藤原 浩史【略歴】
藤原 浩史/中央大学文学部教授
専門分野 国語学、平安時代語研究
文学作品を読む場合、ことばの連なりから、われわれは想像力を働かせ、イメージをふくらませる。物語をどのように読もうが、どのように想像しようが、それは読者の自由であるし、文学の楽しみでもある。
ところが、そのように随筆(?)である『枕草子』を読むと、ほとんど意味をなさない。たとえば、「春はあけぼの」は古文の教科書に必ず載っているが、季節の風物の断片がちりばめられているだけで、いかに想像力を働かせても話の筋は見えない。それゆえ、「鋭い感性を味わう」といった解釈の放棄や、「『をかし』の省略」といった文章の不完全性の想定が生ずる。そんな風に習ったのではなかったか?
それは、このテキストが、イメージを拡散しようとする読み方では対処できないことを意味する。逆に、イメージを収斂するように読むと、起承転結をもつ論理的な文章となる(注)。具体的なことばから概念が形成され、その組み合わせが命題となり、その連鎖が論理となる。はたして、これは「文学作品」なのだろうか?
『枕草子』の文章は、単語を見ると、きわめて平易である。たとえば、『枕草子』75段「あぢきなきもの」は次のような文章構成である。章段主題の「あぢきなし」とは、「イメージしている基準に、事態が合致しない不愉快さ」を形容することばである。何も説明が与えられなければ、この章段は「人が不本意を感じる事例の一覧」である。
言葉は古語辞典を確認する程度でわかる。言葉を補って口語訳すると次のようになる。
この三つの事例は、確かに「不本意」の典型ではある。女性貴族を当事者としており、著者・清少納言の属する社会のできごとであり、『枕草子』を読むであろう人びともまた、そこに属する。しかし、そうであれば、清少納言に教えられなければ「あぢきなし(不本意)」とはどんなことか、知らないわけではない。そして、こんな気の毒な事例があることを知らないわけでもない。「就職したけどイヤになった」とか「こんなはずではなかった」などということは今も昔もよくある。自らも宮仕えをしたり、婿取りして家を継ぐ女性貴族にとっては、当たり前すぎることである。「そうですね」と同意はするが、この事例の当事者には同情も共感もしないであろうし、むしろ、その当事者の自己責任を問うのではないか。読者は著者の提示する事例に納得しつつも、疑問をもつことになる。
疑問をもつと、ひとは考えるはずである。この三例を見てみよう。宮仕えの現実、養女の実物、婿の態度、それは当事者にとっては「自分のイメージした基準に合致しない不本意なもの」であるけれども、第三者の立場から見ると、「本人のイメージが間違っていたのではないか?」と気づくことは容易である。宮仕えをしていない人が宮廷生活にもつイメージや、生活をともにしていない他所の子にもつイメージ、それらは明らかに当事者の思い込みである。ましてや、相手が結婚を嫌がっているのに、それを無視して自分のイメージで事を進めるならば、破局は目に見えているだろう。
かような社会的な不満の原因は、相手(宮仕え、とり子、婿)のせいだと当事者は思っているけれども、第三者から見ると当事者自身に問題があることが明かである。すなわち、社会的な「不本意」が生ずる理由は、誤った「本意」に由来する。換言すると、「評価の結果は、その基準による」という命題に帰結する。具体的事例を分析して一つの概念に集約するように読むと、『枕草子』はきわめて明快である。
「あぢきなきもの」という章段主題は事例のラベルであって、テーマではない。具体的事例は読者が考えるための「例題」であって、事実かどうかは問題ではない。「以下の事例を検討し、公式化せよ」と要求するものである。それに応ずると、一つの「解」が得られるわけである。著者が学び考えるように、読者も学び考えているならば、読者の中にも同じ思想が形成される。
『枕草子』は、読者の知識と知力を信頼してつくられた文章である。そのような文章とした結果、わかる人にはわかり、わからない人にはわからない、という現象が生ずる。『紫式部日記』に式部が清少納言を評した一節がある。
この文章は、清少納言の人格と学力を批判した文章として理解されている。しかし、上記の『枕草子』の文章スタイルを前提として解釈すると、「物事の本質を見抜いたような態度である」、「断片的で散漫な叙述である」、「不十分な記述が多い」と、その文章について適確に批評していることがわかる。そして、その「異端のスタイル」は、無理解と将来の誤読を招くことになる、と予言する。歴史的に見て、みごとに的中している。しかし、そのように正確に批評できたのは、紫式部には清少納言の執筆意図が理解できたからでもある。
一方の清少納言は次のように宣言している。
「他人が違和感をもつことも、不快に思うことも、自分が考えたことを書こうと思ったのである」、この言葉は、読者の無理解と誤読はやむをえない、しかし、わかる人にはわかるはずという自己評価である。その点、両者の評価は一致する。その事態を楽観するか、悲観するかの差違である。
紫式部は、読者がわからなければしょうがないと考えるだろう。しかし、清少納言は予め、読者がわからないのはしょうがない、と考える。かくして、精緻に書き込まれた『源氏物語』と、文脈を追うことすらむずかしい『枕草子』の対比が生ずる。様々なイメージを生成する『源氏物語』と、一つの概念に収斂する『枕草子』は、文章構造的に対極にある。
『枕草子』は読解に、思索を要求し、分析と総合の手続きを要する。そして、著者の思想の再構築を目的とする。このテキストは、今日的に見ると、ジャンルとしては、文学ではなく哲学あるいは科学に属するものである。和歌や漢詩の表現技法をとるので、文学的に見えるのだが、人間と社会に対する思索を伝えることを目的とするテキストなのである。
(注)^「『枕草子』の潜在的論理」