石と唾
民衆的ヒンドゥー教の一つの姿
井田 克征(いだ かつゆき)/中央大学総合政策学部准教授
専門分野 インド思想史
ヒンドゥー教の多様性
インド国民の80%が信仰するヒンドゥー教であるが、それがいかなる宗教なのかを説明することは、簡単ではない。ヒンドゥー教には、キリスト教やイスラームのように「標準的な」教義や実践といえるものが存在しないからである。
紀元前12世紀の『リグ・ヴェーダ』を皮切りに、長い期間にわたって人々はさまざまな神々を祀ってきた。そしてその信仰のすがたも、儀礼や祭礼の様式やその意義づけ、そして人の生命の行方や人生の意味を巡る様々な考察も、多種多様に展開されてきた。異なる思想的系譜は互いに批判を繰り返し、また影響を受けながら共存し、現代にまで伝えられてきた。たとえば多くのヒンドゥー思想家たちは、輪廻からの解脱を説くが、その手段として禁欲・苦行が有効なのか、学習や瞑想が重視されるのか、さまざまな流儀が認められる。膨大な聖典が成立した中で、時代や流派により諸説が入り乱れるが、それらのすべてがヒンドゥー教を構成している。
そうした多様性を内包しつつ、一般的にはサンスクリット語で残された膨大な聖典群に依拠してシヴァやヴィシュヌなどの神々を信奉するのがヒンドゥー教であるという見方は、おおむね妥当なものと思われる。
ローカルなヒンドゥー世界
バラモンたちの宗教的権威を認め、サンスクリット語の諸聖典にもとづいたこの「ヒンドゥー教」が、いまでは全インド的に展開するいわゆる大伝統(great tradition)であるとすれば[1]、よりローカルに、言語圏や地域ごとに展開する小伝統(little tradition)も存在する。ごく限られた地方のみ、もしくは特定のカーストの人たちのみに知られる信仰が、各地に数多く存在するのである。多くの場合、こうした信仰はローカルな言語で展開し、大伝統としてのヒンドゥー教に登場しない神格や精霊、その地方の聖者、氏族の英雄などを崇拝する。こうしたローカルな信仰もまた、広い意味での「ヒンドゥー教」を構成する重要な要素といえるだろう。
マハーヌバーヴ教団
マハーラーシュトラ州の北部において、マハーヌバーヴ教団が活動を開始したのは13世紀のことであったと伝えられている。グジャラート出身の出家者チャクラダル・スワーミーは、不思議な力によって人々を救い、また多くの教えを説いた。彼が地上を去ったのち、残された弟子たちは彼の教えを引き継いで、教団を結成することとなった[2]。マハーヌバーヴ教団は、最高神への帰依によって個人は救済されると考える。そして彼らの開祖チャクラダルは、地上に降臨した最高神の化身であると理解された。
この教団では、オーソドックスなヒンドゥー教の中で信奉される神々や、儀礼、規範などを認めない。この派の聖者伝においては、シヴァ神などは人を「惑わす」ものとして言及される。そしてバラモンやヴェーダ聖典が否定される。一方で、ヒンドゥー社会から排除される低カーストの人々や女性たちが、この派において重要な地位を得ることも多い。現代のマハーヌバーヴが、自分たちを平等主義的であると主張するゆえんである。
しかしながら、そうしたアンチ・ヒンドゥー的な態度ゆえに、この教団は当時のヒンドゥー社会の中で次第に勢力を弱め、消えていくこととなった。彼らが再び勢いを取り戻すのは、近代に入って以降のことである。
神が降り立つ場所
現代のマハーヌバーヴの人たちは、化身の像などとともにヴィシェーシュと呼ばれる石を祭壇に祀る。これはかつて化身が降り立った土地にあった石なのだと説明される。人々はヴィシェーシュを額に押し頂いたり、手で触れるなどしながら、化身の名を唱える。そうすることで、神の化身の恩寵を得ようとするのである。
さらにマハーヌバーヴの人々は、化身たちの遺物(prasad)を崇拝する。チャクラダルや他の化身が触れたと伝えられる布や木片などが、大切に保管されている。これらの遺物に触れることで、神の力が下りてくるのだと一部の信徒たちは説明する。
寺院や聖地を訪れると、方形や六角形などの石のプラットフォームが祀られているのを見つけるだろう。これはスターンと呼ばれるものであるが、かつて化身たちがその場所で、奇跡をおこなったり教えを説いたりした、特別な場所を明示している。
現代のマハーヌバーヴの人々は、このようにさまざまなやり方で、かつて地上に降臨した化身たちの痕跡を求め、それを崇拝する。信徒たちはそれによって「神の振動(sphurat)が伝わる」「神の力(śakti)が身体に入る」などと説明する。このように神との物理的なつながりを求める態度は、ヒンドゥー教の中ではいささか珍しいもののように思われる。
マハーヌヴァーブ教団の聖典から
マハーヌバーヴのこうした態度は、現代特有の現象というわけではないようだ。14世紀に成立した聖典『スムリティ・スタル』の中に、開祖チャクラダルが地上を去った後、残された弟子たちが神の化身たる師の地上における痕跡を探し求め、それを聖遺物とする様子が描かれている。
そして[僧院長]バットーバースは、すべての弟子たちを伴って、ドーンベーグラーム(村)に来た。寺院の中庭の門の敷居に、肢体を投地した。彼はまっすぐ東向きの僧院にやって来た。そこでバットーバースは、かつてゴーサーヴィー(=チャクラダル)がキンマの葉を噛んで唾を吐いた場所を、壊れた壁の石の上に見出した。そこで強い悲しみが生じた。そこに彼は口をつけた。彼は遺物(=チャクラダルが唾を吐いた石)を押し頂いた。その時バーイデーヴォバースが来た。彼がいつからバットーバースに付き従っていたのかは、知られていない。バットーバースは、この唾について、[彼に]知らせた。「これを受け取りなさい。バーイデーヴァーよ。チャクラダル師の遺物の唾です。(後略)(スムリティスタル6章)
[寺院の敷居木の]中央の[チャクラダルの]聖なる足がその上に置かれたところから、大きな器が作られた。両端の二つから、小さな二つの器が作られた。残ったところから数珠を作って、すべての者たちに、礼拝させるために与えた。そして大きな器を彼自身で用いた。彼は[チャクラダルの]遺物の衣を、アンクレット、ネックレス、杖、実に二枚の毛織物の遺物を、シュリープラブ・ゴーサーヴィーの遺物の衣、樟脳の箱をその[器]の中にすべて入れた。彼はそれを終生崇拝した。(スムリティスタル9章)[3]
神とのつながりを求めて
上記のエピソードを見ると、マハーヌバーヴが神の化身との結びつき、触れ合いを求めるのは、かつての師チャクラダルに対する思慕の念から来ていたようにも思われる。しかし一方で、その後体系化される教理の中では、そうした化身と個人の関係性は、救済の手段として位置づけられることになる。
14世紀成立の教理書『スートラ・パート』は、最高神の化身に実際に付き従って、奉仕することは救済の確実な手段であること保証する。ゆえにチャクラダルの直弟子たちは、かならず救われるということになるだろう。しかしチャクラダルが地上を去った後、教団に加わった新しい信徒たちは、もはや化身に直接的に奉仕する術を持たないことになる。そこで教理書は、ヴィシェーシュや遺物に触れ、化身の名を唱え、化身の姿やエピソードを想起せよと説く。そうすることで現前しない神との「つながり」を確かなものとすることが、唯一の救済の手段だというのである[4]。
かくして現在でもマハーヌバーヴの人たちは、聖地を訪れて神の痕跡をたどり、在りし日の神の姿を想起しつつ救いを願うのであった。
[1] Milton Singer, When a Great Tradition Modernizes: An Antholopological Approach to Indian Civilization, The Universitiy of Chicago Press, 1972, pp.55-59.
[2] Rigopoulos, A., The Mahānubhāvs, Firenze University Press, 2005.
[3] V. N. Deshpande(ed.), Smṛtisthaḷ, Venus Prakashan, 2007(7th).
[4] M. D. K. Lāsūrkar śāstrī(ed.), Sūtrapāţh rahasyārth prabodh, Nāsik, 1993.
井田 克征(いだ かつゆき)/中央大学総合政策学部准教授
専門分野 インド思想史高崎出身。1973年生まれ。1996年3月金沢大学文学部卒業。2005年3月金沢大学大学院社会環境科学研究科修了。博士(文学)。大学共同利用機関法人人間文化研究機構総合人間文化研究推進センター研究員(南アジア地域研究・龍谷大学拠点)を経て、2020年4月より現職。
専門はインド思想史、特に中世以降のヒンドゥー教の展開を追っている。近年の興味は、13世紀以降の民衆的な帰依思想(バクティズム)の発展や、南アジアの近代化における宗教文化の取り扱い、そして近現代のインド・マハーラーシュトラ州における聖者崇拝や聖地巡礼など。
著書としては『世界を動かす聖者たち―グローバル時代のカリスマ』(平凡社新書,2014年)、『ヒンドゥータントリズムにおける儀礼と解釈―シュリーヴィディヤー派の日常供養』(昭和堂,2012年)がある。