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だから、専修!2013 一覧

2013/07/01

明治から平成、そして未来へ─専修スピリッツの系譜

 専修大学の創立は明治13年(1880年)。日本で初めての経済科、私学で初の法律科を擁する高等教育機関である「専修学校(専修大学の前身)」を創立。近代社会を支える両輪というべき経済と法律を、誰もが学べるように日本語で教授した先駆けの学校だった。以来今日に至るまで、時代の波に翻弄されながらも独自の建学の精神を貫いてきた。その歴史は、まさに専修スピリッツの系譜そのもの。幾多の苦難を乗り越え今日に至った歴史を振り返ってみよう。

日本初の経済科、私学初の法律科を擁し、日本語で教授した「専修学校」

明治期の授業風景

 専修大学の歴史は明治13年、経済と法律を教える私立専門学校「専修学校」の設立に始まる。当時、不平等条約を改正するためにも、法律や経済の知識を持った人材を育てるのが急務であった。そのため、東京の地では、法律専門学校をはじめとして、数多くの私立学校が開校したが、なかでも専修学校は「専門教育を、日本人教師が日本語で行う」という新たな教育方法を打ち出した点でひときわ異彩を放っていた。

 日本人が日本語で教える。今ではごく当たり前の風景だが、当時、東京帝国大学などの官立学校では外国人教師が外国語で生徒を教えるのが一般的。こうした状況のなか、画期的な方針で専門教育を始めた創立者たちはどんな人物だったのだろうか。

 彦根藩の藩費留学生として渡米し、コロンビア大学・エール大学で学び、専修学校設立後に横浜正金銀行(現三菱東京UFJ銀行)の取締役・頭取としても活躍した相馬永胤。薩摩藩出身でエール大学の大学院で経済学を修め、日本人最初の法学博士となった田尻稲次郎。幕府の旗本出身で、幼い頃から神童と謳われ、日本人で初めてハーバード大学を卒業した目賀田種太郎。そして、旧桑名藩主・松平定教の随従でラトガース大学で経済学を学び、後に高等商業学校(一橋大学の前身)校長となる駒井重格。戊辰戦争では幕府側と新政府側に分かれて戦った後、いずれも国が推し進めていた海外留学政策の一環でアメリカに渡り、明治3年から12年にかけて主に法律学、経済学を学んできた人々だ。

相馬永胤の著した教科書と生徒の手による講義筆記

 日本の発展に尽力した人々の多くがそうであるように、彼らもまた勉学の成果をもって社会に貢献したいと強く望んでいた。特に相馬の意欲は高かったようで、留学中に仲間とともに法律を研究する団体「日本法律会社」を設立し、帰国後は日本で法律学校を開く準備まで始めている。この際の教育目標は、実際に社会に役立つ「実学」の精神をベースとすること、社会の即戦力となる職業人を養成すること。今も専修大学に受け継がれる教育方針は、このときすでに生まれていたのだ。

「黒門の専修」と呼ばれ、次代を担う人材を輩出

育友会によって復元された「黒門」

 明治13年、ついに念願であった、日本で初めて法律と経済を同時に学べる私立専門学校「専修学校」を現在の東京都中央区銀座の地に開校。5年後に現在の神田の地に移って、校門は旗本屋敷の黒い冠木門「黒門」になった。東大の「赤門」などと並び、「黒門の専修」と呼ばれた所以である。この黒門は明治40年の校舎改築によって姿を消すが、平成22年3月に育友会(在学生の父母・保護者の組織)により神田の地に復元された。

外壁の一部を残して崩れ落ちた図書館書庫(『復刻版 大正十二年関東大地震震害調査報告』第三巻)

 専修学校はやがて現在の法政・明治・早稲田・中央の各校とともに「五大法律学校」としての地位を確立し、「法律の専修」として知られるようになった。その後、明治中期には経済科のみとなり「経済の専修」として、大正期には計理士(現在の会計士)を養成する計理科を設置して「計理の専修」として名を馳せた。しかし、大学令による「専修大学」への昇格をはじめとした改革に取り組み始めたとき、関東大震災が発生。神田にあった校舎は図書館の外壁の一部を残して全壊した。

 この悲劇と前後して創立者たちも亡くなり、専修大学は新たな時代を迎える。第2代学長には田尻の教えを受けた阪谷芳郎が、役員には社会で活躍していた卒業生たちが就任。震災からの復興を目指して、在学生ががれきの片付けを、全国の卒業生が再建費用を寄付するなど一丸となって活動した。今に続く「オール専修」の精神と絆が形となって現れた、象徴的な出来事だった。

わずか51人でのスタートから約2万人の総合大学へ

創立120年を記念して建てられた生田キャンパス9号館

 世代交代して新たな一歩を踏み出した専修大学だったが、今度は戦争の波に呑み込まれる。苦難の時期を経て敗戦の翌年には、足尾鉱毒事件、大逆事件などの弁護士として活躍した今村力三郎が、卒業生として初めて総長に就任。昭和24年には新制大学として商経学部と法学部を設置し、戦後の新たな道を歩み始めた。

 驚くのは復興に当たって今村がとった行動だ。彼はその費用を捻出するため広大な自宅を丸ごと大学に寄付し、校舎の一室に住み込んで再建の陣頭指揮を執ったのだ。阪谷が震災復興の顔だとしたら、今村は戦後復興の立役者。この母校愛に満ちた行動から、彼は今も専修大学の最大の功労者の一人として語り継がれている。

 復興を成し遂げた専修大学は、次に総合大学へと舵を切る。昭和30年代後半には、卒業生で自民党副総裁や幹事長、東京オリンピック担当大臣などを務めた川島正次郎が第6代総長に就任。学生数の減少に歯止めをかけるため、商経学部を経済学部に改称し、さらに経営学部、商学部、文学部を相次いで設置。この大胆な改革によって、大規模大学へと急成長を遂げた。

 明治初期に学生数わずか51人で始まった専修大学で、平成の今、約2万人が学んでいる。創立者たちは、この姿を予想しただろうか。同時期に開校した私立学校の多くは、今やほとんど残っていない。専修大学は苦難の時代を乗り越えて生き抜いた、数少ない私立学校の一つなのだ。

 歴史を振り返ってみれば、危機を乗り越えて大学をつないできたのはいつも創立者たちの精神を受け継いだ卒業生たちだった。専修大学で学んだ学生たちがのちに学校を支える存在となり、また次代へとバトンを渡す──。そうした世代の連なりこそが、大学を未来へとつないでいくのかもしれない。専修大学の強さは、そこにある。

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