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水俣条約って何?水銀が”くらし”から無くなる日

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人類と地球を蝕むASGM(小規模金採掘)が
止まらない理由

 常温で唯一液体の金属「水銀」は、その特性から長く生活のなかで利用されてきました。しかし、同時に水俣病などに代表される公害や環境汚染も問題視され、2017年に「水銀に関する水俣条約」が発効。現在、水銀のライフサイクル全体にわたる規制が導入されています。
 このようななか、世界では未だに金鉱石の製錬における水銀の使用に歯止めがかからない状況があります。そもそも金を精製するのに、それと同量もしくは数十倍におよぶ水銀が使用されていることはあまり知られていません。そこで今回は、世界の金の総生産量の20~30%を占めるASGM(零細及び小規模金採掘)の実態について、第一工業大学教授の村尾智氏に話を聞きました。

他の金属とくっつく特性がある水銀

なぜ金を作るのに水銀が使われているのですか?

 主に発展途上国で行われているASGM(零細及び小規模金採掘)では、『アマルガム法』という方法が使用されています。まず、金鉱山から手掘りによって金を含む鉱石を採掘します。しかし、そのままでは金になりませんから、鉱石を細かく粉末状になるまで砕き、水銀と混ぜて加熱していく。水銀は他の金属とくっついて合金(アマルガム)を作る特性があるので、それを利用するわけです。こうして出来た水銀と金のアマルガムをさらに加熱していくと、水銀が蒸発し、金だけが残る。1gの金を産出するのに、およそ1~2g、場合によっては150倍もの水銀が使用され、蒸気として大気中に放出されています。

水銀アマルガム法による健康被害

水銀が大気中に蒸気として放出されると、どのような被害が起こるのでしょうか?

 水銀にはおおまかに『金属水銀』『無機水銀』『有機水銀』という3つの形態がありますが、大気中に放出された水銀蒸気が雨などで大気から生態系へ移行して有機水銀(メチル水銀)となった場合、その毒性が高まり、水俣病のように神経に大きなダメージを与えます。ASGMの製錬施設で飛散する無機水銀も腎臓などに影響を及ぼします。神経細胞は一度死んでしまうと再生しないという特徴があるため、非常に危険です。
 19世紀後半に書かれた『不思議の国のアリス』には、『狂った帽子屋(ハッター)』という変人が登場します。当時、『帽子屋のように気が狂っている』という慣用句すらあったそうですが、それは帽子工場でフェルト加工に水銀が使われていたため、帽子職人が水銀中毒になり、感情の起伏に変調をきたしていたことが背景にあると考えられます。

ASGM(零細及び小規模金採掘)の現状

宝飾品のみならず携帯電話やデジタルカメラなどの精密機器にも使用される「金」は、私たちの生活になくてはならない存在です。しかし、金を取り出そうとすれば水銀が放出されます。水銀を使用しない方法はありますか?

 現在、金の総生産量の20~30%がASGMによるものとされています。主に中南米、東南アジア、アフリカなど70か国以上の発展途上国で1100~1300万人が従事し、その中には女性が約250万人、子どもが約25万人含まれています。大掛かりな設備投資の必要のないASGMは彼らの貴重な収入源となっており、途上国の貧困と切り離して考えることはできません。たとえば、モンゴルでは厳冬期に家畜が大量に死ぬことがあり、そのために転落した貧困層が産金地帯に流入しています。さらに問題を根深くしているのは、ひとえに貧困だけが背景とも限らないことです。アマルガム法は台所でも簡単に行えるため、すでに彼らの生活の一部となっていますが、鍋の中から金が取り出せた瞬間にはギャンブルのような快感があり、それ自体に中毒性があるようです。1990年代から各国政府はASGM脱却のキャンペーンを行っていますが、このように金の生産は生活の糧、生活の一部となっているため、なかなか成果が上がっていない現状があります。

ASGMから出る水銀を減らすために、私たちができること

複雑な問題であるASGM。その解決に向けて、私たちができることは何でしょうか?

 ASGMによる水銀ばく露のリスクは女性や子どもに高くみられる傾向があります。まず、私たちの生活は途上国における劣悪な労働の上に成り立っていると認識することです。その上で、できる事を考えてはどうでしょうか。最近、欧米を中心に、環境や社会へのリスクを配慮する『エシカル消費』という概念が広まってきています。たとえば、環境破壊や労働力の搾取、貧困など負の連鎖を生み出さないよう配慮して作られたジュエリーを『エシカルジュエリー』と呼び、海外では『エシカルなものしか買わない』というスタイルも根付きつつあります。
 エシカルな商品の需要が高まり、ビジネスとして成立すれば、それは同時に生産者にとってアマルガム法のようなリスクある生産方法から他の方法へ転換する誘因になります。水銀を使わない、子供は働かせない、闇取引はしないなど、倫理的な条件に適えば、労働対価に見合った適正な価格で金を買い取り、市場に流す。こうしたやり方が広まれば、ASGMは徐々に水銀への依存から脱却を果たせるのではないでしょうか。

村尾 智 第一工業大学 工学部 教授
工業技術院 地質調査所 主任研究員、独立行政法人産業技術総合研究所 主任研究員を経て国際機関CCOP(東・東南アジア地球科学計画調整委員会)へ派遣。国立研究開発法人 産業技術総合研究所 上級主任研究員を務め現職。UNEP水銀グローバルパートナーシップASGM分野公式パートナー、社会地質学会会長
村尾 智さん