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トップ>特別企画>常磐興産株式会社代表取締役会長・斎藤一彦氏×2014年度卒業生 中央大学座談会

特別企画

常磐興産株式会社代表取締役会長・斎藤一彦氏×2014年度卒業生 中央大学座談会

復興への道を歩む、震災後の東北を見つめて

 3月25日、中央大学多摩キャンパスで2014年度の卒業式が行われ、中央大学OBで常磐興産株式会社代表取締役会長の斎藤一彦氏が卒業生たちに祝辞を贈った。式後は斎藤氏と、福島や東北にゆかりのある卒業生たちによる座談会を実施。法学部の平山教授と中澤教授も同席し、東日本大震災から4年を経た被災地の歩みについて語り合った。

事業再開を支えた「一山一家」の精神

斎藤一彦氏

中澤
 この座談会では、東日本大震災で甚大な被害を受けた福島や宮城でボランティアや調査研究を行った卒業生たちに、斎藤会長からメッセージをいただければと思います。まずは会長から、常磐興産が運営する「スパリゾートハワイアンズ」の歩みについてお話しいただけますでしょうか。
斎藤
 常磐興産はもともと「常磐炭鉱」という名前で、湯本町(現・いわき市常磐地区)で石炭を採掘していました。湯本は当時から温泉地として知られていましたが、石炭採掘にとって温泉は天敵のようなもの。しかし石炭が斜陽化したとき、先人たちは雇用確保・地域振興のためにその天敵を活用したのです。それが現在のスパリゾートハワイアンズ(旧・常磐ハワイアンセンター)の始まりでした。その後も幾多の試練を乗り越え、今年でオープン50年。我ながらよく生き長らえてきたと思います。
中澤
 2011年の東日本大震災では、やはり大きな被害を受けられたのでしょうか。
斎藤
 3月11日の震災では、それほど大きな被害はありませんでした。ところが、その1か月後に起きた余震で壊滅的な状態になってしまったのです。我が社はこれまで石炭の斜陽化、バブル崩壊などを乗り越えてきましたが、このときばかりは私を含め大多数の社員が「今度こそダメだ」と思いました。しかし、地域の皆様の支援をいただいて、震災の約10か月後に何とか再開できたのです。

中澤秀雄

中澤
 私のゼミでは2013年にスパリゾートハワイアンズに宿泊し、当時のいわき市の調査を行いました。調査に参加した芦沢君から、その内容を紹介させていただきます。
芦沢
 私は、いわき市四倉町にある「いわき四倉中核工業団地」を調査しました。ここでは、原子力発電所の事故で避難してきた中小企業が、仮設の工場で操業していました。私はそのうち2社を取材したのですが、両社とも震災までは地域密着型の事業を展開してきたのに、拠点を移したことでほとんどの顧客と関係が途絶えてしまったそうです。同業他社や古くからの顧客に助けられて何とか事業を継続できているものの、どちらの社長も「今後、事業を大きくするのは難しい」とおっしゃっていました。理由としては、地域の同業他社の仕事を奪うことへの抵抗感、工場の敷地面積を広げることへの遠慮、後継者問題などが挙げられると考えています。
斎藤
 福島にはその土地に根ざした企業が多く、私たちも地域とともに歩んできました。炭鉱には、明治時代から続く「一山一家(いちざんいっか)」という言葉があります。その山で働く人は皆家族、死ぬも生きるも一緒だよというような意味で、こうした絆に我が社も大いに助けられました。震災後も社員が一丸となって頑張れたうえ、メーンバンクを始め地元の銀行も「資金は心配するな、全面的に支援するから安全第一に復興してくれ」と言ってくれたのです。中央大学の卒業生や在校生の皆さんも手を差し伸べてくださり、とりあえずは歩き出すことができました。しかし、同じいわき市でも海産物や海水浴が収入源だった沿岸部は、復興にまだまだ時間がかかるでしょう。地元企業にも、避難してきた企業にも、引き続き皆さんのご支援をいただければと思います。

相互理解の促進や心のケアにも支援を

宮崎汐里

中澤
 地域の絆というのは大きいものですね。もう一人、同じ調査に参加した草野君は福島県出身で、卒業後は福島での就職が決まっています。彼からも調査結果を報告させていただきます。
草野
 いわき市は被災地であると同時に、原発事故の被災者の避難地でもあります。そのため住人が一気に増え、交通渋滞や医療機関の混雑といった弊害も問題になっています。いわき市民と避難者との間にあつれきが起こることもあり、私はその原因と打開策の調査研究を行いました。その結果、あつれきの根底には不公平感があるのではないかと思ったのです。いわき市も津波被害を受けていますが、避難者の出身地ほどではないため給付金に格差があります。そこで私は演習論文で、互いを理解し合い認識を改めること、不公平感につながる国策を改善すること、この実態を世に広めることの三つの打開策を提唱しました。今後も「被災者のための復興政策の実現」を願って、この実態を広く知らせていきたいと思います。

芦沢公仁

斎藤
 住民と避難者との間にあつれきがあるのは間違いありません。しかし今は、徐々にお互いの立場を理解しつつあります。避難者の中には地元に戻れない人もいますが、移住するとなると範囲的にはいわき市が限界。福島の人は土地に根ざしていますから、気候も人の性質も異なる遠い地域にはなかなか移れないでしょう。お互いに理解し合い、どちらも安心して暮らせる環境づくりを目指したいですね。
中澤
 その通りだと思います。一方、宮崎さんは母方の実家が岩手県陸前高田市にあり、震災後は隣接する宮城県気仙沼市で復興支援のボランティアリーダーを務めました。その活動内容を紹介させていただきます。

草野大貴

宮崎
 私は2011年の年末から気仙沼市にある仮設住宅でコミュニティ支援団体と協働したボランティア活動や、地域の子どもたちへの学習支援を行ってきました。当初は自分のいたらなさや未熟さを痛感させられるばかりで、被災者の方々のお役に立てているという実感がなかったのですが、学習支援を通じた子どもたちとの関わりや仮設住宅での活動のなかで、まずは一人一人の人間同士として理解し合うことが大切だということに気づきました。私のような東京から来た大学生も、被災された方々や子どもたちも、話すことで分かり合うことができ、気持ちが前向きになったり、誇りを取り戻したりすることがあるのだと教えられました。
斎藤
 気仙沼の辺りも大変な被害を受けましたが、地元と復興支援の方々が一体となって頑張っていますね。でも大変なのはまだまだこれから。精神的な支えも含めて、継続的な支援が必要だと思います。福島の人は口が重いので、なかなか面と向かって「ありがとう」とは言わないかもしれませんが、心の中ではきっとそう感じているはず。当事者には思いつかないこともたくさんあるので、私も復興支援の方々には非常に助けられました。