小林 秀徳 【略歴】
小林 秀徳/中央大学総合政策学部教授
専門分野 政策科学、システムダイナミックス
政策科学は1971年に学術ジャーナル Policy Sciences の創刊によって始められた一連の方法論争の成果である。それは、次の二つの現実に対する学界の応答であった。
一は1960年代を通して意志決定科学において採用されていた「制約条件付最適化問題を解くこと=合理的意志決定」という等式が、政治的現実を反映した政策決定のモデルとして実証的妥当性を欠くこと。二は社会科学において採用されていた実証主義社会科学(positivist social science)の基準が、科学研究のプログラムから「政策志向性=政策決定を改善するために役に立つ知識を形成しようとする政治的意図」を排除したことである。
政策科学運動の代表的指導者ドロア(Yehezkel Dror)とラスウェル(Harold D.Lasswell)は、各々「経営科学と行動科学の融合」および「政策決定過程における知識と同過程ついての知識」を専門とする新しい科学の成立によって、これら二つの隘路を克服できるものと考えていた。
この40年ほどの学界動向として、経営科学は実証理論としての傾きを強め、行動科学は政策志向性を自らのものとし、意志決定へのコンピュータの導入は、政策決定過程における科学的知識の利用を洗練してきた。他方、民主主義を標榜する政策科学は、市民参加を範疇として、脱実証主義(post-positivist science)への志向を明確にして、今日に至っている。
この社会的コンテクストにおいて、初期構想の内にあって、その実現が決定的に遅れているのは政策過程「についての」知識形成である。今や政策科学を唱える者は、政策過程を実証理論的に解明する研究プログラムを自らの責任において公表する用意を持たなければならない。
著者が提案するプログラムは、政策過程における政策研究の実践に準拠したものである。以下にその一例を示そう。ここでは、①情況②モデル分析③代替案④社会的フィードバックの順番で述べることにする。
政策科学発足と同じ頃(1972年)、日本では東京都知事が「ゴミ戦争」を宣言した。時代は高度経済成長末期。都民は爛熟した消費文明を謳歌していた。ゴミの排出量は増加の一途を辿り、これを処理すべき清掃工場の能力はその増大に追いつかず、ウォーター・フロントの最終処分場を過早に埋め尽くすことが懸念された。大規模清掃工場の建設は予定地域住民の反対にあって頓挫。溢れる未処理ゴミを満載した収集車輌の渋滞を生活道路に抱える処分場近くの住民は、他区からの生ゴミ搬入阻止の実力行使に及んだ。対話による都政を公約に掲げた都知事は、時間をかけて住民と対話集会を開いたが、そうしている間にもゴミの排出量は増大し続けて行く。どうしたら良いのか。これは都知事にとっても、都議会の与野党にとっても、関係地域住民にとっても、一般都民にとっても、正に政策問題であった。未だインターネットはなかったから、新聞・TV等のマスメディアが連日囃し立てていた。
日々の消費生活から排出されるゴミを自分で処理する場合を考えよう。処理装置を自宅に備えなければならないが、どれほどの処理能力を用意すれば良いだろうか。豊かな生活を楽しむためには消費を大きくしたい。消費が大きければ処理すべきゴミの量も多くなる。処理能力の大きい装置を設置するにはその分大きな設備投資が要る。生涯にわたって稼ぐ所得は限られているから、その所得を有効に使って最も満足度が高くなるように、いつどれほど消費をするか、いつどれほど設備投資をするかを真剣に検討して、最適消費計画を立てなければならない。最適消費計画においては、生涯に亘る消費と投資の各々の額とタイミングが同時に決定される。このとき、消費と投資の最適解におけるゴミの最適排出量は、同じ消費から排出されるゴミの量にして最低の水準に抑えられているはずである。何となれば、用意すべきゴミ処理能力は小さければ小さいほど投資が少なくて済むので、消費にまわる所得分を大きくすることができるから、真剣な検討の結果決着した最適解では、ゴミは最底限に抑えられているはずである。この最低限のゴミの量を全ての個人について集計したものを、ゴミの「社会的最適排出量」と呼ぼう。
ところでゴミ処理設備のような装置には規模の経済性が働く。各戸に個別の小規模装置を置くよりも、何戸かが一緒になって一つの処理工場を設けた方が、総コストが安くつくのである。ただしその場合は処理工場までのゴミの輸送費も考慮に入れなければならない。どこにどれほどの処理工場を配置したとき、輸送費用も含めた総コストが最も安くなるか。これは工場の最適立地問題といって、数理計画法の恰好の練習問題になる。
有能なエンジニアが最適立地問題を解いたとしよう。この時、最適立地におけるゴミの総処理量は、二つの理由により、ゴミの社会的最適排出量よりも大きな値になる。何故か―第一に規模の経済を実現した分だけゴミ処理にかかる総費用は安くなっているはずだから、その分、消費が増大してゴミの排出量が増えるからである。第二の理由はもっと重大である。各戸処理の最適消費計画問題で達成されていた「同じ消費から排出されるゴミの量にして最低の水準に抑えられている」という最適性を保証する根拠が、集中処理においては全く失われているからである。ギリギリまで最小化されたゴミ排出量が達成されなければ、必ず排出量はそれよりも大きなものとなる。社会的最適排出量を超えて、それよりも大きな処理能力を計画しなければならないのだから、最適立地問題の解が示す計画は「過大」である。
過大能力の大規模清掃工場だから、マイ・バックヤードに建ててもらっては困るのだ。過大なゴミを埋め立てるから最終処分場の過早な消耗が惜しまれる。過大なゴミを運ぶから収集輸送コストの増大が納税者として受け容れられないのである。
逆に、ゴミの排出量が過大なのだから、ゴミの排出量は抑制することができる。かくして一つの解に到達した。曰く:ゴミ問題の解はゴミの減量を施策の基本に据えることによって得られる。
当時、ゴミ減量という解決策は、大量のゴミを鮮やかに処理する大規模技術を売り込もうとするゴミ処理エンジニアにとっては、許すことのできない退嬰的な政策提言であり、ゴミ問題の専門家達の禁忌に触れるものだった。何よりも大量消費を美徳として謳歌する都民達をシラケさせ、支持率に気を使う都政の受け容れるところとはならなかった。
翌1973年は、初めてのオイルショックを迎えた年である。列島改造論の破綻、狂乱物価、世界同時不況等々、一連の逆境到来は都民の消費生活を直撃。ゴミ排出量はドラスティックに減少して、ゴミ問題は嘘のように消滅した。このことは前のモデル分析の結論=ゴミの減量がゴミ問題の解決策である=をオイルショックが証明してくれたことを意味している。
ことの顛末はこれでは畢らない。これより20年後、バブル景気で増大した消費は再びゴミ問題を惹起した。東京都は最終処分場の枯渇時期が5年以内に迫っている旨アピール(この予測は20年前のモデル分析によるものとピッタリ一致しているが)、新都庁舎とともに先導的政策の都政よろしく「ゴミ減量対策室」を設置し、いかにも当然のごとく、政策対応を示したのである。以降、東京都は清掃事業を区に移管して今日に到っている(実は自区内処理のメリットも20年前の政策提言に含まれていた)。
政策問題をきちんと述べ直しモデル・アナリシスを適用し政策問題の解となり得る代替案を導き出す、という一連の作業を「政策研究」と呼んで差し支えない。政策研究を採用せずに解決は市場に任せるというやり方もある。ゴミ処理サービスが消費者用の商品として供給されるように枠組みを用意してやるのである。この方式を1972年に提言しなかった理由は唯一つ。これだと街中に不法投棄ゴミが溢れる結果となることが目に見えていたからである。
彼が実業家なら売上を取り逸れるような、彼が政治家なら票を減らしてしまうような、「政策問題の解決策」を、政策研究の結果として大真面目で世間に示し続ける仕事を、顛末を知るには30年もかかるようなケース・スタディとして、一つ一つ積み上げていくことが重要である。
都民の消費文化は大きく変わった。これが20年を隔てた二つのゴミ問題における行政の対応の差をもたらしている。政策は文化を変えないが、文化は政策を変える。総合政策研究の結果と顛末を書き記し、現実の政策決定者がいつでも参照できるようにしておくことが政策過程の解明に裨益するのである。ここに政策決定者とは集合としての市民にほかならない。政策決定者としての市民の相互作用の連なりが、公共的・市民的秩序の決定過程を構成する。そこにおける参加的総合政策研究の実践を通して現実の政策過程を実証的に解明する、政策科学研究のプログラムが当に提議される所以である。