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遠山 信一郎【略歴】
―企業価値向上型コンプライアンスの視座からー
遠山 信一郎/中央大学大学院法務研究科教授・第一東京弁護士会会員
専門分野 企業コンプライアンス、現代契約法、不法行為賠償法(交通事故・医療事故・原発事故等)、家事法、労働法、倒産処理法、金融法務、独占禁止法、個人情報保護法、裁判外紛争解決システム(ADR)、法経済学
本稿は、JSPS科研費15K03220の助成を受けたものです。(広報室)
個人の幸せ(Happiness)を、「心の平安・豊かさ」と定義して、その実現の方程式を、次の通り仮説してみる。
幸せ(H)= | 富(W) |
欲望(D) |
「冨」には、「自分の健康」「家族の健康」「所得・財産」「適職」「良好な人間関係(社会関係資本)」などの多様な内容が包含される。
「欲望」は、「足るを知る」を平準値(1)として、強欲(渇望)を最大値(10)とする。
個人は、その人生という「時間」を、もっとも長く過ごす「場所」は、「家庭」と「職場」であり、「家庭」と「職場」は、憲法の保障する万人共有の幸福追求権の行使のメインステージといえる。
憲法第13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共に福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
「ワークアンドライフバランス(論者によっては、ライフアンドワークバランス)」は、この幸福追求権行使を支援しようとする政策なのである。
労働契約法第3条3項
労働契約は、労働者及び使用者が仕事と生活の調和にも配慮しつつ締結し、又は変更すべきものとする。
心理学・社会学の観点からは、高い幸福感の好影響として、「高い創造性」「効率性・生産性」「異なる意見の尊重」「利他性」「健康・長寿」などが指摘されている。
経営学の観点からは、「自分で判断できる自由(余裕)」を活かし「自分の考えや能力を実現(自己実現)」しながら「人々の助けになる(利他)」仕事を取り組む労働者は、企業の生産性・業績の向上に貢献するとともに、労働者自身も、「高い達成感」「よい成果への賞賛」「昇進」などを通じて幸福を感じるということが立論ができる。
よく経営本にも登場する有名事例が米国スリーエム社の「15%ルール」(労働者は業務時間の15%までならば、会社の許可なく好きな研究に割くことができる「余裕ルール」)で、その「余裕」からヒット商品「ポストイット」が誕生したというサクセスストーリーである。
企業コンプライアンスについては、リスク管理型と企業価値向上型の2つのアプローチに分けて考察できる。
リスク管理型は、企業が法令等を遵守して企業不祥事を防止することを主目的とするものであるが、企業価値向上型は、リスク管理型の主目的を超えて、企業がその価値の向上を目的として、企業に対する様々な利害関係者の合理的要請に応える行動をとるアプローチをいう。
この2つのアプローチは対立関係にあるものではなく、企業コンプライアンスにおける歴史的展開関係にあるといえる。
スタートは、コンプライアンス=法令遵守である。「法令」とは、法律・命令・規則・条例などのいわゆる「ハードロー」である。
社会状況や時代の要請の変化に伴い、この遵守対象の「法令」が「法令等」となり、社内ルール・契約・約款・企業倫理などのいわゆる「ソフトロー」まで拡大されるにいたる。
ここまでが、リスク管理型コンプライアンスであり、過剰な規制や煩雑な手続規律による「疲労型コンプライアンス」になりがちである。
さらに、企業の利害関係人(株主・労働者が代表的)の様々な合理的期待・要請の集合体である「社会的要請」に企業がバランスよく対応する経営管理システムが「企業価値向上型コンプライアンス」で、企業の元気化を目指すものである。
企業としては、労働法(労働基準法・労働契約法・労働組合法などを基本法とした労働関係法令群)を遵守して、労働者を不幸にする「ブラック企業レッテル」等のリピテーションリスク回避のための「労働法コンプライアンス」は当然として、さらにこれを超えて、「労働者の幸せ」と「企業の生産性・業績向上」を相乗させるコンプライアンス経営することが、まさに社会的要請されている。
政府の成長戦略である働き方改革実行計画(2017年3月28日)における
①正規雇用労働者と非正規雇用労働者の間の不合理な待遇格差(労労格差)の解消(同一労働同一賃金ガイドライン等)
②罰則付き時間外労働の上限規制の導入などによる長時間労働の是正
③テレワークなど柔軟な働き方しやすい環境整備
④病気の治療と仕事の両立
⑤子育て・介護等と仕事の両立
などの様々な課題への具体的取組みは、まさにこの企業価値向上型コンプライアンスを支援するものとして理解・評価することが可能である。
今、幸せでない労働者が、幸せになる希望(Hope)がもてる雇用社会をどう構築するのか。
少子・高齢・格差化が構造的に進行する現代社会の中で、個々の労働者(L)は、その帰属する企業に寄生することなく自らワークアンドライフバランスを図りながら、そのスキル及びキャリアアップする努力をし、企業(E)は、企業価値向上型コンプライアンス経営によりこれを応援し、そして、政府(G)は、その労使関係の基盤となる労使間の明確なルール作りや労働環境整備のための政策立案・実行する。
そのことが、我が国の雇用社会の希望方程式
H=L×E×G
といえよう。