疾病の原因を探る疫学、悠久の営み
竹内 文乃(たけうち あやの)/中央大学理工学部准教授
専門分野:疫学・生物統計学
疫学とヒトの健康にまつわる因果関係
疫学(Epidemiology)はギリシャ語のEpi(over,upon. 上から)とDemio(demos, ヒトの集団)とLogy(logos, 学問)からなり、ヒトの集団を対象とした学問である。ここ十数年で「疫学」という言葉が広く世間に知られた出来事には、福島第一原子力発電所の放射性物質漏出事故と、新型コロナ感染症の世界的な蔓延があった。いずれも「動物実験等ではなく「ヒト」では何が起こるの」という「根拠」を社会が求めた結果、長年の学術的蓄積がある放射線疫学と感染症疫学に大きく光が当たった。
「根拠」(エビデンス)という言葉は、1990年代にEvidence Based Medicine(EBM、根拠に基づく医療)といった使われ方をしはじめ、コロナ禍で多くの人が「コロナワクチンのエビデンスは?」等と求めるまでに普及した。本稿では、私が専門とする疫学研究によってエビデンスがどのように構築され、確立されてきたのか昔の事例を振り返りながら紹介していく。
近代疫学の起こりと感染症
近代的な疫学が社会に認知された最初の事例は1850年代イギリスロンドンでのコレラの大流行下である。端的にまとめると麻酔科医John Snowが、ロンドン中心部のコレラ患者・死者を地図上に記録し、特定の水道会社の水や特定の共同井戸の周りで患者が多発していることを突き止め、当該井戸を使えなくすることで同地区のコレラ沈静化が確認された。時代は、ドイツ人細菌学者Robert Kochがコレラ菌を発見する約30年前であり、病原体も感染様式も分からない状態で、ヒト集団の観察に基づいてPDCA(Plan, Do, Check Action)サイクルが回され、問題が解決に向かったことになる。
このロンドンのコレラ禍で上がった疫学の産声が、コレラ患者の看護にあたっていたFlorence Nightingaleによってクリミア戦争の野戦病院に持ち込まれ、さらに統計学を加えて傷病者の感染症鎮静化に繋がったことはまさに因果の綾と言えるだろう。白衣の天使として知られるNightingaleは、イギリス王立統計協会初の女性会員でもあり、戦地で戦死者より多かった感染症死者を減らすために疫学的観察とデータ分析を踏まえて換気頻度やベッド間隔などを検証し、現代コロナ禍で広まった「三密回避対策」のエビデンスの礎を確立していたのだ。
日本における疫学とエビデンス
因果の綾は日本にも及ぶ。Nightingale看護学校を擁する医学校・病院に、1875年に留学したのが日本人医師の高木兼寛である。高木は西洋医学と共に黎明期の疫学を学んで帰国後、海軍軍医として流行していた脚気(かっけ)の原因究明に取り組んだ。高木は疫学的観察の結果、脚気の原因は食事にあると考え、食事のみを変更して従来と同じ太平洋横断練習航海を実施し、脚気死者を1人も出さずに帰国(従来の食事では船員の45%が脚気発症、約7%が死亡)させ、これを以降海軍から脚気は姿を消した。因果の綾はさらにこの30年後、日本人化学者・鈴木梅太郎が精米で取り除かれる米ぬかからビタミンB1(欠乏すると脚気を発症する)を発見にまで繋がる。なお、脚気予防のエビデンス確立には様々な歴史があり、たとえば16世紀の大航海時代、探検家Vasco da Gamaの航海日誌には壊血病の船員がオレンジを食べて回復した記録がある。また17世紀イギリス、18紀日本の医学書に「浮腫病(≒脚気)・壊血病にはコーヒーが効果的」との記載がある。さらには15世紀初頭には中国明王朝の鄭和船団が甲板に盛土をして野菜を育て、低発酵のお茶を飲み、大航海を成功させていたことも分かっている。つまり、エビデンスは広く共有されない限り、人命を救わないのである(16‐18世紀、少なくとも100万人以上が脚気で死亡したとされる)。特に日本では、海軍で脚気予防法が確立した後も、陸軍では脚気菌の探索が行われ(陸軍軍医総監の森林太郎はドイツに留学して顕微鏡的基礎医学を学んだ)、その後の日清・日露戦争で、銃弾等による犠牲者をはるかに上回る脚気死者を出した悲劇の歴史がある。脚気予防のエビデンスは、何世紀も前から点在していたが、広く為政者、ひいては社会の合意が得られて普及してこそ、人の命が救われることが痛感された事例でもある。
100年の時を超えて明らかになる、遥かに遠い因果関係
感染症で産声を上げ、栄養不足の発見に貢献した疫学を大きく育てたのは循環器疾患予防であった。感染症は数日の潜伏期間、栄養不足は数か月。それに対して例えば喫煙が循環器疾患に及ぼす影響は数年から数十年後に現れる。遠い因果関係の特定は、患者を病院で治療する臨床医だけでは困難であり、世界中の疫学研究者の粘り強い努力が必要であった。20世紀に急激に性能を上げたコンピュータとそれに支えられて飛躍した統計学も大きく貢献し、今では当然と考えられている喫煙や塩分、運動不足や偏った栄養が循環器疾患のリスクになること、またその影響を1つずつ特定していったのである。
最後にもう1つ、遥か遠い因果関係を突き止めた疫学研究を紹介する。20世紀初頭のイングランドにおける地域ごとの乳児死亡率の高さと、同地域の1968年-78年の冠状動脈性心疾患による死亡率の高さに相関があることに気づいた研究者がいた。乳児期に死亡した子どもと、50年後、70年後に冠動脈精神疾患で死亡者は当然異なる。ただ、栄養疫学者David Barkerはそれらが共通原因「栄養不足」で起こったのではないかと考えた。栄養状態の悪い地域では乳児死亡が増え、また冠動脈精神疾患による死亡が増えるのではないか?この一見突拍子もない仮説は1986年に発表され、Barker仮説と呼ばれた。その後、イギリスのハートフォードシアで1911‐33年(明治42年から昭和8年)の全出産記録と子どもたちの転帰が残されていることがわかった。この記録を分析すると、出生体重が小さい子ほど将来心筋梗塞で死亡していたのだ。では、子ども低体重で生まれてくることと栄養状態はどう関係しているのか?このミッシングリンクの解明には、第二次世界大戦中の悲劇の疫学データが寄与することになる。1944年から45年にかけて、ナチスドイツ占領下のオランダは兵糧攻めに遭い、「飢餓の冬」を過ごした。このひと冬に生まれた命の記録が残っていたのである。妊婦への配給食糧が1日1500キロカロリーから700キロカロリー程度にまで落ち込むと、連動するように妊婦の体重が5kg、生まれる子どもの出生体重が400g、身長が4㎝ほど落ち込み、オランダ解放と共にすぐに回復していた。そしてこの冬を妊娠初期に経験した子どもたちは50歳時点の肥満度が高く、60歳時点の血糖値が高く、循環器疾患による死亡が高いことがわかったのだ。このような積み重ねがDOHaD仮説(Developmental Origins of Health and Disease、健康と病気の発生起源説)と呼ばれる仮説を確立し、世代を超えた健康格差を扱う社会疫学の興隆や、日本でも2021年に妊娠中の体重増加に関する新基準(普通~やせ型の妊婦はこれまでよりも体重を増やす)の策定につながったのである。
これからの疫学
ビッグデータ・データサイエンス時代を迎えた現在、胎児期からヒトの集団を追跡した疫学研究が世界でいくつも存在し、かつて強く短期的な因果関係(感染症)を突き止めて疾病予防に寄与した疫学は、もはや弱く複合的な遠い因果関係の評価に主眼を移している。私自身は統計学的手法を使いながら因果関係を紐解くことを研究上の専門としているが、正しいか正しくないかではなく、確からしさの濃度を高めること、そして未来の新たな研究のための情報発信を心掛け、複合領域の学びを大切にする理工学部人間総合理工学科において疫学的学びの種をまき、世代を超えた因果を紐解くための研究と人材育成を行っていく所存である。
【参考文献】
・岡希太郎.壊血病と浮腫病の歴史に見るコーヒーとビタミンの関係.薬史学雑誌.2016.51(1):5-10.
・岡村健.脚気論争の光と影 陸軍の脚気惨害はなぜ防げなかったのか.2020.梓書院.
・日本疫学会監修.はじめて学ぶやさしい疫学改訂第4版.南江堂.2024.
・松田誠.高木兼寛伝: 脚気をなくした男.1990.講談社.
・Barker DJ, Osmond C. Infant mortality, childhood nutrition, and ischemic heart disease in England and Wales. Lancet.1986;1:1077-81.
・Barker DJ, Osmond C, Law CM. The intrauterine and early postnatal origins of cardiovascular disease and chronic bronchitis. J Epidemiol Community Health 1989; 43: 237-40.
・Buklijas T, Al‑Gailani S. A fetus in the world: Physiology, epidemiology, and the making of fetal origins of adult disease.History and Philosophy of the Life Sciences. 2023.45:44.
・Osmond C, Barker DJ, Winter PD,Fall CH, Simmonds SJ. Early growth and death from cardiovascular disease in women.BMJ 1993;307(6918):1519-24.
・Syddall HE, Aihie Sayer A, Dennison EM, Martin HJ, Barker DJ, Cooper C. Cohort profile: the Hertfordshire cohort study. Int J Epidemiol 2005; 34(6): 1234-42.
竹内 文乃(たけうち あやの)/中央大学理工学部准教授
専門分野:疫学・生物統計学神奈川県出身(森村学園高等部)。2004年東京大学医学部 健康科学看護学科 疫学・生物統計学研究室卒業。同修士課程・博士課程を経て2008年より同助教。2012年より国立環境研究所 環境健康研究センター研究員、2014年より慶應義塾大学医学部 衛生学公衆衛生学教室専任講師(医学部)を経て2022年4月より現職。博士(保健学)(東京大学)。上級疫学専門家(日本疫学会)。
専門分野:疫学・生物統計学