私が中央大学を卒業したのは1978年である。この年は、中大が駿河台から多摩に移転した年で、私は4年間を駿河台の(あの狭い)キャンパスで過ごした最後の世代である。
翌年司法試験に合格し、1980年4月から第34期の司法修習生となった。遠山信一郎教授とは同期であり、その縁でここに投稿させていただくこととなった。
私が「情報公開」という問題に出会ったのはこのころである。1980年は、ちょうどアメリカの情報公開法が日本でも知られるようになり、法制化への取組が始まっている時期であった。国の法制化は結局先送りになる(情報公開法の制定は1999年である。)が、地方公共団体では当時のいわゆる「革新自治体」を中心に制度化が実現していくことになる。
その中でも最も熱心に取り組み、都道府県で始めて情報公開条例を制定したのが神奈川県であるが、私が実務修習で横浜に赴いた1980年7月には、神奈川県の条例制定が大詰めに差し掛かっていた。弁護士会でも情報公開制度の研究チームが作られており、たまたま私が弁護修習の個別指導でお世話になった鈴木繁次弁護士はそのチームのリーダーであった。(中大の卒業生で、神奈川県弁護士会の重鎮である鈴木先生とは、その後地元の神奈川大学の実務家教員をご一緒するなど様々な形で薫陶をいただいている。)そこで弁護士会の研究会に参加したり、市民団体の勉強会にも顔を出すなどかかわりを深めることになる。
1982年4月に無事弁護士登録したが、この年の秋に神奈川県の情報公開条例が成立し、翌年4月から施行されることとなった。
この時期、注目されていたのは公害訴訟、医療過誤訴訟、消費者事件などで、私もこれらの問題に関心を持ち、実際いろいろな弁護団に加わっていった。他方で情報公開の分野については取り組む弁護士は少なく、駆け出し弁護士の私に公開請求者側からの事件が集まってくるようになった。実務家であれば容易に想像できるようにこのような事件は全くお金にはならない。多くの訴訟を抱えてはとても続かないので、不服申立てを活用した。非公開の決定に対して行政不服審査法に基づく不服申立てをすると、情報公開審査会という第三者機関に諮問され、そこで判断するという仕組みが神奈川県が先鞭をつけて確立していた。この審査会での審査に申立人の代理人あるいは輔佐人として関与することをしばしば行っていた。訴訟ほど負担感がなく、結構成果を上げられることで、私は審査会制度を積極的に評価していた。相手方として最も多数の案件があったのが横浜市、ついで神奈川県であるが、横浜市の審査会には藤原静雄先生、神奈川県の審査会には堀部政男先生が理論的支柱としておられた。両先生とも後に中大ローで教鞭をとられることになり、中大ローはずいぶん贅沢な環境だなあと思ったものだ。
私が担当した訴訟で注目されたものとしては、情報公開訴訟におけるインカメラ審理の可否についての最決平成21年1月15日がある。これは文書提示命令によるインカメラの実施を認めた福岡高裁の決定を覆し、否定したものであるが、法改正によるインカメラ実施の可能性を認め(従来は違憲とする見解もあった)、導入に積極的な補足意見があることなど、導入への道を開いたものと評することができる。
また、情報公開をめぐり、「不存在とされていた議事録が実は存在した」というケースについての国賠訴訟を担当し、この種の事案としては高額の賠償の認容を得た件がある。(1審判決東京地判平成18年10月2日、控訴審判決東京高判平成19年3月29日)。この事件では珍しく国の公務員に対する反対尋問が(多分)功を奏したのであるが、ちょうどこの時、中大ローの学生が集団で傍聴にみえていた。恥をかかずにすんだのは幸いであった。
このように基本的には公開請求をする側に寄り添ってきたのであるが、2000年ころから地方公共団体の審査会等の委員に任ぜられるようになる。2000年7月からは逗子の情報公開審査委員、2004年10月からは神奈川県の個人情報保護審査会の委員となり、不服申立て案件について判断する立場となった。
そして、私の人生を大きく変えたのが、2011年10月から3年間に渡り、内閣府情報公開・個人情報保護審査会の常勤委員となったことである。それまでこの審査会の常勤委員は、裁判官、検察官、公務員の出身者で占められていたが、当時の民主党政権の方針により、弁護士を入れることとなり私にお鉢が回ってきたのだ。常勤委員は兼職禁止なので、弁護士登録を抹消し、法科大学院の教員も辞して審査会に専念することになった。毎日審査会事務局に出勤して一日中部屋にこもり、職員と共に案件の論点整理をする。月3回くらいある部会の会議では4時間かけて10数件の案件を審査する。3年間で530件の答申を取りまとめたが、判断する立場で、不開示文書のインカメラ審査を含め大量の事案に接したことで、大きく視野が広がり、代えがたい体験になった。
審査会にいるとき、部会会議の後の時間に、中大ローの学生の訪問を受けたことがある。稲葉一生教授が20名くらいの学生を引率してこられた。私の所属する部会は、非常勤委員として学習院大ローの大橋洋一教授と国学院大ローの中曽根玲子教授がおられ、私も含め法科大学院生を見ると大いに語りたくなるので、結構盛り上がり、学生諸氏も役所の訪問としては面白いと感じて頂いたようである。
退任後、審査会での仕事ぶりや情報公開の主な論点について私なりに考えたことを「論点解説 情報公開・個人情報保護審査会答申例」(日本評論社、2016年)という本にまとめた。税込みでは約6000円という高価な本(中身が充実しているからではなく、あまり売れないそうにないので高くなった。)ではあるが、この分野に関心のある方には是非ご一読いただきたい。
2014年10月から弁護士に戻り、しばらくはのんびりしようと思っていたら、ほとんど弁護士らしい仕事をしないまま4年が過ぎてしまった。それでも、現在はいくつかの地方公共団体の情報公開関係の審議会、審査会の委員をしており、それなりに充実している。
昨年から、情報公開、公文書管理をめぐる国の不祥事が相次いで起きた。実はそのほとんどは、審査会の答申で同様の問題を指摘していたのに改めようとせず、漫然と繰り返されていることなのである。「2」に紹介した国賠事件も「目の前にある文書をないと平気で言えてしまう」役所の体質の現れである。賠償金を課されても、審査会が苦言を呈しても体質は変わらないまま来ているわけで、いまだ情報公開の基盤ができていないことを痛感する。
私はあと数年で法曹となって40年を迎える。同時にわが国の情報公開制度も40年を迎えることになる。そのとき情報公開制度はどこまで根を張り、実を結ぶものになっているか、黎明期からかかわってきた者として見届けていきたいと思う。
2019年冬号
学生記者が、中央大学を学生の切り口で紹介します。
外務省主催「国際問題プレゼンテーション・コンテスト」最優秀の外務大臣賞に 及川奏さん(法学部2年)/赤羽健さん(法学部1年)
Chuo-DNA
本学の歴史・建学の精神が卒業生や学生に受け継がれ、未来の中央大学になる様を映像化
Core Energy
世界に羽ばたく中央大学の「行動する知性」を大宙に散る無数の星の輝きの如く表現
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