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インターネットを入り口に
「生」を楽しむ人が増えてほしい
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第一印象は「これでやっていけるの?」
上智大学に進学しなかったら私は噺家になっていない……多分ですけどね。
大学に行きたい、というより上京したい一心で勉強して、経済学部の推薦枠をいただきました。ただその時から、親が望むコースは歩まないぞという、密かな心づもりもありまして。
それなら学費は自分で稼ぐのが筋だと、2年間「新聞奨学生」になったんです。朝刊の配達は明け方、夕刊は午後3時、それが週5日ですから、サークル活動はもちろん、授業終わりに皆で飲みになんてこともできません。学生の王道をどんどん外れていく、学校自体からも次第に足が遠のいていく、お世辞にもいいキャンパスライフとはいえませんよ。
でもそんな私を、上智は受け入れ野放しにしておいてくれたんです。それがために私は、高校でやっていた演劇をはじめ、あらゆる舞台やライブの類をたくさん観ることができました。その一つに寄席があって、これが落語との出会いになったわけです。
当時の寄席の昼席は、お客が10人足らずなのに、出てくる芸人は20人以上なんて頃で。芸人も寄席も、どうしてこれでやっていけるんだろう?と、経営学科の学生らしい(笑)疑問・関心が先に立ちましたね。なぜかそこから噺家という商売、そして落語そのものへと興味が広がっていくんですよ。
噺家になりたい、と自覚したのは3年生の夏。けれど、パッションだけで飛び込むのはいやでしたから、もう1年じっくり考えようと決めて、そこからは、自分が飛び込もうとしている落語界の「自主研究」に勤しみました。新聞配達に代わる学費稼ぎのアルバイトも忙しくて、学校の授業とは相変わらず疎遠な日々が続きましたけど。
でも上智は、こういうはみ出した人間にやっぱり寛容でした。そのおかげで1年後、私は自分の意志が固いことを確認できて、9月早々には入門を決められたんです。
そう言うと順調みたいですけどそうでもないですよ。取りこぼしてきた単位のツケがたまって、4年生の最後にして、42単位分もの試験を一つも落とせないという、まさにギリギリの状況で窮地に立たされましたから、そこは甘くなかったねえ。
2月から修業生活に入ってしまったんで卒業式にも出てないですし、はたして本当に卒業できたのかどうか……いや、どうやら大丈夫だったみたいですね、新年度の授業料の請求が届きませんでしたから(笑)。
結末がない、そこがいい
顔と名前が一致しない噺家はいないというくらい寄席や落語会を回り尽くしてましたから、好きな噺家は何人もいました。でも芸だけでなく人格も含めて、この人の弟子になりたい、というよりもそばにいたいと思った師匠は柳家小三治たった一人でした。
「食っていけねえからやめときな」と、まず断られるのは調査済み。門前に座り込むことも覚悟しつつ、断っても時間の無駄ですから早いとこ許したらどうですか、くらいの勢いで臨んだのがよかったんですかねえ、それともめぐり合わせか師匠の気の迷いか、いっぺんですんなり入門を許されたんです。
噺家の修業というのは、師匠や先輩のお世話という肉体労働もさることながら、やはり「言葉」のしつけが本当に厳しくて、師匠と口をきくのが怖くなっていきます。
「はい、わかりました」と返事すると、言葉が無駄と怒られるんです。「『はい』のふた文字に『わかりました』の気持ちまでこめられなかったら噺なんかできねえ」と。
育った土地で染みついた訛りを「命がけ」でとり、そこにあらためて古い東京・江戸の訛りを植えつける、これがまた大変なんです。
でも当然のことですよね。落語というのは会話、つまり言葉のやりとりそのもので成り立っている芸能なんですから。
近頃の方々は、落語にも「ドラマ」を求めすぎる気がしています。だから寄席のトリともなると、ハッピーエンドの人情噺みたいな「聞きごたえ」のあるものでないと満足しない向きもありますな。
ところが古典落語の多くは、何の事件も起こらず、とくに決着や結末がつくこともなく、ただおかしな会話が流れていく。そしてこれは、日本の昔からの文学や芸能に共通するものじゃないかと、私は考えているんです。
結論、結論とうるさく言いだしたのはたぶん西洋の影響だし、起承転結というのも漢詩の考え方。昔からの日本の芸ってのはたいがい「序破急」ですから、アレこんなところで?というタイミングで終わってしまう。能や歌舞伎にもけっこうそういう作品は多いですよ。
噺の場合は序も破もなんにもないのかもしれませんが、無理にまとめようとしない昔の人たちの大らかさみたいなものを含めて、「会話」の芸能を楽しんでいただけたらと思います。
変われど変わらぬ落語の面白さ
落語界では、インターネット、SNSの第一人者みたいに言われることも多いんですが、実はこれも上智のおかげかな。大学のパソコン室にこもって最初期の「Windows」をいじらせてもらい、初めてネットサーフィンなるものも体験した。それが、在学後半のパソコン関係のアルバイトに、そして現在の私の活動につながったわけですからね。
でも私は、デジタル・メディアを通した新しい落語の楽しみ方を提案しよう、なんて大それたことを考えているわけではありません。落語は「生」で聞いてこそ落語なんです。だから、ネット配信を含めて、こういうメディアを活用する目的はただ一つ「寄席や落語会に足を運んでいただくきっかけづくり」です。大事なのは、頂いたメールやメッセージにいちいち心を尽くして返事を書くような地道なアナログ作業、結局道具が違うだけでやっていることは同じですね。
とはいえ、これだけメディアも世の中も変われば、「面白い」の中身だって変わります。その中で古典落語はというと、これが「古典」といいながらどんどん代わる不思議な伝統芸能。だって師匠に教わった通りやったって褒められないんですから。噺家の数だけ演じ方ができていくわけです。
ただ、守らなきゃいけない心、根幹みたいなものがあって、そこから生まれる「変わらない」面白さを追っかけるのが、われわれ噺家の仕事だと思っています。もちろん、イマどきの笑いもギャグとして取り入れることもありますが、それはあくまでも「オマケ」に過ぎない。オマケ満載の落語で笑っていたお客様が、だんだんそれがジャマに思えて、落語本来の味をかみしめたくなっていくさまをみているのは噺家冥利でもあります。噺家はそれぞれのサジ加減でやっていますから、聞き比べてお好みを選んでいただければいいわけです。
とにかく、食わず嫌いはやめにして、まず寄席でも落語会でもなんでも、生の落語にお運びくださいな。来てさえもらえれば老若男女、初めてだろうと「通」だろうと、私たちが命がけで何とかする。わたしたちはそういう「職人」なんです。
- 柳家 三之助(やなぎや・さんのすけ)
- 落語家
1996年経済学部経営学科卒業。
1973年東京都生まれ。在学中に十代目柳家小三治に入門。1996年鈴本演芸場にて前座として入り、以後都内各寄席にて修業をする。1999年二つ目昇格「柳家三之助」と改名する。2010年真打昇格。自分自身のアピールだけでなく、インターネットという新しいメディアを使った新たな落語ファンの獲得を試みている。2004年に始まった自身の独演会「三之助をみたかい?」は札幌をはじめ全国各所で公演。海外公演もこなす。