ムージルが1938~39年に住んでいたと推定されるペンション・フォルトゥーナの離れ
© Baugeschichtliches Archiv Zürich
筆者の場合は10日間から2週間程度、ヨーロッパのおもにドイツ語圏の都市を2つか3つ訪問して、調査したり資料収集をすること。たいてい9月上旬だから夏休み中であり、補講をする必要はない。たとえば生命科学系の先生なら南米で化石を捜したりするだろうし、社会学系の先生なら某地域の実地調査をしたりするだろうが、筆者のテーマはオーストリアの作家ローベルト・ムージル(1880~1942)の伝記的研究なので、彼の活動したチェコ、ドイツ、スイスなどの諸都市で現地調査をし、知られざる記録文書を掘り起こしたりする。最近の例だと、ムージルが亡命生活を送ったチューリヒの住居をほぼ特定することができた。
その費用は一定の条件を満たせば各種研究費から出してもらえる。筆者は退職するまではほぼ15年間、毎年出かけることができた。けれども最後の3年間は帰国後に疲労のため病院で点滴の治療を受けるようになった。結構ハードな仕事なのだ。
ムージル37歳。1918年頃。第一次世界大戦中の功績により3つの勲章を授けられた。
© Robert Musil Literaturhaus
ドイツ文学のなかでもカフカ、ヘッセ、トーマス・マンに較べると圧倒的に知名度が低い。とはいえ1999年にミレニアム(千年紀)記念に行われたアンケートで、ムージルの未完の長編『特性のない男』は20世紀ベスト(第一位)のドイツ語小説に選ばれているのだ。ジョイスの『ユリシーズ』、プルーストの『失われた時を求めて』とならんで20世紀の三大小説にかぞえられる。だが私見ながらほかの2つの小説とは全く次元が違う。筆者にとってこの小説は世界と人生と、人間の知性、感情、そして魂を真っ正面から対象にした途方もない小説だからだ。一万頁におよぶ遺稿の解読と整理はデジタル版新全集に集約されている。鋭利かつ繊細で厳密な精神をもつムージルはブリュン工科大卒のエンジニアで、ベルリン大で実験心理学をも学んだ哲学博士、かつ陸軍幼年学校出身の将校でもあって、該博な知識と深い思索を踏まえたその作品はドイツ人でもそう簡単には読めない。その死後に再評価の気運が高まったけれども、ムージルの伝記的なデータはなかなか整わない、というか穴だらけだった。
すでに妻をはじめ親族の多くは亡くなっており、友人、知人の証言などからジグソー・パズルのピースを埋めるようにムージルの生涯が復元されてきたのだが、まだまだ欠損部分はたくさんある。
たとえば筆者はムージルが17歳、18歳のときに地元チェコはブリュンの新聞の日曜版に偽名で発表した作品(「交霊会」「薄明にて」)を掘り出した。それまで知られていなかった作品なので、これはヒット。最近の例だと1903年にムージルがシュトゥットガルト工科大学の機械工学実験室で研修していた証明書を見つけ出した。これは当時の所長カール・バッハが書いた証明書で、百年以上埋もれていたもの。それまでは間接証拠しかなかったので、これもヒット。筆者はこれまで2ダースほどのヒットを中央大学の紀要(「ドイツ文化」、「人文研紀要」)にドイツ語で発表してきた。一部は著書としてドイツの出版社から刊行している。
ムージル文学館という施設がオーストリアのクラーゲンフルト市にある。そこではデジタル版のムージル全集を編纂しており、ムージル関係の資料は誰がいつどこで発表したかも管理している。筆者の論文もまずこのムージル文学館に送付する。だけではなくて論文抜刷り(紀要のなかの筆者の論文だけを冊子にしたもの)を欧米のムージル研究者たちに航空便で送付する。抜刷りを読んで重要な発見であることが分かる人が日本にあまりいないからでもある。日本語の論文を欧米の研究者たちに送っても理解されないのだから仕方がない。昨年暮れにはスイスの有力紙『新チューリヒ新聞』に、冒頭に挙げたムージルの住居に関する記事を筆者の署名記事として掲載してもらった(『子供たちの叫び声のため、作家ローベルト・ムージルはチューリヒを去った』)。
チューリヒ市にとって作家ムージルが滞在を続けず、小説を完成することもなくジュネーヴへと移住したことは大きな損失であり、その理由となる住居の様子がどうだったのかが分からない、とすでに15年前に『新チューリヒ新聞』文芸欄で話題になっていたこともある。掲載されてすぐにスイス、ドイツ、オーストリアの研究者から「おめでとう」とメールが来た。quality paper 『新チューリヒ新聞』に執筆できるのは希有なことであり、おそらく日本人でははじめてだろう。1)
たとえば箱根駅伝の生中継はドイツでは見られない。というかヨーロッパに限らず日本以外の国々では、箱根駅伝というものがあること自体知られていないだろう。筆者の論文などには必ず Prof. Hayasaka. Chuo-Universität, Tokio と表記される。ささやかながら中央大学の知名度アップに貢献している。もちろん作家ローベルト・ムージルに関しては国際ローベルト・ムージル学会(IRMG)があり、ムージルに関する論文ほかの仕事はBeitrag (寄与、貢献)として整理されるから、まあとにかく仕事をすれば「貢献」したことにはなる。とはいえ海外学術調査に「海外」と付くのは日本ぐらいで、ふつうはakademische Recherche(学術調査)だけだ。つまりはるばる日本から航空機で往復20時間、多額の費用をかけて調査に来るとなると、問合せを受けた各地の文書館、資料館等々も「手ぶらでは帰せない」と本腰を入れて資料を捜してくれることが多い。極東の日本の研究者だからこそゲットできるドキュメントも時々はあるし、日本人ならではの貢献となる。こういうadvantage を活用したいものだ。2)さらに筆者は自分の仕事を Zivildienst (兵役代替社会奉仕役務)の一部でもあると勝手に考えている。
ドイツでは Wehrdienst(兵役義務)が2011年まであった。戦時にはいつでも銃を手に取れるように一般の青少年が9ヶ月間兵舎に寝泊まりし、匍匐前進、射撃訓練、野営、実戦演習などをする。ドイツに限らず韓国でもスイス、ロシアなどほぼ20カ国で、おおよそ半年から2年の幅で兵役義務がある。戦後75年間無かったのは日本、アイスランド、コスタリカなど少数だ。3)ただし韓国、北朝鮮を除くほとんどの国では「良心的兵役拒否」が可能だ。ドイツでは「人を殺したくない」など反戦の主張が認められれば代替役務として老人介護、障害者施設、赤十字などで12ヵ月から20ヵ月(年度により違っている)ヴォランティア活動することができる。さて日本ではどうだろうか。戦後75年間、平和憲法のおかげで兵役義務はなかった。以下は筆者のごく私的な妄想かもしれないけれども、いわば国民全体が「良心的兵役拒否」をしていたようなものだ。ではそれに伴う「代替役務」を果たしていただろうか。そもそもほとんどの外国人は日本が「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」戦争を放棄したことなど知らない。日本国憲法前文には「われわれは(…)国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」とあるけれども、果たしてただ戦争放棄によって名誉ある地位をゲットできているのかどうか。よそから見たら国民全体の「良心的兵役拒否」は、のんびりサボっているのと同じではないのか。このところキナ臭くなっている国際情勢のなかではもう手遅れかもしれないが、「国際社会において名誉ある地位を占め」るためにどれだけのことをしてきたのか。日本人が、気軽に原爆を落とせるような人びとでないことをどれだけアピールしてきたのか。失礼ながら文系の先生方の中には、日本国内をスパンとして仕事をしている方々、箱根駅伝をすべてとしているような方々が少なからず見受けられる。筆者は『新チューリヒ新聞』に投稿し、ドイツの出版社(Wilhelm Fink 社)から著書を刊行した。微力ながら日本人が国際的な学問研究の発展に寄与している一例になるだろう。効果のほどは分からないけれども筆者のささやかな仕事も「代替役務」として、現代の脅威に満ちた世界情勢のなかで、日本人の名誉ある存在の一端を示す貢献になるのではないかと夢想している。そして中大生諸君もそういうスタンスもあることを意識して、グローバルな規模の仕事をしてほしいと心から思う。
2019年冬号
学生記者が、中央大学を学生の切り口で紹介します。
外務省主催「国際問題プレゼンテーション・コンテスト」最優秀の外務大臣賞に 及川奏さん(法学部2年)/赤羽健さん(法学部1年)
Chuo-DNA
本学の歴史・建学の精神が卒業生や学生に受け継がれ、未来の中央大学になる様を映像化
Core Energy
世界に羽ばたく中央大学の「行動する知性」を大宙に散る無数の星の輝きの如く表現
[広告]企画・制作 読売新聞社ビジネス局