30年前であれば、日本でお勤めの方は、政府とお勤め先が退職後の貯蓄に関して相応しい用意をしてくれると期待できたでしょう。また、退職後の貯蓄を蓄えるためにどんな金融商品を使えば良いか、自分で勉強する必要も感じなかったでしょう。今日では、過去20年間にわたる低成長、急激な人口高齢化、そして低金利といった理由から、退職後の貯蓄を取り巻く環境が大幅に変貌したので、日本でお勤めの方はそのような期待はできません。お勤めの方の退職後の貯蓄に関して政府とお勤め先が果たす役割についてみると、低成長と急激な人口高齢化により、公的年金給付額のお勤めの方の所得に対する比率は低下します。持続する低金利環境のために、確定給付企業年金ではなく、確定拠出企業年金を採用するお勤め先が増えています。伝統的な確定給付企業年金の場合、お勤めの方の老後の貯蓄を蓄えるのはお勤め先の責任です。最近採用されることが増えている確定拠出企業年金の場合、お金を蓄え、金融商品に投資し、引き出して消費する意思決定の責任は、お勤め先ではなく、お勤めの方にあります。もともと確定拠出企業年金は中小企業でよく採用されていましたが、2017年からは、お仕事をされていない人、一部の条件を満たす民間企業でお勤めの方、公務員の方でも個人型の確定拠出年金への参加が認められました。退職後の貯蓄を取り巻く環境は変貌しており、より多くの日本でお勤めの方が、どれだけを貯蓄し、何に投資するかを決定しなければなりません。また、退職された方も、亡くなるまでの支出計画を注意深く考えなければなりません。
退職後の貯蓄を取り巻く環境が変貌するなかで、今日では、日本でお勤めの方は退職後の貯蓄を蓄積するための金融商品の詳細について勉強する必要があります。なお悪いことに、銀行預金や保険会社が販売している個人年金のような伝統的な簡明で安全な金融商品ではなく、株式や株式投資信託のような複雑でリスクのある金融商品について勉強する必要があります。その理由は、持続する低金利環境です。今日、銀行預金と個人年金などの商品は、日本の家計が保有する金融資産残高の70%以上を占めています。ところが、長期にわたるデフレと低い経済成長率の結果、長引く低金利環境のため、これら二つの伝統的な金融商品は老後の貯蓄を蓄える手段としては魅力的ではなくなりました。ですから、保有する金融資産のうち銀行預金や個人年金の比率を下げ、株式や株式投資信託の比率を上げていただく必要があるかもしれません。例えば、伝統的な定期預金についてみると、1990年10月に郵便貯金(現在のゆうちょ銀行)が販売していた3年以上の定額郵便預金の利子率は年率6.33%でした。もし読者がこの定額郵便預金を1990年10月に100万円買うと、預金が倍増するまで12年でした。2017年10月時点では、同じ定額貯金の金利は0.01%です。もし読者がこの定額預金を100万円買われると、預金が倍増するまで6,931年かかります。日本の生命保険会社が提供する金融商品については、日本銀行がマイナス金利政策を2016年1月に採用して以来、日本国債の利回りを含む長期金利が市場全般に低下したことを眺め、多くの日本の生命保険会社は従来の個人向け人気商品だった一部の個人年金を販売停止しています。なぜなら、生命保険会社は、日本国債のような安全な金融資産に投資することで得られる投資成果をもとに、長期にわたって将来よい利回りを顧客に約束することが難しくなったからです。2つの例から、より多くの日本のお勤めの方が、銀行預金や個人年金ではなく、株式へ投資することを検討すべきことが示唆されます。まとめると、日本でお勤めの方は、今日、ご自身の責任において金融資産に貯蓄し、投資し、引き出さなければいけないばかりか(例えば確定拠出年金を思い浮かべてください)、長い目で見て伝統的な金融商品よりも良い利回りを獲得できそうな株式や株式投資信託のような複雑でリスクのある金融商品で資産運用しなければならないかもしれません。
日本の家計は、リスクはあるが、利回りの高い金融商品を購入する準備ができているでしょうか。金融商品を購入する際に、賢明な選択をできるようにするための一つの鍵は、「金融リテラシー」です。金融リテラシーとは、経済の情報を理解し、そうした情報を貯蓄や借り入れの意思決定といった金融に関する計画に取り入れて意思決定をする能力のことです。ある程度の金融リテラシーがないと、複雑な金融商品は購入できません。最悪の場合は金融商品の悪意のある売り手に騙されてしまいます。日本の金融業界を監督している金融庁は、十分な金融リテラシーがない家計が株式投資によって思わぬ損失を被るような不幸な状況が生じることを気にかけており、金融庁は投資信託の初心者を助けようとしています。最近では、新しい種類のニーサ(Nippon Individual Savings Account, NISA)が2018年1月から利用可能になると金融庁は公表しました。新しいニーサは、積み立てニーサという愛称がついており、個人が年間最大40万円を最長20年間にわたり、金融庁が選んだ100程度の投資信託に非課税で投資できます。金融庁は販売手数料や信託報酬が安価で、比較的簡明な商品を、若年層の初心者でも、月1万円程度の少額から投資をできるように選んでいます。それでも、それらの金融庁が選んだ商品の中からどれに投資するかを決めるのはお勤めの方ご本人ですから、そうした投資のために十分な金融リテラシーをお持ちになるべきです。
それでは、お勤めの方が十分な金融リテラシーをお持ちかどうか、どうやってわかるのでしょうか。経済学者は金融リテラシーの基礎として、貯蓄と投資についての情報を理解した意思決定をするための3つの鍵となる概念を発見しています。第一に、複利計算のような金利を計算する能力、第二に、インフレーションへの理解、第三に、危険の分散への理解です。より正確には、経済学者はある個人が持つ金融リテラシーを計測するために、上記3つの鍵となる概念に対応する質問を日本を含む多くの国で行っています(詳細はLusardi and Mitchell (2014)参照)。
(1)100ドルの定期預金を持っていたとします。金利は年率2%です。5年後までお金をその口座においておいたら、あなたの預金口座にお金はいくらになっていますか;選択肢[102ドルより多い、102ドルちょうど、102ドルより少ない、わからない、答えない]
(2)定期預金の金利が年率1%で、インフレ率は年率2%だとします。1年後に、あなたはどれだけの量の買い物ができますか;選択肢[この定期預金に今ある金額より多い、この定期預金にある今ある金額と同じ、この定期預金に今ある金額より少ない、わからない、答えない]
(3)次の文章は正しいでしょうか、間違いでしょうか。「ある一つの会社の株式を買うと、通常は株式投資信託を買うよりも安全な収益が得られる」;選択肢[正しい、間違い、わからない、答えない]
最初の質問は、複利計算による金融資産増加率を理解しているかを調べるものです。二番目の質問は、インフレーションが起こっているときの貨幣の購買力を理解しているか調べるものです。三番目の質問は、株式、株式投資信託と危険分散について理解しているか調べるものです。この質問に正しく答えるには、株式投資信託が多くの株式で構成されていることを知っている必要があるからです。もし読者が3問全部正解されたら、金融リテラシーが高いと判定されます。
多くの国で同じ質問を繰り返すことによって、経済学者は金融リテラシーの程度と回答者の属性に以下のような相関関係があることを発見しました。第一に、金融リテラシーの水準は、若年層と高齢層で低い傾向があります。第二に、女性のほうが男性よりも正解率が低く、女性のほうが「わからない」と答えがちです。第三に、金融リテラシーは所得や職業により異なります。低賃金の雇用者の正解率は低く、被雇用者と自営業者のほうが失業者よりも正解率が高いです。
上記のような結果をお知りになられても、どのくらい金融リテラシーが退職後の貯蓄に影響するか不審に思われる方もおられるでしょう。最近の米国の研究では、退職後の貯蓄の格差のうち30-40%が金融知識の違いだけで説明できるとされています(詳細はLusardi, Michaud, Mitchel (2017))。この結果は米国データに限ったものですが、金融リテラシーから得られるものは日本でも大きいことが、とりわけ多くの米国人が行っているように株式投資信託を買うことを計画されている場合には、示唆されます。退職後の貯蓄を取り巻く環境が変貌するなかで、伝統的な銀行預金や個人年金だけではなく、株式投資信託も退職後の貯蓄手段として検討すべきであるように思われます。もし日本のお勤めの方が株式投資信託を始められるのであれば、最初にご自身に株式投資信託が可能な金融リテラシーがあるかどうか確認されたいでしょう。その場合は、金融庁のホームページや、金融広報中央委員など、多くの公的なリソースでご自分の金融リテラシーを確認し、向上させることができます。
(金融庁:http://www.fsa.go.jp/teach/kyouiku.html,
金融広報委員会:https://www.shiruporuto.jp/public/data/survey/literacy_chosa/)。
日本でお勤めの方は、大変裕福な方でない限り、退職後の貯蓄に備えるために金融を勉強されるべきだ、とご納得いただけましたか。低成長、急激な人口高齢化、低金利の下で退職後の貯蓄を取り巻く環境が変貌するなかで、より多くの日本のお勤めの方が、どれだけを貯蓄し、株式投資信託のような複雑な金融商品にどれだけを投資するかをご自分で決めなければならなくなっています。そうした複雑な金融商品に適切な投資をするためには、それに相応しい水準の金融リテラシーを身につけるために、金融を勉強する必要があります。
金融を勉強するのは、退職後の貯蓄に備えるためです。金融の勉強は、何歳からでも遅くありません。金融を勉強するのは、お金持ちになるためというよりも、退職後の生活を楽しいものにするために相応しい収益をご自身の投資によって稼ぐためです。最低限、金融を学んだ後は、期待していたほどの結果が得られなくても、ご自分の投資に関する意思決定の結果を、怒ったり当惑したりするのではなく、受け入れることがおできになるでしょう。
東京都出身。1964年生まれ。1987年東京大学経済学部卒業。
1993年シカゴ大学経済学Ph.D.
京都大学経済研究所助教授、日本銀行企画局政策調査課長、日本銀行金融研究所参事役を経て2014年より現職、
現在の研究課題は、家計の金融資産選択、決済制度、金融政策などである。
また、主要著書に、『入門テキスト 金融の基礎』(<東洋経済新報社>、2016年)『金融市場と中央銀行』(<東洋経済新報社>、1998年)などがある。
2019年冬号
学生記者が、中央大学を学生の切り口で紹介します。
外務省主催「国際問題プレゼンテーション・コンテスト」最優秀の外務大臣賞に 及川奏さん(法学部2年)/赤羽健さん(法学部1年)
Chuo-DNA
本学の歴史・建学の精神が卒業生や学生に受け継がれ、未来の中央大学になる様を映像化
Core Energy
世界に羽ばたく中央大学の「行動する知性」を大宙に散る無数の星の輝きの如く表現
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