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宇佐美 毅

宇佐美 毅【略歴

池井戸潤ドラマはなぜヒットする?

宇佐美 毅/中央大学文学部教授
専門分野 日本近現代文学

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「池井戸潤ドラマはなぜヒットする?」。このタイトルは本来の問いを少し短縮しているので、より正確に言い直すなら、「池井戸潤小説のテレビドラマ化作品はなぜヒットすることが多いのか?」となる。この問いを、これまでのテレビドラマ史に照らして考えてみよう。

1.近年テレビドラマ化された池井戸潤小説

 近年のテレビドラマにはテレビのオリジナル作品が減り、小説やマンガを原作とするテレビドラマが増えている。これをもってテレビドラマの想像力の衰退などと見る声もあるが、原作をどのように映像化し、いかにテレビドラマとして視聴者を楽しませることができるかが重要である。オリジナルだから、原作があるからといって、それ自体に良し悪しがあるわけではない。

 どのような小説やマンガがテレビドラマ化されるか。これにはその時期による流行がある。一時は東野圭吾小説のテレビドラマ化作品が多かったが、現在は池井戸潤小説を原作とするテレビドラマが実に多い。近年放送された池井戸潤原作の地上波テレビドラマには、『鉄の骨』(2010)、『半沢直樹』(2013)、『七つの会議』(2013)、『花咲舞が黙ってない』(2014、2015)、『ルーズヴェルト・ゲーム』(2014)、『ようこそ、わが家へ』(2015)、『民王』(2015)、『下町ロケット』(2015)などがある。すべての作品がヒットしているとは限らないが、『半沢直樹』を筆頭に高視聴率作品も数多い。(『半沢直樹』の平均視聴率は28.7%、最終回視聴率は45.5%。この数字は今世紀のテレビドラマで最高である。数字は関東地区、ビデオリサーチ社調べ。)現在放送中の『下町ロケット』もかなりの高視聴率を記録している。

2.ヒットした池井戸潤原作ドラマの特徴

 池井戸潤小説と一口に言っても、その内容は多彩である。池井戸潤の元銀行員という経歴を活かした銀行もの、企業ものは池井戸潤得意の小説ジャンルだが、池井戸潤小説はそれだけではなく、ミステリーやコメディとも言えるようなさまざまなジャンルの作品がある。当然、テレビドラマ化された作品の内容も多彩である。その中で、高視聴率をあげた『半沢直樹』(原作小説は『俺たちバブル入行組』『俺たち花のバブル組』など)、『ルーズヴェルト・ゲーム』、『下町ロケット』などの作品を見るならば、そこには「信念と努力によって困難な状況を克服する」という共通の構図が見えてくる。女性を主人公とし、コメディ色もある『花咲舞が黙ってない』(原作小説は『不祥事』『銀行総務特命』など)の場合も、銀行内の不正や理不尽さに泣かされている主に女性行員たちの無念さを、主人公の花咲舞がはらしていくという意味で、「信念と努力によって困難な状況を克服する」構図の一つのヴァリエーションと考えて差し支えない。

 こうした構図は、視聴者の二つの感情を同時に吸収している。それは「共感」と「憧れ」という異なる二つの感情である。

 女性の社会進出が進み、現在では「働くこと」は誰にも身近なものになっている。それだけに、働くことにともなう苦労や困難さは、多くの人に共有される感情である。『半沢直樹』の主人公が体験するような、上司の犯罪的な悪行の責任を押しつけられる、という状況まではよくあることとは言えない。しかし、上司のやり方に不満を持ったり、自分のためではない失敗の共同責任を負わされたりすることは、多くの働く人びとにはある得ることだろう。また、『花咲舞が黙ってない』のような、組織内のよくない慣習や上司の横暴に苦労した経験も多くの人びとにはあるだろう。そのように考えてみれば、池井戸潤小説の主人公たちが体験している困難な状況は、視聴者の誰にとってもけっして他人事ではない。主人公たちの困難さは、視聴者の「共感」を得る大きな要因となっている。

 その一方で、そのような困難な状況に陥ったとき、誰もが半沢直樹や花咲舞のように、よくない慣習や上司の横暴に対して敢然と立ち向かえるわけではない。ましてや、上司の不正を暴いたり、組織の慣習を急に改めたりできるはずがない。視聴者のできないことを痛快にやってくれる池井戸潤小説の主人公たちは、単に視聴者の「共感」を集めるだけではなく、視聴者の強い「憧れ」を集める存在にもなっている。

3.テレビドラマ史からの考察

 ただし、こうした「共感」と「憧れ」の要素を持つドラマならば必ずヒットするというほど、テレビドラマの世界は単純なものではない。私は中央大学の講義科目で「日本のテレビドラマ史」を扱っている。そこでは、「テレビドラマを通して日本の戦後史を考える」ことをおこなっている。その立場から言えば、「よいドラマはいつ放送しても視聴者に支持される」とは必ずしも言えない。むしろ、テレビドラマが視聴者に支持されるかどうかは、その作品が放送される時代背景と強い関連を持っていると考えられる。

 たとえば、今の大学生たちに1960~70年代の「スポ根」(スポーツ根性)ドラマを見せると、「なんでこんな暗いドラマを見てたの?」「これって暴力?虐待じゃない?」という反応が聞こえてくるし、1980年代後半のトレンディドラマを見せれば「なんでみんな、こんなに恋愛にガツガツ行けるんですか?」という疑問が出てくる。ある時代に喜ばれたドラマが後の時代にまったく支持されなくなることがあるのは、ドラマが時代背景と強く結びついているからである。

 先に書いた、池井戸潤ドラマが支持される「共感」と「憧れ」という要因も、テレビドラマ史を見ればいつの時代にも共通する概念というわけではない。初期テレビドラマにおける主人公たちは、刑事であれ学校の先生であれ、突出したキャラクターを持つ「特別な人」であることが求められた。しかし、1983年放送の『ふぞろいの林檎たち』や『金曜日の妻たちへ』あたりからは、テレビドラマの主要な登場人物が複数になり、突出したキャラクターではなく平凡な人物が主人公になれるようになった。その意味で言えば、現在は、テレビドラマの主人公に平凡さと特別さの両方を兼ね備えることが求められている時代と考えられる。

4.社会背景と景気動向からの考察

 このように、主人公や主要な作中人物に求めるものにも時代による変化があるが、それ以上に大きな変化をもたらすのが、景気動向や社会の雰囲気とテレビドラマとの関係である。先に書いたように、今の大学生たちは、スポ根ドラマにもトレンディドラマにも違和感を持つ。もちろん大学生だけではなく、それは現在の多くの視聴者の共通の気持ちと言えるだろう。それなら、現在の視聴者はどんなテレビドラマを見たいのだろうか。

 たとえば、1980年代後半のバブル期のような景気の絶頂期には、トレンディドラマのような華やかなテレビドラマが好まれた。その一方で、バブル崩壊期には、「同情するなら金をくれ」のフレーズで有名な『家なき子』(1994年)のような、暗くてシビアなテレビドラマがヒットした。もちろん、どんな時代にも明るい作品もあれば暗い作品もあるのだが、強く好まれるその時代特有の作品があることははっきりしている。だとすれば、「信念と努力によって困難な状況を克服する」という池井戸潤小説のテレビドラマ化作品が好まれるのは、現在の時代状況と強い関係を持つはずである。

 過去のテレビドラマ史を見てわかることは、こうした作品が好まれるのは景気の回復期、あるいは停滞からの回復を願う時期だということである。「信念と努力によって困難な状況を克服する」という構図は、力強いが、いささか単純すぎるメッセージでもある。それが力を発揮するのは、そういった単純でも力強いメッセージに希望を託してみたいという社会全体の雰囲気があることが前提になる。

 現在はリーマンショックから7年、東日本大震災から4年経ち、もうこれからは明るい時代が来る、あるいはもうそろそろ明るい時代が来てほしいという気持ちが、現在の社会にはあふれているように見える。だからこそ、池井戸潤小説のような構図が好まれることになる。

 仮定してみよう。『半沢直樹』や『下町ロケット』がバブル景気の絶頂期に放送されていたとしたら? もちろん、ある程度支持されていたとは思われるが、「信念と努力」をテーマにしたこれらの作品はその時代には少し野暮ったく、華やかさが足りないと見えたかもしれない。では、東日本大震災の年にこれらの作品が放送されていたとしたら? そのときは、「信念と努力」で困難な状況がすべて克服されてしまうというこれらの作品の構図が、何事も都合よく進み過ぎて、いささか軽薄に見えてしまったかもしれない(注)。現在は、人によっては景気の回復を実感できているようだが、一方で、長く停滞した時期が続いていると感じている人も多い。そろそろ明るい時代へ世の中が変わっている、あるいは変わってほしいという多くの人びとの気持ちがあるからこそ、「信念と努力によって困難な状況を克服する」という、単純だが力強いメッセージに希望を託してみたいという多くの人びとの気持ちをひきつけていると考えるべきであろう。

5.テレビドラマは時代を映す

 私が近年テレビドラマ研究に力を入れているのは、文学・演劇・映画・漫画など以上に、今を生きている多くの人びとに受容されているメディアだからである。多くの人が気軽に見ているので、テレビドラマは「通俗・娯楽」に過ぎないものとして、学問的な研究対象とはなりにくかった。しかし、多くの人の目に触れているメディアだからこそ、現代の文化や社会のあり方を考えるのに欠かせない研究対象なのである。

「テレビドラマは時代を映す」。すなわち、テレビドラマという「通俗・娯楽」に過ぎないと思われるものをとらえ直すことによって、はじめて「今という時代」を考えることができるのではないだろうか。

宇佐美 毅(うさみ・たけし)/中央大学文学部教授
専門分野 日本近現代文学

テレビドラマを学問する

1958年東京生まれ。1980年東京学芸大学教育学部卒業。1990年東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。博士(文学、中央大学)。中央大学文学部専任講師・助教授を経て1998年より現職。
村上春樹をはじめとする現代文学を歴史的観点から考察し、明治期以降の日本の小説史に位置づける研究をしてきた。加えて、近年は文学に映画・演劇・テレビドラマ等を加えた総合的なフィクション研究を提唱しており、特にテレビドラマ研究を重視している。 主要著書に『小説表現としての近代』(おうふう)、『村上春樹と一九八〇年代』『村上春樹と一九九〇年代』(共編著、おうふう)、『テレビドラマを学問する』(中央大学出版部)などがある。
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