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トップ>教育>東日本大震災 その時中大杉並高校は…

教育一覧

大舘 瑞城 菊地 明範

大舘 瑞城・菊地 明範 【略歴

東日本大震災 その時中大杉並高校は…

菊地 明範・大舘 瑞城/中央大学杉並高等学校教諭

【はじめに】

 このたびの震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災された多くの方に心よりお見舞い申し上げます。

 東日本大震災発生時、中央大学杉並高校ではどのような動きをしたのかを時間を追ってご紹介いたします。些細な情報も漏らさずに収集・蓄積していくことが、将来の防災力を高めるためには重要なことだろうと思っています。ここにご紹介するのは都内の私立高校が震度5強を体験した折、どのような行動をとったのかの記録です。教育現場の一つの例として何かのお役に立てれば幸いです。

【発災時】

 3月11日、その日は試験休み中で生徒はあまり登校していなかった。クラブ活動の生徒182名が在校中に東日本大震災は発生した。揺れが長く続いた。教員室でも叫び声が上がる。机上の書類が床に落ちた。すぐに校内放送のマイクを取って「身の安全を確保すること、周囲の状況を見ていること」を伝える。揺れが少し収まり、安全を確認し、負傷者がいる場合はすぐに報告するよう伝え、グラウンドへ避難を開始した。グラウンドで整列していると余震がきた。ゆらゆらと揺れる電信柱、崩れ落ちる近隣家屋の屋根瓦、泣き出す生徒もいた。気象庁の発表で本校付近の震度は5強。学校の隣にあるお地蔵様もブロックや大谷石の塀も崩れていた。怪我をした生徒が1人もいなかったことは幸いであった。

 さぁ、これから何が始まり、どう動くべきか、日ごろの準備を活かせるのか、余震が続く中、不安と緊張が全教職員の顔に表れていた。

 しかし、教職員の不安は「何をどうすればいいのかわからない」という不安ではなかった。実は「大規模都市災害時の本校の対応について」と題した教職員研修会が2週間前に開かれていたのである。防災についての見直しが始まって5年目という節目に行われた研修会。防災士の二人が中心になって策定してきたマニュアル、このマニュアルを日本防災士機構・日本防災士会理事の橋本茂先生にご監修いただき、研修会当日は減災・復興支援機構専務理事の宮下加奈先生にご指導いただいた本格的な研修であった。まさか2週間後に震災が起こるとは想像もしていなかったが、この研修のおかげで、「どうしようか」と迷うことなく教員は生徒に指示を出し、それぞれが役割を意識して行動することができた。研修の重要性を認識しながら、私たちは口々に「研修会やっておいてよかったねぇ」と言い合ったのである。

【震災直後グラウンドで】

 グラウンドに集合した生徒をクラブ別に整列させ、怪我の有無・次いで全生徒の人数確認を終えた。しばらくグラウンドで待機することを生徒に伝え、携帯電話のメールで家族に無事を知らせるように指示し、バッテリー温存のため送信後は速やかに携帯電話の電源を切るように指示した。日頃伝えてあった措置のため生徒は素直に指示に従っていた。(災害伝言ダイヤル171はその時点で機能しておらず、その点は訓練通りにはいかなかった。)

 教員はこの間にラジオによって情報収集を始めた。その情報は逐次生徒に伝えられた。近隣の被害状況を把握するために数名が校外を視察。生徒には毛布と保温断熱シートが配布された。

 余震の収まりを確認し、教職員で校内の被害状況を確認、避難所となる第一体育館の安全を確認した。16時頃、小雨が降ってきたこともあり、第一体育館に全員を誘導した。

 この時点で校長・教頭以下専任教員が16名、事務室が10名、非常勤講師やクラブのコーチなど7名が校内で奔走していた。

【下校指示と宿泊準備】

 諸々の状況をふまえ17時の時点で「①徒歩・自転車・バスによる下校は可能 ②電車を利用した下校は不可能」と判断し下校可能な生徒を17時15分から順次下校させた。一方電車利用の生徒には「おそらく今夜は学校に宿泊することになる」と伝えた。平素から大災害が起こった場合は、安全が確認されるまで数日間学校に留まることを伝えてあったためか、生徒は皆きわめて冷静にこのことを受け止めていた。「緊急時生徒連絡票」によって帰宅経路の確認と帰途の注意点を伝えることができた。体育館前に保護者及び下校生徒対応受付が設置され、「生徒連絡票」※資料1はここで一元管理されることになる。

 校内の活動場所に置きっぱなしになっていた荷物を、教員の立ち会いのもと体育館に集めた。図書室は本が散乱していたため教員が生徒のカバンを取りに行くことになった。

【体育館で夜を迎える】

 17時30分、非常用の乾パンと水を配布した。各自が教室に備えている非常持出袋の中の食料と水は帰宅時のために温存するように指示した。

 18時20分、「共働き」「幼い子がいる」近隣在住の教職員に帰宅指示があった。これも教員研修会で話し合われていたことだが、徒歩20分圏内に居住している教員は、発災当日、一時帰宅することができる、しかし休日に発災した場合、その教員は可能な限り出勤すること、一方、遠方に居住している教員は発災当日は帰宅できないものの、休日に発災した場合は無理して出勤しないことを「お互い様」ということで理解しあっていた。そのためかこの指示に関しても抵抗感なく受け入れられたようだった。

 18時40分、学校に留まることになった130余名は手分けして体操用マットや筋トレ用のマット、それに校内にあった段ボールなどを体育館の床に敷き詰めた。ごく自然に女子はマットの上、男子は段ボールに暗幕を敷いた上に陣取ることになった。非常用保温断熱シートにくるまり各自時間を過ごすことになった。

 教員室に設置してある大型加湿器を体育館に移動し稼働させた。停電していなかったことは何よりの幸いだった。体育館には暖房も入っていた。携帯電話の充電を許可し、体育館壁コンセントから順番に充電させた。

【近隣住民・帰宅困難者の学校立ち寄り対策】

 学校は避難所としての役割を果たさなくてはならない、そのため避難所としての部屋割り※資料2が決まっている。そして外部からの避難者の誘導のための貼り紙が数枚貼られた。実際には近隣からも、帰宅困難者も学校を訪ねた者はいなかったが、マニュアル通り動けたことになる。

【帰宅する生徒・登校する生徒】

 保護者が迎えに来れば生徒は帰宅することができる。保護者とメールでやりとりしながら迎えに来てもらい下校する生徒が数名いた。一方で迎えに向かった保護者が途中で迎えを断念するケースも多くあった。道路事情が想像以上に悪かったのだ。さらに驚いたことに、発災時に下校途中だった生徒が夜中に登校してきた。帰宅途中の駅で足止めを食ってしまい、家に帰るよりも学校に戻った方が近いと判断し歩いて登校してきたのだった。この生徒からの情報は非常に役立った。

【深夜の体育館】

 余震の恐れがあるため、生徒には自由な行動を許さず、体育館内に居るように指示していた。22時自動販売機の利用を許可した。動線に教員を配置し、生徒に移動を許可した。温かい甘い飲み物などが多く売れたようである。

 就寝前にコンタクトレンズ使用の生徒のため保存液と紙コップが配布された。紙コップには名前と左・右を明記させ倒れないように場所を選び並べることにしたが、数の多さに驚かされた。

 22時30分消灯。体育館の照明を落とし、音量を下げてラジオを流し続けた。また湯沸かしポットを4台設置して自由に白湯が飲めるようにした。

 体育館の暖房を少し強めにし、加湿器を最大に動かして就寝したのである。

 寝付かれない生徒が寝返りをうつ度にシートがガサガサと音を立てているのが印象的だった。

【教員のシフト】

 教員は23時から翌6時までを3時間半ずつ2班に分けて就寝した。2時に迎えに来た保護者もいて24時間体制の必要性を感じた。夜通し起きているという教員もいたが、3時間半の仮眠は全員に義務づけられた。

【体育館での朝】

 6時に起床、体育館の照明を明るくした。インスタントコーヒーを全員に配り、朝食も乾パンと水。

 学校のホームページ、学年ごとのブログ、そして171を使って、それぞれの安否をメールで学校に知らせるように指示した。在校の生徒には、友人にメールして安否を学校に知らせる旨伝えてもらった。その際、①安否確認用アドレス②無事かどうか③現在の居場所④家に居ない者は帰宅したらもう一度メールをすること⑤12・13・14日は登校禁止⑥外出を控えること⑦メールに質問は書き込まないことを明示した。そしてその全文をQRコードにしプリントして体育館で配布し、情報にブレが生じないように工夫した。生徒のメール網には今更ながら驚かされた。6時13分に最初のメールを受信、その日の18時には全生徒の安全確認を終了することができたのである。この教訓は今年の防災訓練でも生かされ、新たな安否確認方法が確立された。※資料3

【下校開始】

 鉄道の再開に伴い、生徒の帰宅を始めたのは8時30分だった。動き出した路線を発表し、通常の通学路線以外で帰宅する生徒はその旨申し出ることによって帰宅できるようになった。帰宅次第メールで連絡をすることを約束させて生徒は順次下校し始めた。生徒全員が下校したのは11時30分。18時の全生徒の安全確認によって長い長い一日は終了したのである。

【登校禁止措置】

 翌日からはしばらく登校禁止になった。

 出勤できる教員でさまざまなことを決めなくてならなかった。初めての状況の中、成績のこと進級のことなど決めなくてはならないことが多くあった。

【復興支援について】

 研修会でご指導いただいた宮下先生から連絡があり、高校生の力を貸してくれないかと言われたのだが、登校禁止措置を取っているため生徒を召集できず、直接身体を動かすお手伝いはできなかった。しかしながら、できることで被災者支援しようという機運は高まり、長岡の防災センターに送るための支援物資の収集が始まった。

【気仙沼に行く】

 高校にどんどん集まってくる支援物資。段ボールが積まれていく。順次長岡に発送していたある日、宮城出身の教員の恩師が気仙沼の避難所になっている中学校で陣頭指揮をしていることがわかった。

 教員有志4名は「子供に笑顔を!」というテーマで気仙沼に行く計画をたてた。子供たちにアニメ映画を観てもらおうという計画だ。プロジェクターとスクリーン・DVDを準備し、お菓子や塗り絵、折り紙、絵本などを購入したり集めたりした。学年のブログで発信したところ子供のための支援物資・義捐金が続々と集まった。東京では桜が咲き始めた4月3日夜、ワゴン車を借りて私たちは雪降る気仙沼を目指した。

【気仙沼にて】

 交代で運転したワゴン車は明け方気仙沼に到着した。私たちはテレビで見知った光景を目の当たりにして言葉を失った。行けども行けどもがれきの山である。カラスとカモメの声、独特の臭気。何か自分の価値観が大きく変わっていくような光景だった。

 階上中学校に到着し、早速上映会の準備に取りかかった。また運んできた支援物資を搬入した。仮設トイレの下に敷く新聞紙を切る作業なども手伝った。

 子供たちは楽しそうにアニメを観てくれた。お菓子やおもちゃを本当にうれしそうに受け取ってくれた。そのお菓子を体育館にいる母親に報告に走る子供。ぬいぐるみを抱きしめて母親の元に帰る子供。ああ、やってきてよかったなぁと思った。もっと早く来てあげられたらなぁという反省もあった。

【防災計画の見直し】

 さて、最後にこれまで本校が取り組んできたことをまとめておきたい。1999年から新入生全員に普通救命講習を受講させ救命技能認定証を取得させてきた。今年で13年目。もちろん教員も取得している。つまり校内にいる全員が心肺蘇生法やAEDの使用方法を身につけているのだ。そして2006年に菊地が防災士の資格を取得。ついで2007年に大舘が取得し、この2名が中心となって中大杉並高校の新たな防災の取り組みが始まった。

【何から始めるか】

 何から取り組むか、最優先事項は、「だれも死なない学校づくり」だった。このコンセプトのもと順次環境整備に努めてきた。具体的には、 ①校舎の耐震性の確認。②生徒用ロッカーの壁への固着。③「緊急時生徒連絡票」の作成。(これは今回の震災でその重要性が再認識された。担任教員が全員揃っていなくても全生徒の緊急連絡票が揃っている状態が役に立ったのである。)④避難経路の見直しと避難訓練の変更。(階段の名称を統一し、それぞれの階段にその名称を貼りだした。避難経路は廊下にも教室にも掲示され、今いる場所からどちらに向かって避難するのかを明示した。こんな当たり前のこともできていなかった。避難訓練は防災訓練になった。2009年からは緊急地震速報の装置を設置し、速報に対応する形式にした。そして教室では安否確認の方法を体験する。防災学習をする場合もある。※資料4新規ウインドウおざなりな避難訓練はやめにしたのだ。教員は指揮をするにあたって教卓に下げている折りたたみ式ヘルメットを着用することになった。)⑤災害時避難所部屋割りを作成。立入禁止場所を明確にした。そして立入禁止の札を予め作成、セロハンテープとともに備蓄し誰でもすぐに張り出せるようにした。近隣住民が避難してきた場合に備えて、校内を誘導できる体勢を整えたことになる。⑥生徒用非常持出袋を2010年から用意し生徒は個人ロッカーに簡単な医薬品、食糧、水を個人でも備蓄することになった。

 そのほか、災害時のトイレの使い方マニュアル※資料5新規ウインドウ、避難者カードの作成、投光器の導入など順次防災環境が整えられているのである。

 私たちは、「防災教育の中杉」として今後も私学のリーダーでありたいと考えている。

菊地 明範(きくち・あきのり)/中央大学杉並高等学校国語科教諭
1963年生まれ。埼玉県出身。1986年中央大学文学部文学科国文学専攻卒業。1988年中央大学大学院文学研究科国文学専攻博士課程前期修了。1993年中央大学大学院文学研究科国文学専攻博士課程後期中退。
韓国暁星女子大学校専任講師を経て、1993年より現職。
主要著書に『栄葉集上・下』(古典文庫 共著2002年)『にほんご 新標準日語教程 中級1・2』(大連出版社 共著 2010年)など
大舘 瑞城(おおだて・みずき)/中央大学杉並高等学校国語科教諭
1975年生まれ。埼玉県出身。1998年中央大学文学部文学科国文学専攻卒業。2001年中央大学大学院文学研究科教育学専攻博士前期課程修了。2002年より母校中央大学杉並高校にて専任教諭。2007年防災士資格取得、校内の防災環境の向上に努める。
http://youtu.be/cgkBJxtUnIA新規ウインドウ