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松田 美佐

松田 美佐 【略歴

教養講座

災害が継続する中でのうわさ・風評被害(上)

松田 美佐/中央大学文学部教授
専門分野 コミュニケーション/メディア論

 3月11日に発生した東日本大震災は多くの人命と日常生活を奪っただけでなく、それにより起こった福島第一原発の事故によって、いまなお多くの人の生活が脅かされている。原発事故は収束のめどが立ったと言えず、「先行きが見通せない」と感じている人が多い。ここでは、震災後に流布したうわさや広がっている風評被害を考えることで、「先行きが見通せない」と感じる状況での情報とのつきあい方を提案したい。

 ただし、ここで考えるのは、震災や原発事故の影響は受けており、「先行きが見通せない」と感じているものの、311以前の日常生活はとりあえず送ることができる人々についてである。というのも、そういった人々の多くが、被災地の現状に心を寄せ、支援を考え、行動に移しているにもかかわらず、一方で、日常生活の中で気がつかないままうわさによる混乱に巻き込まれたり、風評被害を生み出したりしている面があるからだ。

あいまいな状況を解釈するためのコミュニケーション

 まず、うわさ(流言蜚語)やクチコミ、デマなど似た意味合いで使われる言葉を簡単に定義しておこう。一般的に、うわさ(流言蜚語)とは人から人へと伝播する情報であり、その真偽は不確かであることが多いとされる。これに対して、同じく人から人へ伝播する情報でも、それが「事実である」と感じられる場合はクチコミと呼ばれる。一方、デマは流す人に何らかの意図(多くは、悪意)があって、流されるものとされる。震災後、デマという言葉が多く用いられているものの、流す人が特定できないものを指すのは適当ではないため、本稿では用いない。さて、まず重要なのは、うわさが広まっている最中においては、多くの場合それはクチコミ、つまり「事実である」と感じられていることだ。

 たとえば、地震当日、東京圏でケータイメールなどにより広まったものに「コスモ石油の火災で有害物質が降る」といううわさがある。多くの人はこれを「事実」、あるいは「ありそうな話」だとして、「友達に知らせてあげよう」と善意から転送した。というのも、当日、東北地方太平洋側での地震や大津波による甚大な被害状況と並んで、東京圏でさかんにテレビに映っていたのが、精油所の火災の様子であり、「火災により有害物質が降る」という内容は、多くの人にとって「ありそうな話」と感じられるものであったからだ。

 社会学者のシブタニは『流言と社会』の中で、うわさを「あいまいな状況に巻き込まれた人々が、自分たちの知識を寄せ集めることによって、その状況についての有意味な解釈をおこなおうとするコミュニケーション」と定義している。うわさとはあいまいな状況において人々が参加する情報生成過程なのであり、事後的に見ると「事実」である場合も、「虚偽」である場合もあるのだ。

 むしろ、うわさは「事実か虚偽か」ではなく、「人々が事実と感じているか否か」でとらえるべきである。実際、流布するうわさを、それが事実ではない証拠を示すことにより、止めようとすることは逆効果になることが多い。公的機関やうわさのターゲットが否定情報を出すと、「真実を隠そうとしている」という新たなうわさが生じるのだ。このことからも、うわさにおいて重要なのは、証拠を示したり、検証をおこなったりできるような「事実」ではなく、人々にとって「事実と感じられるかどうか」であることがわかるだろう。「うわさに惑わされる」というように、うわさに基づく行動は非合理的なものとみなされることが多い。しかし、広まっている中でのうわさは、あくまで「ありそうな話」なのであり、うわさに基づく行動もある意味「合理的」であると言えるのだ。

うわさの問題点

 うわさの問題点の一つは不安を社会に広める点にあるとされる。しかし、一方で、うわさは人々の不安のはけ口ともなっている。あいまいな状況を一人で抱え込むのではなく、ほかの人と不安な気持ちを共有するためにおこなわれる会話から、しばしばうわさが生じるのだ。この点を理解せずに、一概にうわさ(流言蜚語)の流布を押さえようとすることは無意味であるだけでなく、有害であるとも言える。総務省は4月6日、震災以降「地震等に関する不確かな情報等、国民の不安をあおる流言飛語(筆者注:流言蜚語と同じ)」がインターネット上で流布しているとして、電気通信事業関係団体に適切な対応をとることを要請した。これはネット規制につながるとして問題視されているが、そもそも何が流言蜚語(うわさ)なのかは流布している最中にはわかり得ないし、さらには、人々の状況を解釈しようとするコミュニケーションを阻害することは不安をより強め、口に出すことができなくなった不安が別の形で噴出することとなるため、慎むべきである。

 では、うわさに対して何らかの「対策」は不要なのか。

 うわさが虚偽の情報であった場合、その情報が広まることで、人々が誤った判断や行動をとることになる。これは確かにうわさの大きな問題点である。関東大震災の際に流布した朝鮮人来襲の事実無根のうわさにより、何千人もの人がうわさを信じた人々により殺された事件は、うわさの問題点を考える際に常に真っ先に挙げられる。加えて、社会学者のマートンが自己成就的予言と名付けた事象も重要である。これは、人々が思い込みや予想をもとに、通常とは異なる行動をおこなうことで、当初の思い込みや予想が実現してしまうことを指す。今回の震災後も首都圏を中心に水や米、カップ麺や電池などの買い占めが起こり、一時的にスーパーやコンビニは棚が空っぽになった。これは人々が「**がなくなるだろう」と思い込んだことにより、行動を起こしたからであって、当初の思い込みがなければ、このような事態にはならなかったはずだ。この「当初の思い込み」をうわさが広める例は、銀行破綻のうわさなどでよく起こっている。

うわさ対策としての批判力

 公的機関や関係諸機関が正確な情報を、必要に応じて、充分提供することは、上記のような社会混乱のきっかけとなるうわさの防止策として極めて重要だ。しかし、それら諸機関が出す情報が人々にとって事実と感じられなければ、事実と感じられる情報を求めて、うわさが流布する。

 そこで、重要になってくるのは、私たち一人一人の情報に対する姿勢である。1938年アメリカ東海岸で、ラジオドラマ『宇宙戦争』を聴いた多くの人々がパニックに陥るという事件が起こった。この事件を調査したキャントリルは、情報を批判的に検討することの重要性を挙げている。また、インターネットの普及を受けて、これからの情報社会を生きる上で必要だとして注目が高まっているメディア・リテラシーという概念にも情報を見極める力が含まれている。とはいえ、「情報は鵜呑みにせず、きちんと根拠を確かめましょう」というのは「言うは易く行うは難し」。しかも、うわさになるのは虚偽であると誰にでも明白な話ではなく、「ありそうな話」だ。

 そこで、誰にでもできる具体策を一つ挙げておきたい。それは、平時から過去流布したうわさやチェーンメールの内容や形式を知っておくことだ。うわさはよく似たものが繰り返し流布する。たとえば、次の大地震の日時を予告するうわさは地震被災地では必ずといっていいほど広まる。今回の震災後に広まっているうわさも、過去同じようなものが流れている。

 コスモ石油のうわさに話を戻すと、このメールを受け取った人すべてが、うわさを広げたのではなかった。文面に「なるべく多くの人に伝えてください」というチェーンメール特有の文がついていること、多くの友人から同じ文面のメールが届いたことなどから、このうわさがチェーンメールになっていることに気がついた人も多かった。「チェーンメールは転送しない」といったネット社会のマナーの浸透が、ある程度はうわさ拡散を食い止めたと言えよう。また、ツイッターでは、早くからその「根拠」を求めるつぶやきが発せられ、検証作業をおこなう人も多かった。このため、比較的に短時間で「これは虚偽である」と検証結果が示され、拡散を止めるつぶやきも増加し、メールより早くうわさは収束に向かった。

 メールやネットの利用により、うわさが拡散するスピードがあがったと言われる。しかし、内容が文章として残るメールやネットは、口伝えで広がるうわさより情報を批判的に検討しやすいこともあって、うわさの収束も早いのだ。

 さて、6月16日寄稿予定の「災害が継続する中でのうわさ・風評被害(下)」では、まず、メールやツイッターを通じて広がるうわさの特徴を検討する。近年のうわさは対面コミュニケーションだけでなく、メールやネット上のコミュニティで広がることが多い。「ネットはうわさの巣窟」などと評されることも多いが、実は、ツイッターはうわさにとってはあまり魅力的だとはいいがたい。次に、風評被害についてうわさ論から分析をすることで、その「合理性」を理解した上で、風評被害対策を一つ提案したい。

松田 美佐(まつだ・みさ)/中央大学文学部教授
専門分野 コミュニケーション/メディア論
1968年兵庫県生まれ。1991年東京大学文学部卒業。1996年東京大学大学院人文社会系研究科満期退学。東京大学社会情報研究所助手、文教大学情報学部専任講師、中央大学文学部助教授を経て、2008年より現職。共編著に『Personal, Portable, Pedestrian:Mobile Phones in Japanese Life』(MIT Press、2005年)『うわさの科学』(河出書房新社、1998年)など。「メディアが社会を変える」といった決定論的な視点ではなく、メディアと社会の関係性を動態的にとらえる視点を探っている。