偉大な哲学者が遺したもの──その生き方と研究姿勢
木田元先生 追悼座談会
膨大な読書量から生まれた美しい翻訳
木田元教授 最終講義
- 中村
- 私にとって先生が特別な存在なのは、一つには文学のセンスがとてつもなく良かったからです。よく「中期の太宰治が良いぞ」などと仰っていましたが、『人間失格』や『晩年』ではなく、いきなり中期なんです。これは太宰作品はもちろんほかの文学作品もたくさん読んでいるから言えることですね。また、そのエッセンスを私たちに惜しげもなく話してくれるんです。本当に勉強になりました。
- 村岡
- 本が大好きな方でしたね。奥様から聞いた話で、もう起き上がるのも難しくなっているのに、本の目録を見せるとサーッと目で追って読みたい本を伝えられたそうです。亡くなる2~3週間前のことですよ。
- 須田
- 本に対しては非常な情熱をお持ちでした。哲学以外の本も幅広く読んでいて、とくに文学関係が多かったのではないかな。先生の葬儀に参列したとき、棺の中にご著書の『詩歌遍歴』(平凡社新書)が1冊入っていたんですよ。現象学やハイデガーではなく文学作品に関するご著書を入れるとは。ああ、本当に文学が好きなんだとあらためて感じ入りました。
- 加賀野井
- 文章も上手でしたね。そのままでは常人にはさっぱりわからない文献を、日本語で読めるようにしてくれた功績は大きいと思います。しかも美しく平易な文章で、誰もがスッと読めて理解できる。私も大いに学ぶところがありました。
- 村岡
- そうそう、翻訳家としての木田先生についても語っておかなくては。私が先生の翻訳を初めて読んだのは、『弁証法の冒険』だったと思います。あの難解な本がこんなにきれいな日本語になるのかと感動したものです。当時は「哲学は難しいものだから、わからなくて当たり前」みたいな翻訳書が多かったのに、先生の翻訳はわかりやすくてね。先生のおかげで日本の翻訳のレベルも翻訳にたいする考えかたも大きく変わったと思います。
- 加賀野井
- 翻訳は日本語の能力ですからね。その点、先生は見事な能力をお持ちでした。先生はドイツやフランスの哲学書をたくさん翻訳されていますが、実際のところは何か国語ぐらい操ることができたんですか?
- 中村
- 英語、ドイツ語、フランス語、ギリシャ語、ラテン語だったと思います。あと日本語ですか(笑)。
- 村岡
- でも、先生は会話となるとからっきしだめでした。ドイツ語をあれほど美しい日本語に翻訳されるのだから、さぞや流暢なドイツ語を話されると思うでしょう。こんなことがありました。以前、私と先生と英語圏の学者と3人で会ったときのことです。先生は怒ったように無言で突っ立っておられる。英語で話しかけられたら大変だというわけです。しょうがないから3人で黙ったままじーっとしてましてね(笑)。
- 中村
- 自信のないところには踏み込まない、木田先生らしいですよね。でも確かに、哲学者としてはもちろんですが、翻訳家としてもすばらしい能力をお持ちでした。院生の頃、先生に翻訳を提出すると徹底的に添削されました。あれで自分の日本語能力がどれだけ磨かれたことか。今も深く感謝しています。
- 須田
- 最初ご本人にお会いしたとき、びっくりしましたよ。あれだけすばらしい文章を書くのだから、きっと文学青年のような色白でスラッとした人物だろうと思っていたら、色黒でがっしりしていてね。話し方も決して上手な方ではないですよね。木訥というか。
- 村岡
- 学生の間では「黒い猛獣使い」というあだ名で呼ばれていましたよ。当時、あの有名な哲学者、三島憲一先生が「白い魔法使い」と呼ばれていたので、その逆で(笑)。
多くの人に慕われた、ユーモアあふれる人柄
- 加賀野井
- 皆さんは木田先生のすぐそばで研究を続けてこられて、いわば先生の遺伝子を受け継がれた方々です。研究には苦労も多いと思いますが、こうやって笑い合えているのは先生のお人柄の影響もあるのかなと感じます。
- 須田
- 慎重だけど大胆、繊細なのに豪胆。不思議な人でした。学問には激しく厳しい、でも人には優しい。そして常人では考えられないほどの仕事量、活動量ですから、ずっと一緒にいると大変(笑)。それでも、たくさんの人に慕われていましたね。
- 中村
- そうですね。しかし、一番近くで研究を続けていたのは村岡先生でしょう。傍で見ていて、大変そうだなあと思っていましたよ(笑)。付き合いは40年近くになりますよね。しかも木田先生と干支も誕生日も同じで。
- 村岡
- そうなんです。とにかくストレートなお人柄で、常に生身で接してもらえるのでこちらもそうせざるをえない。建前とか通用しない。それに人物としてとにかく魅力的な方で、ユーモアにあふれ、話がそれはおもしろかった。それと独自の思考回路をお持ちで、こちらの常識の範囲を軽々と超えてくる(笑)。亡くなる1か月前に俺の前に座れと言われたので、これはいよいよ遺言のようなものを聞かされるのかと覚悟していたら、「わあ!お前の前頭部もずいぶん荒涼たるものになっとるなあ」と。これが先生からいただいた最後のことばになってしまいました。あんなにエライ哲学者なのだから、きっと深遠なことばを残されたはずだと皆さん思うにちがいないので、私としてはかなり困っているんです(笑)。
- 中村
- 先生らしい、良い話ですね(笑)。私は亡くなる半年ほど前に自宅に伺いました。もう大分痩せていらっしゃったんですけど、昨日読んだ本のことを詳細に話してくださって、「まだまだ面白い本があるから死ねないよ」と仰って、すごい情熱だなと思いました。
- 加賀野井
- ユーモアをお持ちで、そして人間が好きでしたね。私は故郷の高知で先生をいろいろな観光地へご案内したことがあるのですが、名所旧跡には全く興味を示されなくて、もうずっとうわの空なんですよ。ところが飲み屋さんや街にいる人の佇まいなんかはじっと見ていてね。ああ、この人は人間に対して非常に興味があるんだなと思いました。
- 村岡
- 名所旧跡と言えば、私は一度だけ旅行に誘ってもらったことがあるんです。それがなんと佐野厄除け大師(栃木県の天台宗寺院)。聞くと、電車に駆け込んで足の小指を骨折したから、厄払いに行きたいと。「神頼みなんて、西洋哲学者としては忸怩(じくじ)たるものがある」なんて言いながら、二人でしっかり厄払いしてもらいました。
- 加賀野井
- 先生は面白いエピソードをたくさん遺してくれましたね。そしてもちろん、哲学者としても教師としてもすばらしい遺産を遺してくださいました。私のメルロ=ポンティ研究も、元はと言えば木田先生の翻訳書が始まりです。私たちは皆、先生のおかげで今があると言えるのではないでしょうか。
- 中村
- その通りです。学生時代に木田先生に出会わなかったら、今の私は絶対にありません。研究面でもプライベート面でも親身に相談に乗ってくださって、本当にお世話になりました。
- 村岡
- どんなに偉くなってもいい意味でのアマチュアイズムに徹して、いつでも同じ土俵で自由に議論すること、それまでの哲学界の風潮にとらわれず、自分が正しいと思った解釈を貫くこと──。先生のこうした姿勢からは、非常に多くのことを学びました。
- 須田
- 私は読書会で先生の本の読み方や解釈の仕方を間近で学ぶことができ、本当に幸せでした。哲学を粘り強く、辛抱強く探究し続ける姿勢には感服の一言。今後も、先生のこの姿勢や精神を着実に受け継いでいきたいと思います。
- 須田 朗(すだ・あきら)
- 1947年生まれ。東北大学大学院文学研究科哲学専攻博士課程単位取得退学。東北大学文学部助手、弘前大学教養部助教授などを経て1989年より現職。専門分野は哲学・倫理学。研究テーマはカントおよびハイデガーの哲学。主な著書に『ソフィーの世界』(日本語版監修/NHK出版)など。
- 加賀野井秀一(かがのい・しゅういち)
- 1950年生まれ。中央大学大学院文学研究科仏文学専攻博士後期課程中退。早稲田大学人間科学部兼任講師、中央大学理工学部専任講師などを経て1998年より現職。研究テーマはメルロ=ポンティ、現代思想、言語学。主な著書に『メルロ=ポンティ― 触発する思想』(白水社)、『知の教科書 ソシュール』(講談社)など。
- 村岡晋一(むらおか・しんいち)
- 1952年生まれ。中央大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程単位取得退学。中央大学文学部非常勤講師、秋田桂城短期大学助教授などを経て2004年より現職。研究テーマはドイツ観念論およびドイツ・ユダヤ思想。主な著書に『対話の哲学―ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜』、『ドイツ観念論』(いずれも講談社)など。
- 中村 昇(なかむら・のぼる)
- 1958年生まれ。中央大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程単位取得退学。中央大学文学部専任講師などを経て2005年より現職。研究テーマは西洋現代哲学、言語および時間に関する問題。主な著書に『ウィトゲンシュタイン「哲学探究」入門』(教育評論社)、『ベルクソン=時間と空間の哲学』(講談社)など。