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トップ>研究>災害が継続する中でのうわさ・風評被害(下)

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松田 美佐

松田 美佐 【略歴

教養講座

災害が継続する中でのうわさ・風評被害(下)

松田 美佐/中央大学文学部教授
専門分野 コミュニケーション/メディア論

 5月19日に寄稿した「災害が継続する中でのうわさ・風評被害(上)」では、うわさをとらえる際には「事実かどうか」ではなく、「事実と感じられているか」が重要であると述べた上で、広まっているただ中のうわさは人々に事実と感じられているのであり、それに基づく行動は、ある意味「合理的」であるとした。とはいえ、うわさが社会混乱を引き起こすこともあるため、一人一人が採ることができる「うわさ対策」の例を挙げた。

 これに続く本稿では、まず、インターネットの普及によるうわさの特徴を検討する。近年のうわさは対面コミュニケーションだけでなく、メールやネット上のコミュニティで広がることが多いためである。続いて、問題となっている風評被害について、その「合理性」をうわさ論から分析した上で、一つの風評被害対策を提案したい。

メールでのうわさ・ツイッターでのうわさ

 今回、震災以降広まったうわさもそうであったが、近年のうわさはメールやネットを通じて広まるものが多い。そこで、対面でのうわさと比較したメールやネットのうわさの特徴を捉えておこう。

 まず、メールやネットでは誰がその情報を発信したのかが記録に残る。数年前、ある銀行がつぶれるといううわさがメールで広まったときには、その後の捜査で特定された「発信元」の女性が書類送検された。もっとも、その女性も「人から聞いた話」を大勢の友人に伝えようとメールで送ったとのことであるが、当然ながら、「人から聞いた」という部分の記録はなく、確かめようがなかった。特定の銀行や企業をめぐるうわさは特定の加害者を見いだせないことから、かつては風評被害の例としてあげられることが多かったが、発信者の記録の残るメールでは変化していくことだろう。

 また、匿名で送ることが容易な郵便の時代より、電子メールを使う今日は、「この情報を広げないと不幸になる」といった「不幸の手紙」より、「この情報を伝えると幸福になる」「みんなで献血に協力しましょう」といった「幸福の手紙」、あるいは「善意の手紙」のチェーンメールが目立つ傾向にある。自分が送ったことが相手に残るメールでは、相手に不幸をもたらす不幸の手紙は送りにくい。それよりは、相手に幸福をもたらしたり、ちょっとした「協力」を呼びかけたりするような、「善意」が転送の動機となるものがよい。コスモ石油のうわさも友達に知らせようという善意からチェーンメール化したのだ。

 さて、震災発生後からツイッターが活用され、マスメディアが伝えない様々な情報が伝えられたと評価されている。その一方で、ツイッターで書き込まれた不確かな情報が瞬時に拡散したことが問題視されている。もっとも、ツイッターでは情報拡散も早いが、収束も早い。その原因はいくつか考えられる。メールユーザーとツイッターユーザーの違い、PCユーザーの多いツイッターは「検証」が簡単であること、そして、コミュニケーションの特定性だ。

 うわさが人から人へと伝えられるとき、しばしば「とっておきの秘密の情報をあなたにだけ伝える」という形式がとられる。あるいは、公的機関の発表やマスメディアでは伝えられることのない情報の私的なルートによる伝達だとされる。どちらにしても、伝える側と伝えられる側に「特別の関係性」を生じさせるのであって、単なる機械的な情報伝達ではない。メールの場合、送り手は(他の人にも送っているにせよ)ほかならぬ「私」に送ってくれたのである。その「好意」に対して、情報の真偽を疑うような反応をすることは難しい。しかし、ツイッターでは、つぶやいた人は私だけでなく、広く大勢に向けて情報を公開している。私がその情報を入手したからといって、つぶやいた人に「恩義」を感じる必要はない。情報内容に疑わしさを感じたなら、「根拠を示せ」も言いやすい。

 このように考えるのなら、ツイッターはうわさにとってはあまり魅力的なメディアではないと言えるだろう。うわさのように、伝える側と伝えられる側に「特別の関係性」を築くことがないからだ。

風評被害の「合理性」

 原発事故収束のめどが立たない中、被災地や福島第一原発に近いと見なされる地域で生産された産品が忌避されている。また、避難者への差別的な言動も見られるとも報道されており、海外では日本全土、日本製品すべてが忌避対象になっているとも伝えられている。風評被害は不確かで誤った情報に基づいた人々の行動によって生じるものであり、特定の加害者が考えにくく、大勢の人々が関係することから、うわさに基づく被害だととらえられていることが多い。しかし、防災情報論を専門とする関谷直也は、風評被害とは「本来『安全』とされる食品・商品・土地を人々が危険視し、消費や観光をやめることによって引き起こされる経済的被害」を指すといい、うわさと風評被害は同時発生的で、必ずしもうわさが風評被害の原因となっているわけではないと述べている。

 実際、風評被害はうわさから生じているわけでも、「不確かで誤った情報」から生じているわけでもない。むしろ、政府の公式発表やマスメディアの報道はもちろん、ネット上の情報、個人的に聞いたうわさやクチコミ、さらには、個人の知識や信念などを含めたあらゆる情報に基づいて個人が採用する「合理的な行動」が引き起こす予期せぬ結果である。

 たとえば―――東北地方の取引先が被災しているかどうか情報がない。電話をすると迷惑かもしれないので、やめておこう。ただ、報道からすると、東北地方のインフラは復旧していないようだから、とりあえず注文はほかの取引先にしておこう。―――このような判断をする企業が増えることにより、被災していない多くの企業の経営が厳しくなる。このような個人的な推測がきっかけとなる風評被害はうわさとは関係がない。東北地方の取引先をむやみに危険視したのでもない。報道などから得た情報をもとに個人が合理的に推測し、おこなった判断が的外れであったのだ。

 うわさと類似しているのは、あいまいな状況において自分なりの推測や解釈、判断をおこなうことがきっかけとなることだ。上記の例のように、必要な情報が手に入らない場合だけでない。情報が充分ある場合でも、政府など公的な機関が情報を隠しているのではないかという不信感、公的な発表では本当に知りたい情報が得られないという不安感から、「政府は安全だと発表している。しかし、本当はどうなのだろう」といった疑問をもち、政府の公式発表やマスメディアの報道を鵜呑みにせずに、自分なりの解釈をする。

 たとえば、食品の安全性について考えてみよう。問題なのは、「安全な食品」と「安全ではない食品」の区分ではない。「安全な食品」として流通する食品が「安全だと感じられる食品」と「安全だとは感じられない食品」に区分できると人々に感じられていることが問題なのである。その区分は、公的機関の公式発表やマスメディアの情報などあらゆる情報をもとに、自分なりに推測し、なされるものである。そして、選択ができるのであれば、「合理的」に前者、すなわち「安全だと感じられる食品」を選択する。このように推測し、判断する人々に、数値を示して安全性を強調してもあまり効果は期待できない。うわさを消そうと「事実」をもって否定するのと同じだからである。数値で示されても、「政府の発表は信頼できない」「ゼロでないなら、危険性はある」「測定方法に問題があるのではないか」といった別の推測につながるだけだ。

風評被害対策のために

 では、どのようにすればよいのか。

 かつて、フランスのオルレアン地方で女性誘拐のうわさが広まった際に調査したモランは、対抗神話の有効性を強調している。「誘拐事件は起こっていない」という事実の公表では消えなかったうわさが、「このうわさは反ユダヤのうわさである」―――女性誘拐が起こっているとうわさされた店の経営者はユダヤ人であり、このうわさは反ユダヤ意味を持つ―――との意味づけが広まったことにより急速に収束に向かったというのだ。

 うわさが人々による情報の生成過程であるのと同じように、風評被害も人々による推測や解釈、判断に基づく行動である。だとすると、公的機関や関係諸機関が正確な情報を必要に応じて、充分提供することは重要であるが、それだけでは風評被害は防げない。必要なのは、証拠を示したり、検証をおこなったりできるような「事実」とは別の次元にあって、人々が行う推測や解釈、判断に影響を与える対抗神話である。

 とはいえ、残念ながら、何が対抗神話となりうるのか、私自身、答えを持っているわけではない。また、公的機関などが対抗神話を作り出そうとすることも、効果的ではないことも急いで付け加えておきたい。

 最近、風評被害に心を痛め、わざわざインターネットで野菜を注文、購入したり、あえて観光に行ったりするという話を多く聞くようになった。そういった話から一つ浮かぶのは、途上国を支援するフェアトレード運動のように、風評被害に苦しむ人々を継続的に支援するために、選択ができる場合は「あえて」風評被害地を選択しようという運動であり、それを可能にする市場とは別の論理にもとづく産品流通システムの構築だ。もちろん、これまで一般には知られていなかった企業を、個別に応援できるようなしくみもよいだろう。あるいは、市町村単位でも、より小さな単位でもいい。特定の地域のサポーターになり、被害地を継続的に応援するのはどうだろうか。

 阪神淡路大震災は、ボランティアが根付かないと言われてきた日本社会のありようを変える大きなきっかけとなった。同様に、この度の未曾有の災害をきっかけに、従来はなかった社会的な取り組みが定着する可能性は大いにあるはずだ。

 そのために必要なのは、被害を受けた人々はたまたま巻き込まれただけであり、被害を受けたのは自分だったかもしれないという想像力であろう。そう想像することで、地震や津波の被災者はもちろん、原発事故により被害を受けている人々への共感が長続きし、この「先行きが見通せない」災害を主体的に引き受ける意志を強く持つことができると考える。「気の毒な風評被害」ではなく、「わがこととしての風評被害」ととらえ、一人一人がおこなう推測や解釈、判断が、風評被害対策として一番効果的であると強調したい。

松田 美佐(まつだ・みさ)/中央大学文学部教授
専門分野 コミュニケーション/メディア論
1968年兵庫県生まれ。1991年東京大学文学部卒業。1996年東京大学大学院人文社会系研究科満期退学。東京大学社会情報研究所助手、文教大学情報学部専任講師、中央大学文学部助教授を経て、2008年より現職。共編著に『Personal, Portable, Pedestrian:Mobile Phones in Japanese Life』(MIT Press、2005年)『うわさの科学』(河出書房新社、1998年)など。「メディアが社会を変える」といった決定論的な視点ではなく、メディアと社会の関係性を動態的にとらえる視点を探っている。