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- 教員の視点 「上智大学の教員が現代を語る」
- ジョン・ウイリアムズ 外国語学部 英語学科 教授
100年前のカフカの「問い」をいまを生きる日本人にぶつけたい
- ジョン・ウイリアムズ
- 外国語学部 英語学科 教授
英国EU離脱問題でも垣間見えた現代社会の檻
先ごろ、イギリスのEU離脱をめぐる国民投票のニュースが世界を駆け巡りました。私の両親兄弟の中でも意見が分かれたようですから、まさに英国が二分されたわけです。
私自身は投票結果にたいへん失望しましたが、むろんその当否を論じる立場にはありません。ただ、SNSなどの普及でますます多様化したメディアを通し、一気に拡散される情報があやふやで、ときに全く誤ったものであっても、大きな力を持って人々の判断や行動を一つの方向に導いてしまう、いわば「マスコミ化された」社会の危うさを、まざまざと見せられた気がしました。
これは、イギリスだけではなく世界全体が直面している問題であり、日本も例外ではありません。私たちは、大量の情報から取捨選択し、自分の行動を決める自由を得ているように見えて、本当は情報の檻の中に閉じ込められているのではないか。あるいは、この「消費主義」に貫かれた社会のシステム自体が檻なのではないか。
半分眠ったように過ごしている現代人は、そろそろ起き上がって、そのことを問いただしてみるべきときがきていると思うのです。私は、そこに檻があるなら破って自由になりたい、少なくとも、自分の周りの柵をたたいて、檻に囲まれているのかどうかを確かめたい。
私にとってその方法は、映画を撮ることです。そして私の作品が、観る人にとって檻を探し、たたき始めるきっかけになってくれればと願っています。
2017年完成予定の新作『審判』も、まさにそんな映画になるはず。社会に窮屈さや矛盾を感じ、なんとかしなければと考え始めた人に、是非観ていただきたいと思います。
ありうるかもしれないカフカの不条理
30歳の誕生日を迎えた朝、目覚めた主人公はいきなり理由も告げられずに逮捕され、彼の裁判が始まる――ショッキングな冒頭から不条理な物語が展開する『審判』の原作は、20世紀初頭のチェコ(旧オーストリア)の作家、フランツ・カフカの小説。すでに何度も舞台化・映画化されている作品ですが、今回はストーリーもほぼそのままに、設定を現代の日本に置き換えました。
カフカは、10代なかばだった私が初めて読んだ芸術文学であり、以来何度も読み返している、一番なじみの深い作家です。実はこれまでに、何度も彼の作品の映画化を試み、自分で「カフカっぽい」脚本を書いたこともあるのですが、やはり映像にするのは容易ではなく、途中で挫折していました。
でも、最近『審判』を読み直し、これを撮るならいましかないと思った。そこに描かれた社会の空気感が、今の日本ととてもよく似ている。そして、彼の発する「自分は何者なのか」「人間は何のために生きているのか」という実存主義的な問いが、とりわけ現代の日本人に必要だと感じたのです。
こう言うと、なにか難解な映画になりそうですが、全体がサスペンス仕立てで、カフカ一流のブラックなユーモアにも満ちていますから、リラックスして楽しめるものになるでしょう。現実にはありえないはずの出来事、でもひょっとしたら……と感じてもらえたら嬉しいですね。
現在の映画業界では、こうした文芸作品の企画はほぼ通りません。そこで今回は、インターネットを使って少額の出資を募る「クラウドファンディング」の手法を試しています。成功すれば、必要な製作費を確保できると同時に、作品を観たい人の情報も得られる。その人たちに観てもらえれば、作品は一応の使命を果たしたことになりますから、そのあとの展開は、ネット配信などを含め自由に考えることができます。
おかげさまでファンドの応募状況は順調のようですが、興味を持たれた方は是非ご協力ください。
英語学科で映画の講義、そして卒業生が出演
私の人生が変わったのは、14歳のとき。ドイツのヘルツォーク監督の『アギーレ 神の怒り』、黒澤明監督の『デルス・ウザーラ』を観て、衝撃を受けたんです。それまで親しんでいた西部劇や「007」物とはまるで違う、深いメッセージと芸術性を備えた作品。むろんちゃんと理解できたわけではないけれど、何かを感じて、それから映画監督という将来しか考えられなくなりました。
ただ、当時イギリスで映画について学べる場所は国立の専門学校が一つだけで、入れるのは27歳から。コネがものを言う業界なので、とにかく就職して一から修業するというのも難しかった。
それで、とりあえずケンブリッジで文学を勉強し高校の教師などをしていたところ、日本の英会話学校の講師募集の広告が目に留まったんです。ちょうどそのころ、伊丹十三監督作品など、独特な世界観を持つ同時代の日本映画を観て興味を引かれていたこともあり、2年ほど映画学校の学費を稼ごう、といった軽い気持ちで日本にやって来ました。
ところが、イギリスより間口が広く自由な日本の業界の状況を知り、1年後にはこちらで映画を撮り始めてしまったんです。そして気がつけば30年近く、日本に住み、大学などで教えるかたわら、3本の長編を含むたくさんの作品を撮り続けてきました。
上智大学には2001年に採用していただき、外国語学部英語学科に所属していますが、映画に関係するさまざまな講義を担当させてもらっています。春学期にそれぞれ脚本を書き、秋学期にそれを映像化するという実践的なクラスもあるんです。
前述の『審判』には、私のクラスの受講生を中心に、学生・卒業生が製作にかかわってくれており、そのうち一人は女優として出演しています。また、同僚をはじめ資金面で応援してくれている人たちも多く、大学ぐるみでサポートしていただいている形で、私としてはとても心強く、作業も進めやすい環境に身を置いています。
最近は撮影機器やITの発達により、だれでもそこそこの映像作品を簡単に発表できるようになっています。映画もそうした「動画」の一つにすぎません。そこにあえて「映画」というジャンルの存在意義を見つけるとすれば、こめられた作り手の思いの大きさ、それに見合う時間と手間をかけた作り込み方、ということになるでしょうか。
ヘルツォークや黒澤の作品のように、いつまでも色あせない「映画」を、私も撮っていきたいですね。
- ジョン・ウイリアムズ
- 外国語学部 英語学科 教授
1962年イギリスウェールズ出身。上智大学外国語学部英語学科教授。
ケンブリッジ大学修士課程修了1988年来日。上智大学では映画製作、脚本、和文英訳などの科目を教授するかたわら、映画のプロデュース・監督を行っている。