Chuo Online

  • トップ
  • オピニオン
  • 研究
  • 教育
  • 人‐かお
  • RSS
  • ENGLISH

トップ>オピニオン>『ノルウェイの森』と『家政婦のミタ』の共通点

オピニオン一覧

宇佐美 毅

宇佐美 毅 【略歴

『ノルウェイの森』と『家政婦のミタ』の共通点

宇佐美 毅/中央大学文学部教授
専門分野 日本近現代文学

本ページの英語版はこちら

テレビドラマ研究の意義

 私は、村上春樹をはじめとする現代文学を日本の小説史に位置付ける研究をしてきた。近年は村上春樹がノーベル文学賞を受賞するのではないかという期待が高まっており、村上春樹を含めた現代文学研究の重要性はますます高まっている。

 その一方で、私は現在「テレビドラマ研究」にも力を注いでおり、今年『テレビドラマを学問する』(中央大学出版部刊)という著書を刊行した。テレビドラマは、文学作品や映画作品などに比べて、これまで研究の対象とされることが少なかった。そこには、テレビドラマが文学作品や映画作品に比べて、「通俗」「娯楽」として低く見られてきたという理由があった。

 もちろん、文学作品や映画作品よりも多くの視聴者を想定しているテレビドラマは、わかりやすい定型的な表現をとることが多くなる。しかし、それだけをとらえて「通俗」「娯楽」と決めつけることはできない。テレビドラマは多くの人に見られるからこそ、その多くの人にかかわる重要な課題が扱われていることが多い。

『ノルウェイの森』と『家政婦のミタ』の共通点

 村上春樹の最大のヒット作品『ノルウェイの森』が2010年に映画化された。また、2011年にテレビドラマ『家政婦のミタ』の最終回が40%という驚異的な視聴率をあげた。この二つの作品にはなんの関係もないように見えるが、実はそこには大きな共通点がある。

 この2作品に共通するのは、「サバイバーズ・ギルト」という問題である。「サバイバーズ・ギルト」とは、死者を出すような大きな事故や事件の後に、生き残った者たちが感じてしまう罪障感のことである。

 村上春樹作品では多くの作中人物が自殺するが、『ノルウェイの森』では特にそれが多い。主人公ワタナベの親友・キズキ、直子の姉、永沢の恋人・ハツミらが自殺して亡くなる。さらにワタナベは恋人の直子も自殺で失う。そうした身近な人の死をどのように乗り越えて生きていくのか。それがこの作品の重要な課題となっている。

 また、『家政婦のミタ』は、阿須田家へやってくる家政婦の話であり、その家政婦・三田灯は、夫と子どもを事故で亡くした女性である。しかも、夫と息子を死なせてしまったのは自分の責任だという、まさにこの「罪障感」に三田は苦しみ続けている。そして、三田が家政婦として勤める阿須田家もまた、母親を自殺によって失った家族であり、その夫と子どもたちは、妻・母親を自殺で失ったことの傷によって崩壊寸前になっている。

  しかし、その家族に三田があらわれることによって、大切な家族を失った者同士が共鳴しあって心の傷から立ち直っていく。その際に「罪障感」を持った者同士だからこそ、互いを助け合うことができるという構造になっている。

現代人にとっての「サバイバーズ・ギルト」

 それでは、なぜこの「サバイバーズ・ギルト」が現代人にとって深刻な問題なのだろうか。

 その大きな理由の第一は、毎年自殺者が3万人を超えるという日本のたいへんな自殺者数である。身近な人を自殺で失った場合、病気や事故による死に比べてより罪障感を持つことが多い。つまり、「自分が何かしてあげられなかったか」「自分が手助けすれば死ななくて済んだのではないか」という自責の念から逃れにくいのである。さらには、阪神淡路大震災や東日本大震災といった大災害の体験も、「生き残ってしまって申し訳ない」という感情を持つ要因になっている。

 ただし、これらの作品の問いかけは、身近な人を実際に失った人にだけ機能するのではない。たとえそういう体験がなかったとしても、現代社会においては多くの人がなんらかの心の傷を抱えており、心の病と常に隣り合わせに生きている。そういう人々にとって、『ノルウェイの森』や『家政婦のミタ』で描かれている世界は、自らの心の傷と重ね合わされ、作品中の人物たちと一緒にその心の傷を乗り越えていくように感じられるのである。

 『ノルウェイの森』や『家政婦のミタ』を見た人たちがみなそんなことを考えていたわけではないが、これらの作品の背後には、こうした現代社会の病、現代人の苦悩がある。そのような現代社会の課題をとらえたからこそ、これらの作品の問いかけには重みがある。そうした課題を明らかにすることも、テレビドラマ研究・フィクション研究が果たすべき重要な役割なのである。

テレビドラマはつまらなくなったのか

 このようにテレビドラマの内容は、文学や映画などとともに、現代人の抱えている課題と密接にかかわっている。

 現在のテレビドラマは、かつてのような高視聴率がとれなくなってきており、テレビドラマ自体がつまらなくなってきたと言われることもある。しかし、視聴率とは、その時間にリアルタイムで視聴している世帯数しか反映しない。これほど録画機器が普及した現代において、リアルタイムの視聴だけで人気を計るのは十分な尺度とは言えない。しかも、コンピュータやインターネットなど他のメディアがこれほど普及している現在において、それでも全世帯の10~15%もの世帯がリアルタイムでそのテレビドラマを見ているという事実はけっして無視できない。多くの人々にとって、テレビドラマは今なお大きな存在であり、その研究は今後の重要な課題である。

宇佐美 毅(うさみ・たけし)/中央大学文学部教授
専門分野 日本近現代文学

テレビドラマを学問する

1958年東京生まれ。1980年東京学芸大学教育学部卒業。1990年東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。博士(文学、中央大学)。中央大学文学部専任講師・助教授を経て1998年より現職。
村上春樹をはじめとする現代文学を歴史的観点から考察し、明治期以降の日本の小説史に位置づける研究をしてきた。加えて、近年は文学に映画・演劇・テレビドラマ等を加えた総合的なフィクション研究を提唱しており、特にテレビドラマ研究を重視している。 主要著書に『小説表現としての近代』(おうふう)、『村上春樹と一九八〇年代』『村上春樹と一九九〇年代』(共編著、おうふう)、『テレビドラマを学問する』(中央大学出版部)などがある。
ホームページ「中央大学宇佐美毅研究室新規ウインドウ