個人少額貯蓄が地域経済に持つ影響
田中 光(たなか ひかる)/中央大学経済学部准教授
専門分野 経済史
昨今の日本の個人向け金融政策では、預貯金を形成することより、2014年に開始されたNISA制度に代表されるように、個人による投資行動が称揚されている。もっとも預貯金による貯蓄にしても株式による投資にしても、ビル・ゲイツやイーロン・マスクのような億万長者ではない日本の一般市民が行う以上は、それは金融市場や企業支配に影響を及ぼすような大口のものになることはない。だが、それでも今の日本政府は個人投資の活発化を期待している。また、かつて明治時代から戦後昭和の時代にかけての日本政府は、預貯金による個人貯蓄の増大を常に期待していた。ミクロに見た時には少額でしかないこうした個人貯蓄が、政策的に支援されてきたことにはどのような経済的背景があるのだろうか。
結論を先取りして言えば、日本における個人少額貯蓄の経済的影響を理解することは、日本の近代化、ひいてはその高度経済成長の背景を理解することになる。なお、マクロ経済学で言う個人貯蓄の概念には、銀行など金融機関に預け入れられた預貯金も、株式など個人投資にあたる有価証券の保有も、どちらも含まれていることに留意されたい。
日本の近代化とその特徴:国内投資の源泉としての個人少額貯蓄
日本の近代化と経済成長は、鎖国政策を伴った江戸時代が終わってから、概ね19世紀末にスタートした。近代化、すなわち産業革命の成功は、当時の非欧米圏でほぼ初の快挙であり、戦後の高度経済成長に続く日本のものづくりの基盤が20世紀初頭に築かれていった。その成功の特徴の中に、第二次世界大戦後のアジア諸国の工業化の成功と大きく異なる点として、外資導入に基づかない工業化であったという点がある。つまり、当時の日本はほぼ国内資本によって、国内の多額の産業投資に必要な資金を賄ったのである。
もっとも、当時の日本政府には経済政策に回せる資金の余裕などろくになかった。その時さまざまな産業の主体として芽生えようとしていた諸企業は、むしろ資金を必要とする側であった。それではどこからその資金が出てきたのかといえば、そこに、20世紀初頭以降の日本経済における、およそ常に対GDP比10%前後を維持した、高い個人貯蓄率があった。この個人貯蓄の大半は預貯金であって、株式など有価証券による大口の、つまり富裕層が個人投資によって形成したものではなかった。それは一般人による――つまり大衆による少額貯蓄の集積体であった。
預貯金という形式を通じて積み上がった資金は、預託先の金融機関の投資行動を通じて、日本経済の発展に資していった。こうした個人少額貯蓄による資金集積のメカニズムは、近代日本において一部の大都市だけでなく、地方都市や農村に至るまでの地域経済の振興にも繫がった。少額貯蓄による投資資金は大都市部や大企業に吸い上げられるのではなく、中小企業を多く含む地域経済の中で発展的に循環したのである。
大衆資金の集積と地域社会
なぜ近代日本の貯蓄の向上は、地域経済の発展に繫がったのだろうか。それを理解するには、日本の個人少額貯蓄の集積過程に着目する必要がある。
日本における庶民による個人少額貯蓄の集積は、郵便貯金の普及から始まった。郵便貯金は「細民のための貯蓄機関」として1874年に設立され、切手貯金や規約貯金などの小学校教育や地域共同体の中での貯蓄教育に伴って20世紀に入ってから全国民的に普及した。婦人会や学校のクラスなど、生活の中に貯蓄の概念が持ち込まれるようになったのである。
それに伴い日本人の貯蓄性向は高まり、先述のように対GDP比約10%の家計貯蓄率がほぼ恒常的なものとして確立した。そしてその多くは郵便貯金や、あるいは現在の農協(JA)や信用組合・信用金庫といった、非営利目的の金融機関の中に預け入れられた。なぜなら、近代日本において銀行は一般庶民には敷居が高く、現在と異なり預金口座を作ることすら一定度の財産や地位がなければ難しかったからである。
1900年に法制化された産業組合制度は、現在の農協や信金の前身が全国各地に作られる制度的基盤を築いた。「産業組合」とは協同組合制度のことであり、協同組合とは有志者が出資することによって事業資金を確保する非営利事業団体である。株式会社制度と同じく多くの有志から資金を募る事業体であるが、非営利組織であり、組織としての利益追及よりも組合員全体の共益を追及する団体であることが、協同組合の特徴である。
近代日本ではこうした非営利の協同組合の中でも、マイクロクレジットを組合員に供与する金融機関である信用組合が、制度設立から戦間期までの二十年足らずの間に全国的に普及した。それは農業以外に特に産業のないような小さな村レベルで、時には小学校の同窓会や青年会を中心とした村の若者の運動として設立され、人々が養蚕や地元の特産品を作るための一時資金を得る金融機関として、そしてそれで得た稼ぎを蓄える預金先として、地域コミュニティの中で大きくなっていった。地域の中で人々の個人貯蓄は他の誰かのための貸付金として投資となり、それにより地域産業は成長し、それで得た資金が再び貯蓄となって地域の中に投資資金を形成するという、資金循環が築かれた。
一方で郵便貯金に蓄積された資金の管理は大蔵省が担ったが、その運用にあたっては庶民のなけなしの貯蓄を使い込まないための堅実性と、1909年以降は地域経済への還元が同時に意識された。地方の庶民から集めた資金を中央が吸い上げるのではなく、地方に還元することが、当時の日本政府によって重要であると認識されていたのである。
郵便貯金を主要な原資とする大蔵省預金部資金は、1923年の関東大震災や1927年の金融恐慌中の農村部の大規模霜害といった災害に対する復興資金、そして1930年代の世界恐慌を受けての高橋財政の中での失業対策資金や農漁村の経済支援のための資金として利用された。大都市においては中央卸売市場の整備のためにも供給されるなど、災害時の救済資金としてだけでなく、各地域の公共財を整えるための資金としても、郵便貯金に蓄積された資金が用いられた。
近代日本では地方経済の発展に伴い、農村部から都市部への人口流出は確かにあったものの、あくまで農村部の人口は維持された。その中では農業生産額も上昇し、それは食料自給の面だけでなく、国内工業にも原料供給という形で直接に貢献した。これは、近年の新興国でしばしば工業化に伴って首都などの大都市一極集中が進む状態とは異なっており、近代日本では異なる性質の近代化・工業化が進んだことがわかる。それは、こうした地方経済を支える金融網と公共財の整備によって成し遂げられたものだった。
「もう一つの金融システム」としての大衆資金
現代日本で一般に、金融システムと言った時、人々の念頭に浮かぶのはいわゆるメガバンクや株式市場のことだろう。日本経済史においても、いわゆる「重層的金融構造」と呼ばれる日本銀行を頂点として財閥系などの大銀行がその下につき、更にその傘下に現在の地銀に通じる普通銀行や商社などが含まれるピラミッド型の銀行ネットワークと株式市場といった民間金融市場こそが、近代日本の一般的な金融システムであると認識されてきた。
しかし近代日本にはこうした大銀行・大企業による資金調達ネットワークとは別に、もう一つの金融システムと呼ぶべき金融構造が存在したのである。それがこの大衆資金のネットワークであり、郵便貯金と産業組合への人々の少額貯蓄からなるこの資金は、大資本とは関係のない、地域社会と密着した形で成長したものだった。
個人少額貯蓄という形で、一般の金融市場とは異なるネットワーク内に多額の資金が日本経済の中に蓄積されたことは、近代日本に地域経済のための公共財を整備することや、人々の日々の暮らしを支援する金融的なセーフティネットが構築されることに繫がった。ミクロ的には日々の備えのためにと個人の生活の中で蓄えられた少額貯蓄が、マクロ的には巨額の資本となって、一国経済の安定を支えたのである。
近年の日本政府の「個人貯蓄から個人投資へ」という働きかけは、このような社会のセーフティネットとしての「もう一つの金融システム」を解体し、改めて日本国内の貯蓄をすべて民間金融市場の中に投入しようとしているものだと言える。民間金融市場とはその性質を異にする補完的な金融システムとして機能してきた大衆資金の行方とその機能を、我々は今こそ注視する必要がある。
【参考文献】
田中光『もう一つの金融システム-近代日本とマイクロクレジット』名古屋大学出版会、2018年12月
田中光「実はさほど古くない、日本の「貯蓄の伝統」の正体-『習慣』は教育と制度によって構築された」東洋経済オンライン、2023年11月9日https://toyokeizai.net/articles/-/630133
田中 光(たなか ひかる)/中央大学経済学部准教授
専門分野 経済史2013年東京大学大学院経済学研究科博士課程修了(経済学博士)、2013~14年同大学院経済学研究科特任助教、2014~2019年神戸大学大学院経済学研究科専任講師(日本経済論)、2019年~現在中央大学経済学部准教授(経済史部門)