研究

政治献金と民主主義 一つの視点

橋本 基弘(はしもと もとひろ)/中央大学副学長、法学部教授
専門分野 公法学

1. 政治と金

 政治とカネの関係が政権を揺るがしている。これまで何度も見てきた光景がまた繰り広げられている。パーティー券収入を利用したウラ金作りは、政治資金規正法のあり方を根本から揺るがす事態であることは間違いない。ただ、ここでは、個別の事例に対する処方箋というより、政治資金を考える上でのひとつの視点を提供したいと思う。

 政治には金がかかる。影響力のある政治家となるためには、潤沢な資金がいる。資金集めに長けていなければ、有力な政治家にはなれない。だが、政治と金が結びつくと腐敗(汚職)が生まれる。見返りを期待しない政治献金は、御利益を期待しないお賽銭に等しい。政治家の職務権限と見返りが現実的で直接的になれば贈収賄となる。わいろと見なされないよう、政治献金は、媒介団体などを介して間接的、長中期的に提供される。「民主主義の健全な発展」(八幡製鉄事件最高裁判決の表現)を願って行われる政治献金もあるのだろうが、大半は見返りを期待している。これが現実である。

 政治献金を禁止することは難しい。支持者からの資金提供が閉ざされるとすると、有力な政治家になれるのは、よほど人望のある人間か、資産家に限られる。能力はあるが資金のない者は政治家になれなくなってしまう。また、資金提供ほどわかりやすい政治参加の手段はない。声を上げる必要はない。パーティー券を購入し(現実には、不承不承お付き合いでという人がほとんどであろうが)、またはネットバンキングで送金するだけで済む。政治献金を封じ込めることは、国民の政治参加を制限することにもつながる。「金は口ほどにものを言う(money talks)」。

 だから、政治資金の規制には、いつもためらいがつきまとっている。腐敗を防止することと、政治には金がかかるという現実、そして国民の政治参加という要素の間でバランスを取るとなれば、中途半端な規制にならざるを得ない。いたるところに抜け道がある。規制が過ぎると政治活動の自由が制約される。規制が足りなければ腐敗を生む。政治献金規制は、いつも妥協の産物となってしまう。

2. 敵対的民主主義

 では、アメリカのように、政治資金規制を緩めたらどうか。アメリカでは、2010年代に入り、立て続けに政治資金への規制が憲法違反と判断された。2010年のシティズン・ユナイテッド判決(Citizens United vs FEC,558 US 310(2010))と2014年のマッカチオン判決(McCutcheon vs FEC,134 US 1434 (2014))は、政治資金の提供を規制することは、言論を規制することと同じであると見る。そして、この種の表現規制は、表現者の視点を差別することにつながるため、厳格な審査(憲法違反であるとの前提から審査をすること)に付されることを明らかにした。

 たとえば、政治資金として拠出できる総額を規制する場合を考えよう。合衆国最高裁判所によると、これは言論の量を規制することと同視されることになる。資金集めに成功して、政治広告のスペースを買い占め、特定候補者や政党支持の広告を多量に流せるのは、「思想の自由市場論」の結果であり、政府規制は許されないことになる。言論の量を規制できないなら、政治資金の総額も規制してはならない。政治資金の使い道を規制することもまた、何を語り何を語らないのかの選択に介入する者として違憲となる。個人の政治献金に対する総額規制や使い道の制約が無効とされたのであった。合衆国最高裁判所の論理でいけば、わが国の政治資金規正法のかなりの部分は、違憲とされてしまいそうである。

 政治資金規制に対する厳しい姿勢の背景には、アメリカ特有の民主主義観があるように思う。選挙はゲームであって、あらゆる手を尽くして勝利を収めなければならない。Winner takes allであるなら、なおさらこの傾向は強い。1票でも多く獲得すれば勝利を収められる。このような民主主義を「敵対的民主主義(adversary democracy)」と呼ぶ。政府は、このゲームのプロセスにも結果にも手を入れてはいけない。表現の自由は、「少数者でいる権利」すなわち、権力に対する異議申し立ての権利ではなく、「多数者となる権利」すなわち、政治闘争を勝ち抜くための権利への傾斜を強めている。政治献金は政治的表現であるから、この自由に対する制約は厳格な審査に服する。この考え方が、2010年以降の合衆国最高裁判所において優位になったのである。

3. 政治献金と社会の多極化

 その結果、政治は、政策や主張を競い合うのではなく、資金獲得競争の場と姿を変えてしまった。社会は分断され、対立政党間の歩み寄りは困難となる。何事にも極端が好まれ、調和や調整、中庸が疎んじられるようになった。政治が「やるかやられるか」の格闘技となったのである。アメリカの混迷の原因の一つに敵対的民主主義があることは間違いではないであろう。高名な憲法学者であるロバート・ポスト(Robert Post)は、政治資金規制を違憲と断じたCitizensUnited判決を揶揄して、"Citisens Devided"(2014)という本を公にしているのは、その象徴といえる。社会の分断に司法が手を貸した結果になっている。

 一方で、市民が自分のポケットマネーから出資し、候補者を支え、政策の実現を後押しする自由は否定しきれない。また、有能ではあるが資金のない候補者を支えるための政治献金は、まさに民主主義の発展を支える浄財に他ならない。民主主義における政治献金の意味を過小評価してはいけない。個人献金の受け皿を作る「政治活動委員会(Political Action Committee)」は、エスタブリッシュされたものを嫌い、草の根の市民活動を好むアメリカならではのしくみといえる。

 もちろん、民主主義に対する市民のかかわり方(コミットメント)が違う以上、わが国の制度がアメリカにならう必要性も合理性もない。巨大団体が圧倒的な集金力で巨大政党に献金をする一方で、個人献金に対する関心は低い。世襲制議員に有利な選挙の構造にも問題がある。受け取る側に「浄財」意識が欠けているから、報告書に記載しないしないウラ金を作り出すことができる。政治家となる支配層とそこに政党制を与えるだけの被支配層が分断されている現状に風穴を開けない限り、政治資金だけを論じても意味はない。


参考文献

拙稿「政治資金規制と司法審査の役割-McCutheon判決を読む-」比較法雑誌49巻1号頁(2015年)、拙稿「会社の言論-社会的実在性について考える-」法学新報127巻11号77頁(2021年)、渡辺靖『アメリカンデモクラシーの逆説』岩波新書(2010年)、同『アメリカとは何か』岩波新書(2022年)など。

橋本 基弘(はしもと もとひろ)/中央大学副学長、法学部教授
専門分野 公法学

徳島県出身。1959年生まれ。1982年中央大学法学部法律学科卒業。
1989年同大学院法学研究科公法専攻博士後期課程単位取得。博士(法学)。
高知県立高知女子大学(現高知県立大学)助教授・教授を経て2004年4月より中央大学法学部教授。
2009年11月 中央大学法学部長に就任(2013年10月まで)
2009年11月 学校法人中央大学理事に就任(2013年10月まで)
2014年11月 中央大学副学長に就任(2017年11月まで)
2017年11月 学校法人中央大学常任理事に就任(2020年6月まで)
2021年5月 中央大学副学長(現在に至る)

現在の研究・活動分野は、憲法における個人と団体の位置付け、現代社会と情報の自由、条例制定権をめぐる諸問題など。

主な著作に、『近代憲法における団体と個人』(不磨書房・信山社)、『プチゼミ憲法1(人権)』(法学書院)、『よくわかる地方自治法』(共著、ミネルヴァ書房)、『憲法の基礎』(北樹出版)、『国家公務員法の解説』(共著、一橋出版)、『表現の自由 理論と解釈』(中央大学出版部)、『日本国憲法を学ぶ第3版』(中央経済社)などがある。