量子センサと私
松崎 雄一郎(まつざき ゆういちろう)/中央大学理工学部准教授
専門分野 量子情報理論、量子計測
量子センサ
量子センサとは、電子のような微小な粒子を用いることで、狭い範囲の小さい磁場を、効率的に検出する技術分野のことを指す。筆者はオックスフォード大学で博士号を取得したが、そのころ行っていた量子センサの研究に関して書かせていただく。
2010年ころ、日本ではほとんど流行っていなかったが、アメリカとヨーロッパでは量子センサのブームが到来していた。ダイヤモンド中の電子スピンを用いた量子センサに関する実験で高精度な実験が可能になり、学術的に面白いだけでなく、実用化が比較的簡単との期待もあり、多くの研究者がこの分野に参入しはじめた。筆者はこのときオックスフォード大学に在籍していたが、当時の指導教官であるSimon BenjaminとJoe Fitzsimonsも、量子センサの時代の到来を感じ取っており、研究室の中で、量子センサ理論の研究を開始していた。特にSimonとJoeは、量子もつれと呼ばれる特殊な性質を用いて、量子センサの感度がさらに向上できないかを、理論的に検討していた。また私自身もその議論に参加して、量子センサの研究テーマを模索していた。
量子もつれを用いた量子センサ
ところが、量子もつれに関する量子センサに関しての文献調査を進めていくうちに意外な事実がわかってきた。実は1997年にSusanaらがすでに量子もつれに関する量子センサの理論の論文を出版しており、極めて悲観的な結果が書かれていた。それは、量子もつれを使った量子センサは、①ノイズの存在しない理想的な状況では感度が向上する、②しかしノイズが存在する状況では感度が向上しない、という主張であった。つまり、現実的な状況では、量子もつれを用いた感度向上は見込めない、と書かれている。もちろん、量子もつれを用いなくとも、量子センサは実用に耐えうる程度の感度を出せると考えられていたので、この論文の存在のため、量子センサの分野が潰えることはないであろう。しかし、この論文の存在のため、多くの研究者が、量子もつれによる感度向上の研究は実用性がないと考えるようになっていた。
NTTでのインターンシップによる研究の進展
ところが意外な転機が訪れる。筆者はオックスフォード留学中に、NTTの物性研でインターンシップをする機会を得た。NTTで量子デバイスの実験を行っているグループに1か月ほど滞在させていただいた。そこで学んだのは、多くの量子デバイスでは「ノンマルコフ型」と呼ばれるノイズの影響を受けるということである。詳細は割愛するが、「ノンマルコフ型」というのは、ノイズを引き起こす環境が、過去の記憶を保持するというものである。しかし、1997年にSusanaらが行った理論解析は「マルコフ型」とよばれる、異なるノイズを仮定していた。つまり、Susanaらは現実に存在するノイズとは違うモデルを採用していて計算していたのである。筆者は、オックスフォード大学に戻ったあと、「ノンマルコフ型」のノイズのモデルを採用して、量子もつれが量子センサの性能を向上させるかどうかを、理論的に検討した。すると驚くべきことに、ノンマルコフ型ノイズの影響では、量子もつれにより量子センサの性能が大幅に向上することを示したのである!これは画期的な成果になると確信して、SimonとJoeの助けを得て、原稿を書き上げて、2011年に、arxivと呼ばれるインターネットサイトにアップロードして世界に公開すると同時に、学術雑誌に投稿を行った。
同時期に公開された論文
ここでさらに、「歴史の妙」ともいうべき、意外なことが起きる。我々の原稿をインターネット上(arxiv)で公開した後、約2か月後に、ほぼ同内容の論文が同じサイトに公開される。それは、Alexらの論文([1]を書いたSusanaも共著者に含まれる)で、こちらの論文でもやはり、ノンマルコフ型のノイズの影響下では、量子もつれを使うことで量子センサの感度が向上することが理論的に示されていた。このエピソードでは二つ興味深い点がある。一つは、1997年から2011年(の私が論文を公開するまで)の間、誰も「ノンマルコフ型」のノイズの影響下での量子もつれを用いた量子センサを調べなかったこと。もうひとつは、2011年の2か月という、短い期間に二つの独立したグループが、同時にそのテーマに関する論文をインターネットに公開したことである。ある種、私は運が良かったと思う。もし私が少しでも怠けていて、論文の公開が2か月遅れていたら、このテーマの第一発見者ではなくなっていた。
幸い私の論文は2011年のうちに、Physical review Aという雑誌に出版されて[2]、Alexらの論文は2012年にPhysical review lettersに出版される[3]。これらの論文の影響は大きく、後続の論文が次々と発表されていった。また近年になって、実験実証も行われた[4]。
所感
最後に私の所感を述べさせていただきたい。この論文を書けたことは、二つのポイントがあった。一つ目は、私がオックスフォード大学に留学して、日本でほとんど流行っていなかった量子センサの研究ができる研究室に所属していたこと。二つ目は、オックスフォード大学だけにとどまっているのではなく、NTTのインターンシップに参加して、今までとは異なる場所で研究をすることで、実際の量子デバイスにおけるノイズの性質を知れたこと。これらからわかるのは、研究は、様々な場所で、いろいろな人と巡り合う中で、画期的なアイデアが生まれうるという点である。読者の中で研究者を志す方がいれば、多くの場所で、様々な人と交流を持つことを心掛けていただければと思う。
[1] S. F. Huelga, et al. "Improvement of frequency standards with quantum entanglement." Physical Review Letters 79.20 (1997): 3865.
[2] Y. Matsuzaki, et al. "Magnetic field sensing beyond the standard quantum limit under the effect of decoherence." Physical Review A 84.1 (2011): 012103.
[3] A. W. Chin, S. F. Huelga, et al., "Quantum metrology in non-Markovian environments." Physical review letters 109.23 (2012): 233601.
[4] X. Long, et al. "Entanglement-enhanced quantum metrology in colored noise by quantum Zeno effect." Physical Review Letters 129.7 (2022): 070502.
松崎 雄一郎(まつざき ゆういちろう)/中央大学理工学部准教授
専門分野 量子情報理論、量子計測専門分野は量子情報理論。
経歴は以下の通り
2023年4月 - 現在. 中央大学理工学部准教授
2019年1月 - 2023年3月 産業総合技術研究所主任研究員
2011年4月 - 2018年12月 NTT物性科学基礎研究所正社員
2017年4月 - 2018年3月 京都大学化学研究所客員準教授
2011年2月 - 2011年3月 アールト大学ポストドクター
2008年1月 - 2011年2月 オックスフォード大学マテリアル学部博士号取得
2005年4月 - 2008年1月 東京大学総合文化研究科広域科学専攻修士号取得
2001年4月 - 2005年3月 早稲田大学理工学部物理学科学士号取得