研究

「詩人大使」ポール・クローデルがもたらした日仏文芸交流

学谷 亮(がくたに りょう)/中央大学文学部准教授
専門分野 近現代フランス文学・日仏交流史・比較文学

「詩人大使」来日の衝撃

 1921年(大正10年)1月、フランスから新しい駐日大使が赴任することが日本の外務省に通知された。新任大使の名は、ポール・クローデル(1868-1955)。彼は1890年にフランス外務省に入省し、1895年から1909年まで、数回の一時帰国を挟んで清朝中国に長期間滞在した経験をもつ。また、外交官としての職務の傍らで詩や戯曲を執筆する作家でもあった。だが、彼が来日することが報じられるまで、そうした事実はおろか、クローデルの名すら日本ではほとんど知られていなかったのである。訳詩集の金字塔と呼ぶにふさわしい『海潮音』を著した上田敏(1874-1916)は、「独語と対話」や「文芸の最新傾向」といった評論でクローデルを取り上げ、その詩を何篇か訳してはいる。とはいえ、1921年以前に日本で出版された書籍や雑誌にクローデルの名が記される機会は決して多くなかった[1]

 当時の日仏関係は、ある種の転換期にさしかかっていた。日・仏・英・露の四国協商のもとで第一次世界大戦に参戦した日本は、大幅な輸出超過になり、他の三国の公債を多く引き受けた。そのため、フランスにとって日本は「債権国」であると同時に、アジア・太平洋における重要な「同盟国」となったのである[2]。長い中国勤務を経験したアジア通であるクローデルの駐日大使任命は、こうした状況下でフランス外務省が決断した「切り札的人事」であった[3]。 

 だが、彼の赴任が日本国内で報じられると、フランス外務省の意図からはいささか逸脱した反応がみられた。日本人は、クローデルがもつ外交官としての有能さよりも、むしろ彼が高名な作家であることに強い関心を示したのである。

 当時の新聞報道をみても、「ポール・クローデルを新任駐日大使に迎へることは日本の文壇にとつて大きな意義を與へるであらう」[4]、「外交官畑の人としてよりもむしろ文学者として世に知られてゐる人だから氏の東京入りは外務省向きの歓迎と云ふより文学界の刺激の方がよつぽど強い」[5]といった具合である。こうした反応は、いつしかある愛称へと結実していった。「詩人大使」――クローデルのことを日本では皆そう呼んだのだ。そして、来日以後、クローデルの行動や発言は毎日のように新聞紙上で報道され、そのたびに「詩人大使」の四文字が添えられることになる。これほどまでに強い関心を向けられた外国大使も、そういないであろう。

「詩人大使」に熱狂する文化人たち 

 クローデル来日が報じられると、東京の親仏派文化人は彼を歓迎する準備を始めた。3月、神田小川町にあった仏蘭西書院という洋書店にて「仏文学愛読者の会」なる催しが開かれたと記録されている。これは「日頃仏文学に親しむ連中が一堂に相会して、仏文学に特有な明い気分の中に、楽しく一夕を語り暮らす」というものであったが[6]、これは実質的にはクローデルを歓迎するための会であったと考えられる。というのも、これとほぼ同時にやはり仏蘭西書院において「仏蘭西同好会」なる団体が発足しており、「新任仏蘭西大使クローデル氏の、芸術的歓迎会を計画することとした」[7]と報じられているのである。会の中心にいたのは仏蘭西書院の経営者アルベール・メーボン(1878-1940)であり、仏文学者の吉江喬松(1880-1940)、政治学者の五来欣造(1875-1944)、仏文学者・社会運動家の小牧近江(1894-1978)などが会員であったが、彼らはその後クローデル本人と交流をもつことになる。

 1921年11月19日、「詩人大使」を載せた船が横浜港に入港し、彼は日本の地を踏んだ。メーボンや吉江といった「仏蘭西同好会」の面々は、雑誌や新聞にクローデルを紹介する記事を掲載した[8]。そして翌1922年(大正11年)1月15日、上野精養軒でクローデルの歓迎会が盛大に行われた。吉江の講演やクローデル作品の朗読のほか、東京外国語学校(現東京外国語大学)学生によって彼の戯曲『1914年 降誕祭の夜』がフランス語で上演された。彼らのこうした歓迎ぶりとフランス文学への情熱に対して、クローデルは「フランス文学について」と題する講演をすることによって応えた。

若き詩人たちとの交流 

 だが、クローデルに対する熱狂は、親仏派文化人の間でのみ渦巻いていたのではない。彼が来日する1か月前、ある詩誌が産声をあげている。大手出版社の新潮社を発行元とする『日本詩人』である。1917年(大正6年)、大正期最大の詩人団体である詩話会が結成されたが、1921年3月には、当時主流になりつつあった口語自由詩への反発から北原白秋や三木露風などの大物詩人が離脱した。残留した若手たちが、謂わば「新生」詩話会の機関誌として創刊したのが『日本詩人』であり、1926年(大正15年)11月の終刊まで全59冊を数えることになる[9]。同誌は、クローデルの来日後間もなく小牧近江が紹介記事を寄稿したことを皮切りに[10]、散文詩集『東方所観』の部分訳や、1922年12月2日に作家シャルル=ルイ・フィリップについてクローデルが語った講演原稿を掲載するなど、「詩人大使」と積極的に関わってきた。そして、1923年(大正12年)5月発行の『日本詩人』は「ポオル・クロオデル特別号」と銘打ち、きわめて充実した特集を組んだのである。その巻頭は彼が同誌のために書き下ろした「『日本詩人』への挨拶」で飾られ、作品の翻訳、評論、そして日本初のクローデル年譜まで掲載された。当時、『日本詩人』の編纂にあたっていたのは福士幸次郎(1889-1946)や福田正夫(1893-1952)、白鳥省吾(1890-1973)、百田宗治(1893-1955)といった面々で、いずれもまだデビューして間もない、新進気鋭というにふさわしい詩人たちであった。

 クローデルに対する敬愛は、『日本詩人』以外の詩誌にも垣間見られる。同誌と同時に玄文社より創刊された『詩聖』は、1923年9月に全24冊で幕を閉じた、比較的短命な詩誌であったが、1923年4月号にはクローデルが「『詩聖』並に、我日本の詩人諸君に」と題するメッセージを寄稿しており、同時に訳詩一篇が掲載されている。同誌の編纂にあたっていたのはやはり若手の詩人であった大藤治郎(1895-1926)であったが、大藤と、『日本詩人』の百田はクローデルに対面も果たしている[11]。また、詩話会会員でありながら、独立して自らの同人誌『詩洋』を立ち上げた前田鐵之助(1896-1977)は、1927年のクローデルの離日時に、同誌上でささやかなクローデル特集を組み、「詩人大使」を送別している[12]

創作の源泉としての日本

 こうした歓迎ぶりの背後には、当時の日仏間に友好的なムードが漂っていたことのみならず、「第一次世界大戦後、国力としては五大国にまでのし上がったにもかかわらず、政治・文化的には二流国扱いされていたという世界情勢」のもとで、クローデルが「あらゆる意味で、日本の文学・芸術の理解者になってくれること」への期待が大きかったのではないかという指摘もある[13]。彼が真の意味で日本文化を「理解」したか否かはさておき、日本という国に、とりわけその文学や芸術に人並み以上の関心を示したことは事実だといえよう。日本をめぐる彼の発言は、外交文書中や演説中のそれのように、明らかに「大使」という立場を背負ってのものも少なくないが、その一方で純粋に「詩人」としての関心から出たものもある。

 だが、彼が見たものや好んだものは、大正という時代の最新流行からは隔たっていた。例えば、演劇について、小山内薫(1881-1928)が1924年(大正13年)に「築地小劇場」を設立して新劇が全盛となるのを横目に、クローデルは日本の伝統演劇である能や文楽、歌舞伎に親しんだ。また詩について、前述した『日本詩人』や『詩聖』に集う詩人たちが口語自由詩を実践する一方で、「詩人大使」の関心を最も惹いたのは日本の定型詩である俳諧(俳句)であった[14]。異文化の受容をめぐって生じるこうしたある種の「時代錯誤」は、特段目新しいものではない。だがクローデルの場合、それは日本との接触を経ることなしには決して得られなかった、特異な形式と内容をもつ文学作品として結実したのである。彼が「私なりの能」と呼び、五世中村福助主催「羽衣会」で上演された芝居『女と影』や、俳諧から着想した短詩集『百扇帖』など、枚挙に暇がない。

文芸を通した日仏交流

 大正末期の数年間、フランスからやってきた「詩人大使」に日本人は熱い視線を注いだ。そして彼もまた、日本に対して独自のまなざしを向けて作品を書くことにより、それに応えたのである。こうした幸福な相互関係がわずかな期間とはいえ成立していたことは、日仏交流史上特筆に値すると言うべきだろう。そのことを象徴しているのが、1923年2月、新潮社より刊行された詩集『聖ジュヌヴィエーヴ』である。クローデルのたっての希望で実現したこの書物は経本式に折り畳まれた一枚紙からなり、表面には「聖ジュヌヴィエーヴ」というキリスト教の聖人を主題とした長詩が、裏面には詩人の日課であった皇居濠散策に想を得た短詩「東京の内濠」の一篇が日本画家冨田渓仙(1879-1936)の挿画とともに印刷されている。つまりこの書物は、表面に「フランス的」な詩を、裏面に「日本的な」詩を記しているのである。クローデルが自らの詩作を以て、日仏文芸交流を具現化しようと試みたと考えるのは、深読みが過ぎるだろうか。


[1] 上田敏をはじめとする大正期前半のクローデル受容については、拙稿「大正期前半のポール・クローデル受容」『仏蘭西学研究』第50号、2024年、31-47頁を参照。
[2] 篠永宣孝「駐日大使ポール・クローデルとフランスの対日政策(1)」『経済論集』第94号、2010年、106-108頁。
[3] 篠永宣孝「駐日大使ポール・クローデルとフランスの対日政策(2)」『経済論集』第95号、2010年、103頁。
[4] 『東京朝日新聞』1921年7月7日。
[5] 『読売新聞』1921年11月3日。
[6] 『読売新聞』1921年3月6日。
[7] 『読売新聞』1921年3月10日。「仏蘭西同好会」については、小林茂「仏蘭西同好会始末」『比較文学年誌』第47号、2011年、76-96頁に詳しい。
[8] A.メーボン(吉江喬松訳)「文学者としてのクロオデル大使を迎ふ」『読売新聞』1921年12月20日。吉江喬松「ポオル・クロオデル」『改造』3巻11号、1921年、94-103頁。
[9] 同誌については、勝原晴希編『『日本詩人』と大正詩――〈口語共同体〉の誕生』森話社、2006年に詳しい。
[10] 小牧近江「ポール・クローデルの印象」『日本詩人』1巻2号、1921年、71-75頁。
[11] 1923年2月18日、クローデルの詩集『聖ジュヌヴィエーヴ』の出版記念会が帝国ホテルで開かれたときのことであった。
[12] 拙稿「ポール・クローデルと詩誌『詩洋』」『仏蘭西学研究』第48号、2022年、18-36頁を参照。
[13] 大出敦「報道に見るクローデル」、中條忍監修、大出敦・篠永宣孝・根岸徹郎編『日本におけるポール・クローデル――クローデルの滞日年譜』クレス出版、2010年、435頁。
[14] 拙稿「短詩創作の源泉としての俳諧――ポール・クローデルにおける俳諧の受容」『フランス語フランス文学研究』第124号、2024年、75-91頁を参照。

学谷 亮(がくたに りょう)/中央大学文学部准教授
専門分野 近現代フランス文学・日仏交流史・比較文学

1987年生まれ。2010年慶應義塾大学文学部人文社会学科仏文学専攻卒業。2012年東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻修士課程修了。2019年東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程満期退学。同在学中にソルボンヌ大学(旧パリ第4大学)フランス文学・比較文学研究科に留学し、修士号(Master)および博士号(Doctorat)を取得。博士(フランス文学・文明)。日本学術振興会特別研究員(PD)、中京大学教養教育研究院講師・准教授を経て2024年より現職。

専門分野 近現代フランス文学/日仏交流史/比較文学

現在の研究課題は、駐日フランス大使時代のポール・クローデルと日本の関わりを外交・宗教・文学の観点から位置づけることと、大正期の日本におけるフランス詩受容の実態を解明することである。また、上海フランス租界を舞台とする日仏中交流史にも関心をもっている。

主要著書(分担執筆)に、大出敦編『クローデルとその時代』(水声社、2023年)、榎本泰子・森本頼子・藤野志織編『上海フランス租界への招待』(勉誠出版、2023年)、主要訳書(共訳)にアンヌ・ユベルスフェルト(中條忍監訳)『ポール・クローデル』(水声社、2023年)などがある。