研究

私たちは5人の命を救うために1人の命を犠牲にすべきか?

矢島 壮平(やじま そうへい)/中央大学国際情報学部准教授
専門分野 哲学・倫理学

1. トローリー問題

 「トローリー(路面電車)問題」について知っている人は多いのではないでしょうか。日本では「トロッコ問題」と呼ばれていますが、「trolley」はアメリカ英語で「路面電車」を意味します(図1)。この思考実験を最初に考案した哲学者のフィリッパ・フットは、イギリス英語で「路面電車」を表す「tram」という言葉を使っていました(Foot 1967, p. 8)。

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図1:左が路面電車、右がトロッコ

 それはさておき、まずはトローリー問題について簡単に説明しましょう。あなたは路面電車の転轍機の前に立っていて、ブレーキの故障した路面電車があなたの前を通過しようとしています。あなたが転轍機を動かさなければ、路面電車はそのまま進んで5人をはねてしまうでしょう。他方、あなたが転轍機を動かせば5人は助かりますが、分岐線にいる1人をはねてしまうでしょう(図2)。このとき、あなたは転轍機を動かしますか。

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図2:「転轍機」のケース

 この「転轍機」のケースでは、転轍機を動かさない人よりも動かす人のほうが多い、つまり、1人を犠牲にして5人を救う選択をする人のほうが多いことが知られています。

 このトローリー問題にはもう一つ、よく知られたバリエーションがあり、「跨線橋」のケースと呼ばれています。それは次のようなものです。あなたは跨線橋の上に立っていて、ブレーキの故障した路面電車がその下を通過しようとしています。あなたのすぐ隣には体格のいい人が立っており、あなたがその人を線路の上に突き落とさなければ、路面電車はそのまま進んで5人をはねてしまうでしょう。他方、あなたがその人を突き落とせば、その人が「人間車止め」になって路面電車は止まり、5人は助かりますが、その人は亡くなってしまうでしょう(図3)。このとき、あなたはその人を突き落としますか。

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図3:「跨線橋」のケース

 どうでしょうか。この「跨線橋」のケースでは、体格のいい人を突き落とさない人のほうが突き落とす人よりも多い、つまり「転轍機」のケースとは逆に、1人を犠牲にして5人を救う選択をしない人のほうが多いのです。

2. 違いは感情にあり?

 1人を犠牲にして5人を救うかどうかの選択を迫られているという点では、「転轍機」のケースも「跨線橋」のケースも変わりません。それなのに、なぜ両者のケースで人々の選択に違いが生まれるのでしょうか。

 この疑問に答えるため、心理学者のジョシュア・グリーンはfMRIという技術を使って、トローリー問題や類似の道徳的ジレンマに直面したときの人々の脳の活性を調べました(Greene et al. 2001)。その結果、「跨線橋」のケースでは「転轍機」のケースのときよりも情動に関与する脳部位の活性が高いことがわかりました。つまり「跨線橋」のケースでは、「1人の人を殺してはいけない」という動機づけをもたらす情動が、「転轍機」のケースよりも強く働いていたのです。

 そしてグリーンは、両ケースでのこうした情動反応の違いを、次のように説明しました。かつて人間の進化史において人を殺すときには、殴ったり切ったり刺したりなど、直接的接触を伴っていたので、人を殺すのを控える動機づけを与える私たちの情動は、そうした直接的危害を伴うケースに反応するよう進化してきた。しかし、転轍機を動かして1人を犠牲にしたとしても、その1人に対する直接的接触がないので、人を殺すことを控えさせる情動反応が生じない。他方で、跨線橋から人を突き落とすときにはそうした直接的接触があるので、情動反応が生じて私たちは人を突き落とすのを控えるのだ、と。

 おそらくこの説明は間違っています。たとえば、毒殺などの接触を伴わない間接的手段による殺人を考えてみてください。私たちは人を突き落として殺すことに抵抗があるのと同じくらい、人に毒を盛って殺すことに抵抗があるでしょう。また、「転轍機」のケースを少し変えて、路面電車の進行方向に誰もいないにもかかわらず、転轍機を動かして1人を死なせることを考えてみてください。私たちがこうした単なる「殺人」に抵抗を感じるのは明らかでしょう。とはいえ、ここでは一旦グリーンの説明を正しいものとして受け入れるとしましょう。そのとき果たして、「跨線橋」のケースでは1人を犠牲にせず5人を救わないという選択が「倫理的に正しい」ということになるのでしょうか。

3. 功利的は合理的?

 哲学者のピーター・シンガーは、上のグリーンの説明を受け入れつつ、だからと言って「跨線橋」のケースで1人を犠牲にせず5人を救わないのが倫理的に正しいということにはならないと強調します(Singer 2011, pp. 194-196)。というのも、私たちの情動反応が倫理的に正しいことが、何ら論理的に正当化されていないからです。シンガーは功利主義(社会全体の幸福を最大化する行為こそが善い行為であるという立場)の支持者ですが、功利主義の父である18-19世紀の哲学者、ジェレミー・ベンサムも「共感と反感の原理」というものに反対して同様のことを述べています(Bentham 1996, p. 25)。

 功利主義者であるシンガーの見解では、私たちは自身の情動反応に抗して「跨線橋」のケースでも1人を犠牲にして5人を救うべきであり、それこそが功利の原理(「社会全体の幸福を最大化する行為こそが善い」という功利主義の原理)によって合理的に正当化される、倫理的に正しい行為だということになります。しかし、これは本当にそうでしょうか。というのも、シンガーが倫理の合理的基盤として採用している功利の原理自体がじつのところ、一つの直観にすぎないように思えるからです。結局のところ、ベンサムやシンガー自身、「より多くの仲間を助けたほうが善い」という進化的に獲得された利他的直観(あるいは情動反応)に突き動かされて功利の原理を支持しており、その直観自体は何ら正当化されていないのではないでしょうか。

4. 情報と共感

 ここで、「転轍機」と「跨線橋」の両ケースにおいて情動反応が異なる理由に立ち戻ってみましょう。私はこれは、1人の被害者に対する解像度の違い、情報量の違いによるのではないかと考えます。「転轍機」のケースでは、1人の人について「分岐線上にいる人」という抽象的な位置情報しか与えられていません。これに対して「跨線橋」のケースでは、「跨線橋上のあなたのすぐ横に立っている体格のいい人」という、その人のあなたからの距離や外見も含めた比較的具体的な情報が与えられています。

 このように、ある人についてより多くの情報を得ることで、私たちはその人に自然と「共感」できるようになります。このことは、情報媒体、特にインターネットが発達した現代、私たちがかつてないほど多くの人たちに共感できるようになったことからもわかると思います。そして、「1人の人を殺してはいけない」という情動反応が、その人について一定の情報が与えられ、その人に共感できたときに初めて生じるのだと考えれば、「転轍機」と「跨線橋」で情動反応の有無に違いがあることは容易に説明できるのです。

 これは逆に言えば、「転轍機」のケースで1人の人についてより多くの情報を与え、その人に共感するようにしてやれば、私たちはその人を犠牲にして5人を救うことをためらうようになるということです。『Vsauce』というYouTubeチャンネルを主宰するマイケル・スティーブンスが2017年に行った実験では、被験者に線路上の5人と1人が映った録画映像(彼らの様子)を見せることで実際にトローリー問題(「転轍機」のケース)が生じていると思い込ませ、被験者がどのような選択をするのかを観察しました(Stevens 2017)。この実験では、転轍機を動かした人は7人中2人に留まりました。また別の研究では、分岐線上の1人が近親者であるときには、その人を犠牲にすることをためらう傾向にあることが確かめられています(Bleske-Rechek et al. 2010)。

5. 直観の対立

 このように考えてみると、トローリー問題の本質は「直観の対立」にあると言えるでしょう。すなわち、「1人の人を害するのは悪い」という強い情動反応に根差した直観と、「5人の人を助けるのは善い」という(おそらくは比較的弱い情動反応に根差した)利他的直観との対立です。私たちはその情動の強さゆえに、どちらかというと前者の直観に突き動かされて行為する傾向にあります。それに対して、おそらくベンサムやシンガーは、後者の直観のみに合理性と倫理的正しさの特権を認めています。

 しかし実際のところ、どちらかだけが合理的で、どちらかだけが倫理的に正しいということはないのです。むしろどちらも合理的ではなく、そして、どちらも倫理的に正しいのです。どちらも合理的でないというのは、そもそも直観とは論理的に導出されるものではないからです。どちらも倫理的に正しいというのは、これらの善いとか悪いとかの直観がなければ、私たちはそもそも倫理を持たず、その意味でこれらの直観自体が私たちの倫理を規定しているからです。

 では最後に、私たちは5人の命を救うために1人の命を犠牲にすべきでしょうか。がっかりさせるでしょうが、純粋に倫理的な観点からはどちらとも言えない、というのが答えになります。なぜなら、倫理的に5人の命を救うのは善いことですが、1人の命を犠牲にするのは悪いことだからです。倫理的には5人の命を救うべきですし、1人の命を犠牲にすべきではないのです。ただ、私たちがどちらを優先させる傾向にあるかという事実について述べるなら、情動反応の強さゆえに、私たちはどちらかというと1人を殺さない選択をする傾向にある、ということは言えるでしょう。


※図は「かわいいフリー素材集 いらすとや」(https://www.irasutoya.com/)さんからお借りしました。

<参考文献>

  • Bentham, J. (1996). An introduction to the principles of morals and legislation (J. H. Burns, H. L. A. Hart, & F. Rosen, Eds.). Clarendon Press.(邦訳:ベンサム, J. (2022).『道徳および立法の諸原理序説 上・下』中山元訳、筑摩書房)
  • Bleske-Rechek, A., Nelson, L. A., Baker, J. P., Remiker, M. W., & Brandt, S. J. (2010). Evolution and the trolley problem: People save five over one unless the one is young, genetically related, or a romantic partner. Journal of Social, Evolutionary & Cultural Psychology: JSEC, 4(3), 115-127.
  • Foot, P. (1967). The problem of abortion and the doctrine of the double effect. Oxford Review, 5, 5-15.
  • Greene, J. D., Sommerville, R. B., Nystrom, L. E., Darley, J. M., & Cohen, J. D. (2001). An fMRI investigation of emotional engagement in moral judgment. Science, 293(5537), 2105-2108.
  • Singer, P. (2011). The Expanding Circle: Ethics, Evolution, and Moral Progress. Princeton University Press.(拙訳『道徳は進歩する----進化倫理学で広がる道徳の輪』が晶文社より2024-2025年に出版予定)
  • Stevens, M. (2017, December 7). Mind Field S2 - The Greater Good (Episode 1). Vsauce. https://www.youtube.com/watch?v=1sl5KJ69qiA

矢島 壮平(やじま そうへい)/中央大学国際情報学部准教授
専門分野 哲学・倫理学

神奈川県出身。1978年生まれ。2003年東京大学文学部卒業。2007年東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了。2016年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。東京大学大学院人文社会系研究科研究員、中央大学法学部兼任講師などを経て2019年より現職。

研究課題は、倫理・道徳とは何かを生物学的進化の観点から明らかにすること。

訳書にピーター・シンガー著『道徳は進歩する——進化倫理学で広がる道徳の輪』(晶文社、2024–2025年出版予定)など、論文に「功利の原理とヒュームの法則」(『倫理学紀要』第26輯、2019年)など。