないかと期待している」と言われ、地元新聞の記者からは「大学が音頭をとって高台移転後の公園づくりの絵を描いて欲しい」と頼まれた。すべて先週末(6月の最後の週末)に私が東北を訪問したさいに頂いた、大きな宿題である。国は復興予算をつけたかも知れないが、現場では復興のゴールが視界不良であることが、改めて確認できた。そもそも、国の法律体系に復興という概念は存在せず[1]、後述するように手持ちの概念は「復旧」のみだから、疲弊している現場に「復興」の中身が分からないのは当然のことだ。
私がChuo Onlineで東日本大震災について執筆するのは、共著の2回を含めると4回目であり(以下のURL)、「またいつもの話か」と飽き飽きしている読者もいらっしゃるかも知れない。しかし、現地の人々が「進む風化、進まぬ復興」と嘆いている3年目、全国メディアにおける被災地報道は激減した。発信可能な機会が少しでもあれば、出来るだけ見聞を多くの人に伝えるメッセンジャーになりたいと考え、昨年9月に執筆した「三陸沿岸からみる災害地域再生の法的課題」(以下のリンク参照)の続きにあたる文章をしたためたい。なお、交通の便がよい仙台平野と、過疎が進むリアス式海岸地域(牡鹿半島より北の宮城・岩手県沿岸)とでは、災害後の展開が全く異なり、とくに政令市仙台は人口を集めて震災前よりも発展しているように見える。しかし本稿でも、それ以前に執筆した原稿においても、三陸リアス地域を念頭においていることを、改めて注記しておく。
東日本大震災関連の国の大型復興予算が成立したのは2011年のことだった。25兆円(自民党政権が6兆円追加)という額が用意され、復興特区や復興交付金という、被災自治体にとって柔軟に使いやすいはずの特別メニューが用意され、復興庁と復興担当大臣も2012年には設置されて、ワンストップで現場の要望をくみ上げるはずだった。しかし、現場で聞く現実は、冒頭の小沢市長の話のような矛盾に満ちている。復興庁が機能していない現実は、ツイッターで「白黒つけずに曖昧なままにしておくことも解決策」とつぶやいて更迭された(2013年6月)水野靖久参事官の言葉から透けて見える。
被災自治体の職員は、現場と県・国の板挟みになって疲れ果てている。「前例とか法とかいったって人間の生活が大事だろう。制度が現実に追いついてないなら、制度を枉げろ!」と被災者からは言われる。一方で県・国からは膨大な書類作成を要求され、平成27年度までには全ての復興関連計画を完成させるように追い立てられている。コンサルやゼネコンが用意してくれる「モデル」「ひな形」「標準設計」に機械的に予算を流し込む誘惑に駆られる、というよりは、もうそれしかやりようがないと観念している自治体職員もいるようだ[2]。このままいくと、いくつかの町では大都市圏と同じような団地型の災害公営住宅(復興住宅)が建設され、平成27年度くらいから高齢者などが仮設住宅を出てこれら復興住宅に居住するようになるだろう。三陸の暮らしに即した長屋型の、人の気配がする公営住宅も法的には建設可能だが、団地形式にすれば計画作成コストがかからないのである。ドアを閉めれば隣戸の様子も分からない高層コンクリート造りの団地型公営住宅で5-10年暮らしたあと、独居高齢者たちは幸せに人生を終えることができるだろうか。
一方、わが国の法体系では、海岸は国・県の複数の部局(国土交通省港湾局など)が管理しており、防潮堤などの構造物もこれら担当部署が作るが、その際に住民合意を要請する規定はない。型どおりの説明会くらいはやるかも知れないが、地元住民・漁民が嫌だと言っても国が決定すれば作れる仕組みになっている。東日本大震災のあと国の復興構想会議では、次の津波被害を防ぐため現状よりもはるかに高い防潮堤で押さえ込むことが必要という議論になった(松本健一『海岸線は語る』2012:194)。海とともに暮らす三陸の現実を知らない中央の人々は、万里の長城と言われた宮古市田老の防潮堤のようなハードウェアのみに頼る防災がいかに危ういか、外力を越えたときいかに指数関数的に被害が拡大するか、想像できなかったようだ。既存の枠組みの中で構想されているという意味で、これは復旧事業そのものである(旧来より構造物は大きくなるので、厳密な復旧ではないが)。
国の中央防災会議は2011年中に、全国の海岸線でL1対応(数十年に1回程度の津波を押さえ込める構造物をつくる)のためには、どのくらいの堤防高が必要か計算した。このL1対応(地形によって変わるが、おおむね数mから十数mになる)という数字が、三陸沿岸では絶対的な数値として迫ってきて人々を混乱させた。海とともに暮らしてきた多くの集落において、机上で計算された堤防の高さは、想像を絶するものだった。気仙沼内湾ではビジネスリーダーたちが「防潮堤を勉強する会」を結成して2012年夏から半年間議論し、やっとTP[3]5.2mにまで堤防高を下げさせることに成功したが、貴重な時間をこの問題に費やした住民は疲れ果てている。一方で陸前高田では、高田松原を覆い隠すTP12.5m堤防の工事が進められている。牡鹿半島の北半分で、震災前に石巻市に合併された漁業集落でも同様の工事が進み、とくに若い世代の住民は町から出て行く道を選びつつある。いくら構造物が頑丈になっても、人が住まない町になっては意味がないだろうという草の根の疑問は「命と財産を守る」というスローガンにかき消されがちである。しかし、たとえば釜石の小中学生は、防災教育の成果として自分たちの判断で長い距離を津波から避難しきり、登校していなかった子以外の全員(99.8%)が生存して「釜石の奇跡」と賞賛されたのである。このように海とともに生きる経験を、ソフトウェアとして創造的に次世代に引き継いでいくことの方が「復興」と呼ぶのにふさわしいと筆者には思われる。そして、ソフトウェアに必要なお金は巨大防潮堤建設よりも3-4桁少ない。
復興事業とされるものの中で、唯一具体的なスケジュールが見え始めたのは「高台移転」と通称される防災集団移転事業である(他にも漁業集落移転事業など制度は複数あるが、単純化のため、以後「防集」と呼ぶ)。全半壊した海辺の宅地を国が買い上げ、高台に土地造成するところまでを100%国費で手当てする事業だ。防集事業に復興予算のかなりの部分が使われているが、それも当然で、この造成事業には多いところで、1戸あたり数千万円がかかる(複雑なリアス地形、高騰する資材労務費、土地買収費、これまた高騰する土砂運搬費などを考慮すれば、このくらいの額になってしまう)。ちなみに上物(住戸建物)の建設費は個々人の負担であり、あくまでも国は土台の造成をするだけだ。そして、これら高台に居住するのは、多くが60歳以降の高齢世代と想定される。その子や孫の世代がこれらの場所に住み続けるならば未来への投資となるが、高齢世代が亡くなったあと、誰も戻ってこないのであれば、これだけの額を別の用途に使った方が良かったのではないかという議論にもなりかねない。しかし、人口動態や町の将来像を構想して防集の事業決定をする時間はなかった。だから、この高台移転は「復旧型復興」である。もとあるところに作るわけではないが、もとあるような構造物を、場所を移して作っているだけだ。
このように、震災から2年後に起きていることは、ハードウェア中心、既存の枠組みの延長、既存フォーマットへの流し込み、といった事態である。3.11前から過疎によって被災していた地域をどう再生させるか、そのために若い世代の知恵をどう結集するか、という発想は後景に退いてしまった。全ては、復興構想会議が発災直後に中央で決定した発想の枠内で動いており、それを修正したり新しい主体を入れたりすることは、どの制度レベルでも困難なのである。このあたり、わが国の震災「復興」事業は後藤新平の亡霊に束縛されているのではないかとも思われる。発災後の早い時点で構想を固めなければ被災者を不安にさせるという固定観念である。「一日も早い復興を」という紋切り型表現もこの観念から出てくると思われる。しかし、この言葉が叫ばれて大量の土砂が行き交う被災地のなかで、住民たちが話しあい合意形成をし、天下り計画を修正するフィードバックを行い、復旧をこえて地域の復興を構想する機会は奪われ続けている。
筆者は「一日も早い復興」という言葉を決して使わない。復旧型復興の発想を越えていくために何が必要なのか、時間がかかっても考えていくことの方が、ほんとうの復興に近づく道だと思っている。
福島の現実について語るには、私は適任者ではない。しかし3月末、いわき市内にある楢葉町避難民の仮設住宅を訪れたときのことは書いておきたい。いうまでもなく楢葉町は福島第一原発事故により、全町民が強制避難となった自治体である。現在は政府の避難区域再編により「避難指示解除準備区域」に指定しなおされ、相双では比較的線量が低いとされる町内に帰還し生活できる見通しになっている。しかし、仮設住宅でお会いした人々は次のように語った。「政府東電は信用できないというのが我々の思いだ。私は先祖代々の墓があり、もう86歳だから墓守のために戻るが、子ども・孫たちには楢葉に戻ってほしくないと思っている」「相双地域からのお嫁さんは要らないという差別にさらされれたりしている。財物の賠償にしても、いつ打ち切られるのか先行き不透明で、毎日悩んでいる。家族がバラバラになりかねない問題だ」。皆さん、「この現実を東京で発信して下さい」と異口同音に言われた。
福島の避難者の問題については、山下祐介を中心とする社会学者たちが共同で調査・提言と住民のネットワーキングを続け[4]、とくに富岡町の避難者たちが組織した「とみおか未来ネットワーク」と協働している。この組織の代表である市村高志氏は40歳台、これから20-30年に亘るだろう相双再建まちづくりの担い手になる世代だが、やはり東京に避難してお子さんたちも東京の学校に通っている。あえてプロフィールを書いたのは、仮設住宅に入っている高齢世代と、みなし仮設に入ったり都会に移住したりしている若い世代の意見は違うのに、しばしば仮設住宅側の意見しか吸い上げられないからである。この偏りによって「現地帰還」が錦の御旗となり、高い線量のホットスポットがあちこちに残っていても相双に住民が帰還すれば問題は解決したということにされかねない現実がある。しかし、先ほどの証言にあったように、子育て世代には現地帰還は非常に難しい。避難先で生活を営んでいるうちに、個々人が抱えている生活困難はどんどん不可視化されていく。その意味では、復旧型復興という問題点が目に見える三陸リアス地域のほうが、まだましなのかも知れない。
いずれにせよ、福島の問題を不可視化に抗して発信していかねばならないことは確かであり、私も微力ながら折にふれて書いていきたい。
私に何が出来るのだろうか、学者として大きな宿題を頂き続けている。まずは問題の不可視化に抗して、こうして機会を捉えて発信すること、問題構造を分析していくことが私に課せられた最大の宿題であると考えている。と同時に、大学人としては、大学という機構を通じて教育研究に課題をフィードバックすることも、自分の役割だと考えている。そのため学生部ボランティア担当委員として、この2年間学生たちを被災地に連れて行ったし、この夏も企画を展開する。私のゼミナールでは夏休みにいわき市で合宿を張る。多くの人が東北とのつながりを維持し、一人一人がメディアになりメッセンジャーになること、問題のありかを共有することが、遠回りのようで近道なのかも知れないと感じている。
最後に、これまで東日本大震災関連で執筆した記事にも書いたように、中央大学の学生たちは3年目に入っても被災地に寄り添う支援を続けている。以下のURLやFacebookページをご覧頂きたい。また、学員会中大学生ボランティア支援口基金へのご支援についても、改めて感謝申しあげる。