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藤原 浩史

藤原 浩史 【略歴

教養講座

『枕草子』の潜在的論理

藤原 浩史/中央大学文学部教授
専門分野 国語学(意味論、平安時代語)

春はあけぼの?

 中学・高校で習う『枕草子』の第一段「春はあけぼの」…「春はあけぼのが趣深い。だんだん白くなって行く山際の空が少し明るくなって、紫がかった雲が細くたなびいているのが趣深い」…春の美は夜明け時にある、と言われるが、そうだろうか? 春の美は、ふつう花であり、光であり、あたたかさである。夜明け時にはそれが全くない。このように言われて読者は共感できるだろうか? 『枕草子』は「をかし」の文学であり、ここでは省略されている、と言われるが、そうだろうか? そもそも、冒頭の一文からそのキー・ワードを省略するとは尋常ではない。ふつう「省略」というのは常識だったり、前に書いてあったりして、読者がすでに知っているから省くことができる。それが省略の原則である。後まで読まないと冒頭がわからないのはヘンだ…これが「春はあけぼの」を習った生徒の自然な疑問だろう。疑問が解けぬまま「夏は夜」に入ると、月がいい、蛍がいい、雨でもいい、散漫な言葉の羅列につっこんでゆくことになる。

 ところが、単純に言語学的な技術を用いて、これを解読してみると、意外な文意が浮かび上がってくる。

「春はあけぼの」の構文

 「春はあけぼの」という文は、かつては述語「をかし」の省略と教えられてきた。今はそのようには教えない。これだけで「春は」を主語、「あけぼの」を述語とする完全な文だからである。現代語でも「ボクはウナギ(だ)」と同じ構造の文がある。ただし、このウナギ文は、自分のことをウナギであると自己紹介しているものではない(そうであってもよい)。ふつうは、食堂で複数のお客さんの中から「ボク」を取り立て、複数の品物の中から「ウナギ」を取り立てて店員さんに伝えるものである。客と店員が文脈を共有して、はじめて意味が決まるのである。

 その意味で「あけぼのが趣深い」と理解するのは、あらかじめ、作者と読者の間に共有される季節の趣という文脈を用意しているのである。たしかに清少納言とわれわれは四季の移り変わりを共有しているだろう。ただし『枕草子』は教養ある平安貴族が読むと想定されており、四季についての文脈が現代人と同じとは限らない。そもそも、清少納言は歌人として有名である。『古今和歌集』のような歌集を見るならば「春歌、夏歌、秋歌、冬歌」と、部立てがしてある。平安貴族は、和歌によって美意識と技巧を競っていたが、その意味での「春」ではないだろうか? 

 試みに春の歌を調べてみると、「あけぼの」を詠んだ歌は皆無である。花や光を詠むのが普通で、「春はあけぼの」と切り出すのは、文化人だけでなく、一般常識の枠を超えるはずである。夜明けには、光も色も暖かさも乏しい。

 「●●は○○だ」という構文は、読者の想定通りの場合にも、想定外の場合もある。通説ではこの章段は常識であり、共感すればよいとされている。しかし、それは、清少納言があえて常識を破り、独自の論を主張する可能性を否定して確定したものではない。

「やうやう白くなりゆく」の構文

 冒頭文の趣旨が読者の共感を獲得するものであるならば、以下の文は既知情報の確認である。しかし、共感を獲得できないものであるならば、以下の文は説得のための説明である。冒頭文につづく「やうやう白くなりゆく」は「やっとのことで(空が)白くなってゆく(とき)」と理解できるが、この句は、主語なのか述語なのか? 「主語だ」とするのが、述語「をかし」の省略という通説である。しかしながら、これは前述の省略の原則に違反する。一方、この句が述語だとすると、省略されている主語は前文でしかありえない。そうすると、この句は主題「あけぼの」について説明する述語である。清少納言は、ただでさえ暗い夜明け時の、しかもその黎明の一瞬を指定し、「山際少し明かりて(山際の空が少し明るくなって)」と、その情景も指定する。これによって、おそらく、読者にはますます謎が深まることだろうが、つづく「紫だちたる雲の細くたなびきたる」によって、その疑念を払う情報が提示されているはずである。

「紫だちたる雲の細くたなびきたる」の指示するもの

 「紫だちたる雲の細くたなびきたる」という準体言は、この「黎明の一瞬の光景」を主題として、それを説明する述語に相当する。かなり具体的な情景が指示されているので、どのような情景なのか読者は追うことができる。それをイメージすることで、少納言は自分の主張が読者の理解を得られると意図したはずである。

 細くたなびく雲としいうのは、高空に薄く膜状に出る「巻雲(絹雲)」である。地平線あたりを望むと、この膜を横から見るため線状となって「たなびきたる」わけである。この雲は高空にあるから、夜明けに際して、他よりもいち早く曙光をうけるから「紫だつ」。この光景は邸宅の中からは、画像のように見えるだろう。

 雲と言っても、巻雲は雨を降らすような雲ではない。むしろ高気圧のときに出現する。一日のはじまりにこの空が観察されることは、春のおだやかな日が到来することを意味する。すなわち、後に来る光に満ちた美しい風景が期待されるわけである。まさに春の美が保証されたのであるが、この光景自体にはそれはない。しかし、読者にも、そこに見えていない春の美が感じられるならば、その美はどこにあるか、それを問いかけることになる。

 その問いは「花はそれ自体が美しいのか? それとも、美しいと思うから美しいのか?」これと等質の問いかけである。見えざる美を美とする以上、美は人の心の中にあることを少納言は指摘する。このように見ると、この章段は「季節の趣を味わうこと」を目的とした随想ではない。「美のありか」を考究する論説である。

「春はあけぼの」章段の起承転結

 文学作品というのは読者による自由な解釈を容認するものであるが、論説は筆者の論理を受容する以外の読み方を許容しない。それ以外の読み方をすると、文脈が整合しなくなる。実際、通説の解釈では文脈が整合しないので、この章段はまるで散文詩のようなものだと思われている。しかし、解読を進めると、論理が完全に整合するように著述されていることがわかる。

 第二連は、「夏は夜」とはじまるが、これは暑い京都の夏で涼感が得られるからである。青白い月の光、蛍の光、涼感をもたらす美しい風物を例示することによって、人の感覚に美が由来することを証明する。「雨など降るもをかし」光がなくても気温が下がり雨音がする、それだって自分には素敵であると言うことによって、「春はあけぼの」で暗示した主張を証明するのである。

 しかし、「秋は夕暮れ」となれば、どのようにしても美しいことを認めざるをえない。カラスでさえ風情がある。夕日が見えなくなっても、風の音、虫の声は美である。つまり、自然そのものが美しいのである。すなわち、美は自然そのものにある。ただし、それによって、「自然そのものが美しい」と「美しいと思うから美しい」という背反する命題が両立してしまう。ところが、「冬はつとめて」と進めると、自然(寒気)と人間(緊張感)が調和することによって美が存在することを提示し、その対立を止揚してしまう。しかも、「昼になりてぬるくゆるびもてゆけば」寒気がなくなり、「火桶の火も灰がちになりて」人間が弛緩すると、「わろし」つまり美しさは消えると指摘し、この説の正当性を背理法的に証明する。

平安の天才と日本語

 「春はあけぼの」章段は、見事な起承転結の構造をとる。具体的な事物を操作しながら、「美」という抽象概念を論ずるのである。平安時代の日本語にはそれを直接的に表現する言葉がなかった(「美」「季節」「自然」…これらはすべて新しい漢語である)のであるが、ある象徴的な言葉をもちいることによって、その背後に文脈を構築するのである。この方法は和歌においてしばしば用いられる技法であり、それを発展途上の日本語散文に導入したものである。明晰な論理が仕組んである、計算された文章なのであった。個々の言語表現の精密な理解によって、一つの論理が完結するよう意図されているので、読者による解釈の自由は許されない。『枕草子』は、そういうタイプのテキストである。

 「読む」という行為は文字から言語を理解し、言語から情報を再構築する作業である。著者がよってたつ文化が、読者側に共有されていなければ、うまく情報が形成されない。千年前の宮廷女房がかように哲学しているとは思ってもみないならば、文意がまとまるわけがないのであった。

 「うつくしきもの」「かたはらいたきもの」と清少納言は、われわれの術語でいう「評価の形容詞」を分析してゆくのであるが、それはすなわち、人間の心の動くしくみの観察であり、認識と反応の科学的研究である。人間科学は近代の学問であるが、千年前にその手法で思考し、論理的に表現できた人がいるのであった。しかし、それを理解する素地がその後の日本にはなく、千年もの間、無理解と誤読を受けていたと思しい。もっとも、この『枕草子』の文章は、その意図がわれわれには見えにくいのは事実である。古い名画のごとき存在なので、修復する絵筆のかわりに、単語の意味分析、文の文法的分析といった国語学的技術を用いて、黙々と情報の復元作業を行なうしかない。うまく行けば、平安の天才の思考が今に甦るかもしれない。

藤原 浩史(ふじわら・ひろふみ)/中央大学文学部教授
専門分野 国語学(意味論、平安時代語)
1962年生まれ。兵庫県出身。1985年、東北大学文学部卒業。1989年、東北大学大学院中退。
1989年、国立国語研究所研究員。1995年、日本女子大学専任講師。1998年、同助教授。
2006年より現職。
単語の意味分析の手法をもちいて文法論、文章論、配慮表現を研究する。現在、『枕草子』の国語学的解読が主たる研究テーマ。
主要著書:『国定読本用語総覧』⑤~⑨、⑫、CDROM(三省堂、1991年~1995年、1997年、1997年、国立国語研究所編(共編))など。