気候変動リスクと株価
佐々木 隆文(ささき たかふみ)/中央大学 総合政策学部 教授
専門分野 企業の社会的責任、コーポレートガバナンス、コーポレートファイナンス
1. 気候変動リスクへの対応は重要な経営課題
気候変動リスクへの対応が企業にとって重要な経営課題となっている。TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)によれば、気候変動リスクは物理的リスクと移行リスクに大別される。物理的リスクの例としては、自然災害による工場の操業停止やサプライチェーンの分断、猛暑による生産性の低下、原材料産地の変化、海抜が低い事業用地の消失などが挙げられる。移行リスクの例としては、炭素税、排出量取引などの導入、ガソリン車等の販売規制、脱炭素に向けた新技術による競争優位の変化、温室効果ガス排出量が少ない製品への消費者の嗜好が強まることなどが挙げられる。これらのリスクは中長期的に企業経営に大きな影響を及ぼすと考えられている。
2. 温室効果ガス排出量の開示
こうした状況の下、企業の気候変動リスクに関する情報開示の重要性が高まっている。企業の気候変動リスクに関する温室効果ガス排出量の国際的な規格である GHGプロトコルでは企業活動からの排出量を自社内の直接排出(Scope1)、自社内の電力消費等に伴う間接排出(Scope2)、それ以外のサプライチェーンで生じる間接排出(Scope3)に分類して計測、公表することを求めている。Scope3では原材料や部品の生産から流通、生産設備の増設、従業員の通勤、製品の使用や廃棄に至るまでバリューチェーン全体での排出量を対象としている。
3. サプライチェーン排出量の重要性
多くの企業ではサプライチェーンでの排出量は自社内の活動に起因する排出量を大きく上回っている。例えば、自動車メーカーでは製造時に生じる直接排出量や自社内の電力消費に起因する排出量よりもユーザーが自動車を使用する際に発生する排出量の方が遙かに多い。食品メーカーでは原材料の生産過程で生じる排出量が多くなる。生産委託が一般的なアパレル産業ではサプライチェーンの上流での製造時の排出量が多くなるし、製品の廃棄時に生じる排出量も多い。
4. 株価は将来予想を反映して形成される
気候変動リスクに関する情報は株価にどのような影響を及ぼすであろうか。株式の評価では将来のキャッシュフローを割引率で現在価値に換算する。このうち割引率は安全資産利子率とリスクプレミアムから構成される。ここでリスクプレミアムとは投資家がリスク負担の対価として要求するリターンを意味する。現在のところ、気候変動リスクは企業の将来のキャッシュフローの不確実性を高めるため、主に割引率を通じて株価に影響すると考えられている。他の条件を一定とすれば、リスクプレミアムが高まると株式の価格は低くなることになる。
5. 気候変動リスクは株価に反映されつつある
実際、近年の先行研究によると、事業所内の直接排出および電力消費等に起因する排出量(Scope1排出量、Scope2排出量)は既に企業価値評価に反映されているようである[1]。しかし、データの限界もあってサプライチェーンで生じるScope3排出量開示が株価に及ぼす影響については分かっていないことが多い。
6. サプライチェーン排出量開示の課題
容易に想像できるように、Scope3排出量を計測、開示することは容易ではない。各カテゴリーの排出量計測のためには、それぞれにおける活動量の推計が必要になってくるし、活動毎の排出量推計も必要なため、取引先企業との情報共有も必要になってくる。また、開示企業においても開示されているカテゴリー数が十分でないケースもあるし、データの精度や統一性の問題もある。このような問題から、先行研究の中にはScope3開示に伴うコストに見合ったベネフィットが開示企業にあるのか問題視する向きもある。
7. サプライチェーン排出量開示のメリット
Scope3排出量の開示はコストに見合ったベネフィットがあろうのだろうか。このような問題意識に立ち、筆者はScope3排出量開示が株式の資本コストに及ぼす影響を分析した[2]。
Scope3開示が株式の資本コストに影響しうる経路は2つある。第一に、Scope3排出量を計測、開示している企業は将来の気候変動リスクに適切に対処できる可能性がある。Scope3開示は気候変動リスクへの対応能力のシグナルとなりうる。第二に、Scope3排出量開示はサプライチェーン等への排出量の移転(Carbon leakage)を行いにくくする。例えば企業は生産を他社に委託することにより直接排出量を減らすことができる。しかしこのような直接排出の減少はサプライチェーン排出量への移転に過ぎず、本質的な排出量の減少ではない。サプライチェーン排出量が開示されればこのようなCarbon leakageは可視化されることになる。この2つの経路により、Scope3排出量の開示は気候変動リスクに伴うリスクプレミアムを緩和するとの仮説を立てた。
8. サプライチェーン排出量開示の効果は?
筆者らは株価や利益予想データを所与として計算されるインプライド資本コストを用いて仮説の検証を行った。事後的なリターンではなくインプライド資本コストを用いることのメリットは投資家の事前的な要求リターンを直接反映できる点にある。
実証分析の結果、Scope1、2排出量は先行研究と同様に株式資本コストを高めることが示された。この結果は投資家が企業内の活動に起因する気候変動リスクに対しリスクプレミアムを要求していることを示唆している。他方、Scope3開示を行っている企業ではそのような資本コスト上昇がある程度緩和されることが示された。この結果は仮説と整合的であり、Scope3排出量開示が気候変動リスクに伴うリスクプレミアム増加を緩和する可能性を示唆している。
9. サプライチェーン排出量の開示は資金調達能力を高める可能性
温室効果ガス排出量を削減していくためには、企業内での排出のみでなくサプライチェーンでの排出を減らしていくことが不可欠である。Scope3排出量の計測、開示はサプライチェーン排出量を減らしていく取り組みの第一歩である。筆者らの分析が示すようにScope3開示により株式資本コストの上昇が抑制されるのであれば、開示企業は資金調達を行いやすくなり、気候変動対策を更に進めることができる。Scope3開示の強制開示については賛否両論があるが、Scope3開示によるメリットを認識し、自主的に開示する企業が増加することが期待される。
[1] 気候変動と株価との関係に関する最近の研究動向については次の文献を参照。佐々木隆文. (2023). 気候変動リスクとリスクプレミアム. 証券アナリストジャーナル61(10), 48-53.
[2] 本研究は山根里香氏(国際基督教大学)と行っている共同研究である。
佐々木 隆文(ささき たかふみ)/中央大学 総合政策学部 教授
専門分野 企業の社会的責任、コーポレートガバナンス、企業年金東京理科大学理学部卒業、筑波大学大学院経営政策科学研究科修了、一橋大学大学院商学研究科博士後期課程修了。博士(商学)。日興証券(現SMBC日興証券)系のシンクタンク(日興リサーチセンター)に勤務後、名古屋市立大学経済学研究科、東京理科大学経営学部を経て現職。日本経営財務研究学会評議員(2019年〜)、同学会学会誌編集委員長(2021年〜2022年)、証券アナリストジャーナル編集委員(2001年〜)
Financial Management、Pacific-Basin Finance Journal、Accounting and Finance、Asia Pacific Journal of Managementなどの学術誌に論文を掲載。
専門分野:企業の社会的責任、コーポレートガバナンス、コーポレートファイナンス。