「流域治水」
―新しい治水政策を通して将来の国土作り、地域作りを考える―
手計 太一(てばかり たいち)/中央大学理工学部教授
専門分野 土木工学、水文学、水資源学
1. 新しい治水政策「流域治水」
治水とは、一般には、洪水管理という言葉に代表されるように、氾濫の防止や水害の緩和といったことを想像する人々が多いだろう。しかし、治水を広辞苑で調べると、水害を防いだり、運輸・灌漑の便をはかったりするために、水流や水路の整備・改良・保全を行うこと。「治水事業」と書かれており、利水の側面も含まれていることがわかる。
かつては内務省から建設省、そして現在は国土交通省が水を治める重要な役割を果たしており、主に河川法に則って国民の安全・安心に応えている。河川法は、明治29年4月に制定されたいわゆる旧河川法に始まり、昭和39年7月改正(昭和の河川法)、そして平成9年6月改正(平成の河川法)と時代時代の要請に応えて改正されてきた。明治の河川法は利水より治水に重点が置かれていた。戦後の社会経済の発展に伴い、水力発電、工業用水等の河川水の利用が急速に増大し、これに対応して昭和の河川法へと改正された。さらに、平成の河川法では、環境面も治水、利水と同様の重要性があるという位置づけがされた。
1992年のリオデジャネイロサミットにおいて、気候変動枠組み条約が制定され、その頃から気候危機はささやかれており、2001年7月の雑誌Newton創刊20周年号の表題は「地球大洪水時代」であり、温暖化が洪水の危険性を高める可能性があるという特集が組まれていた。さらに、2010年4月のNATIONAL GEOGRAPHICの特集は「地球の水が危ない」であった。
我が国では平成20年頃から毎年のように、全国各地で激甚水害が多発している。例えば、平成23年紀伊半島水害では初めて大雨特別警報が発令され、同年には新潟・福島豪雨があった。平成27年の関東・東北豪雨では鬼怒川が決壊し、極めて多数の市民が取り残され、まるで映画やドラマのワンシーンのようなニュース映像が流れた。平成28年には北海道で1週間に3個の台風が上陸し、農業生産への影響が日本全国へ広まった。そして、平成30年の西日本豪雨、令和元年の台風19号災害と続いた。このような激甚水害の全てが気候変動に因るものなのかの正確な評価は研究段階であるのが実情であるものの、少なからず影響を受けているという見解は多くの研究者が同意するところであろう。
このような現状を鑑みて、公益社団法人土木学会は、2020年1月23日に「台風19号災害を踏まえた今後の防災・減災に関する提言~河川、水防、地域・都市が一体となった流域治水への転換~」という提言を公表した。ここで「流域」とは、分水界で囲まれた集水域に加え、その川の氾濫が及ぶ氾濫域、その川の水を利用している利水域、その川の水を利用した後の排水が流れる排水域、およびその川を中心とした生態系の広がりも含めた広義のものを指している。そして、流域治水とは、河川、水防、地域・都市が連携し、河川整備、氾濫を抑える対策、氾濫に備える地先・広域の水防、利便性・快適性と安全・安心のためのまちづくりや住まい方のすべてを見据えた治水政策を意味する。概していえば、これまでの河川をいう「線」やダムなどの「点」で実施されてきた治水政策ではなく、ソフト対策である水防、そして地域政策・計画、都市政策・計画といった「面」での対策の強化と、そのために流域を構成するあらゆる人や組織が協働しなければ大規模洪水氾濫には適応できないと発議したものである。これに呼応したかのように、令和2年7月、国土交通省社会資本整備審議会は「気候変動を踏まえた水災害のあり方について~あらゆる関係者が流域全体で行う持続可能な「流域治水」への転換~」という答申を出した。
もちろんこれまで政府や国土交通省(旧建設省)は手をこまねいていたわけではなく、昭和52年6月の河川審議会答申「総合的な治水対策の推進方策について」や平成12年12月の河川審議会計画部会の中間答申「流域の対応を含む効果的な治水のあり方」などを通して、ダムや築堤などの河川改修に加え、輪中堤、宅地かさ上げ、土地利用方策、河川と下水道との連携強化、貯留施設等による流出抑制対策、ハザードマップの作成・公表等が実施されてきていた。また、流域治水の先進事例は、平成26年、滋賀県による「滋賀県流域治水の推進に関する条例」である。河川整備による「ながす」対策を基礎として、森林や農地の浸透の保持、公園や建物等における雨水貯留浸透機能の維持「ためる」、氾濫原における建築制限を行い被害を最小限に「とどめる」、避難行動方法や地域防災力を「たかめる」、そして公表義務のない普通河川等も対象にした浸水想定区域図「地先の安全度マップ」など国よりも先行してきている。
そして、国土交通省は「特定都市河川浸水被害対策法等の一部を改正」(通称、流域治水関連法)として9つの法律を改正し、より実効性のある施策へと発展している。
国の考える流域治水の基本的な考え方は大きく分けて次の3つである。①氾濫をできるだけ防ぐ・減らすための対策、②被害対象を減少させるための対策、③被害の軽減、早期復旧・復興のための対策。まず①の対策メニューは、主にこれまでの河川整備に加えて、雨水貯留浸透施設の整備、ため池等の治水利用、利水ダムの治水運用、土地利用と一体となった遊水機能の向上が挙げられる。次に、②の対策メニューは、土地利用規制・誘導、移転の促進、不動産取引時の水害リスク情報提供、金融による誘導の検討など、これまでの治水対策から大きく踏み込んだ内容である。最後に、③の主な対策メニューは、水害リスク情報の空白地帯の解消、多段型水害リスク情報の提供、水害予測の抜本的な向上、BCP策定の促進、不動産取引時の水害リスク情報の提供、金融商品を通じた浸水対策の促進などである。
国はあらゆる関係者により流域全体で行う「流域治水」への転換を強く訴えており、上述の対策メニューの多くは、住民や企業といったこれまでメインプレイヤーではなかった者が主役に躍り出るものとなっていることが重要な点である。
2. 流域治水のメニュー作り
流域治水の具体的なハード的な対策メニューの多くは、これまでの治水対策を整理したものにすぎず、一方ソフト対策のいくつかは実現性は異にしても秀逸なアイディアがある。
私たちの研究グループでは、これまでにないハード的な対策メニューの創出を目指している。その中の一つが、農事暦を考慮し、農業用排水路ネットワークにおける背水現象を利用した積極的な洪水導水方法の提案である。農業用排水路は、水路の容量が大きい、河川と接続している、周辺地盤より低いといった大きな利点があり、さらに、利水者の関心が低いという管理面の利点もある一方、地域住民の認識が低いという安全面の欠点もある。また、農事暦を考慮することによって、浸水を許容していただける時期を特定することで、営農への影響を小さくし、営農者の協力が得られやすい状況を作りだせると考えている。将来的には、早生、中生、晩生といった栽培期間の集約化によって、選択的洪水導水の積極性が増加することについても検討する予定である。
現在、岐阜県と富山県を流下する神通川流域の左岸に位置する井田川水系土地改良区のご協力を得て、観測体制を整備し、導水実験の準備をしている。4つの圃場を対象に、4か所の水文気象計、田んぼ内に22か所の水位計を設置し、降雨時の田んぼ内の水の挙動、水路の状況をモニタリングしている。しかし、すでに多くの課題を抱えている。例えば、圃場周辺の家屋への浸水を防ぐための微地形の測量データの不足、河川データの不足など、今後の流域治水メニュー創出には欠かせない基本的な基盤データが不足しており、これは日本全国的な問題である。また、太古の時代からある田んぼであるが、実は圃場内の水の動態は正確にはわかっていないという科学的な面白さがある。現在、田んぼの治水効果を定量的に評価できる水文モデルを構築する段階にある。
流域治水ポテンシャルの高い農地利用に関して、未だにワンチャン「田んぼダム(水田貯留)」しか対策メニューがないのが実情であり、これを改善していきたいと考えている。私たちの新しい取り組みは、対策の難しい宅地と圃場の混在化が進んだ地域に適用可能であり、大規模な費用や工事が発生せず、農業従事者の理解が得られやすく、さらに、農閑期(非灌漑期)における流域治水にも取り入れることができる技術開発である。
今後、本提案技術が確立した場合、不利益は営農者に分配するのであれば、安全を享受できる川下側の市街地住民や企業は何をしてくれるのだろうか?お金で解決するにしても、どのような仕組みがあるのだろうか?実は要素技術を確立した後に、地域社会全体で合意形成するための高いハードルが残ってしまう。そのハードルを早めに低くしておくためにも、まさに今から地域ごとに流域治水について議論を進めておかなければならないだろう。
井田川水系土地改良区へのインタビュー調査の様子
3. 流域治水の課題と将来像
流域治水はまるでなんでも解決できそうな施策に聞こえるが、私の認識では、成功への道は茨であると思っている。私は大きく分けて7個の大きな課題があると認識している。
- 国土の約10%の洪水氾濫危険区域の中に、人口の約50%、資産の約75%が集中している中で、線(河道)から面(流域)へという施策を具体化するには、国土のあり方や地域社会のあり方から議論しなければならず、コンセンサスを得るには時間がかかる。そもそも、流域治水という考え方が一般に浸透していないという根本的な課題が残っている。
- 現在の河川計画規模を現在の河道で安全に流下させることができるのかの検証が必要である。この検証の後に、ようやく流域治水で許容する洪水の規模が決まり、合意形成がされていくはずである。
- 流域治水における要素技術の科学的・工学的評価がまだ大幅に不足しており、「期待」が先行しているのが実情である。
- 流域治水の中に、まだ土砂の問題が含まれていない。土砂管理は治山から治水、そして海岸にまで及ぶ重要な流域問題である。
- 流域治水は、浸水の許容や移転といった被害を配分することであり、まさに不利益の分配問題である。何の被害を最小化するのか?そして、誰が、どこが被害を受けるのかといった新しい問題である。
- 流域治水のリーダー(人、機関・組織)が不在である。
- 国はあらゆる関係者を謳っているが、ほとんど入っていないのが実情である。
最後に、決して流域治水は正義であるというような話ではない。納税者、有権者が、これまでの治水政策の継続を希望するようであれば、そうせざるを得ないかもしれない。しかし、上記のように大きな課題をたくさん列挙したが、少子高齢化時代の税負担や配分を考えれば、これまでのような治水計画では地域社会を守ることは困難であり、流域治水の考え方を一般に普及させないといけないと考えている。流域治水は、単なる治水政策ではなく、地域や都市、そして国全体の社会経済を考える重要なピースであることをぜひ強く認識していただけたら幸いである。
また機会があれば、流域治水の合意形成について情報提供したい。
手計 太一(てばかり たいち)/中央大学理工学部教授
専門分野 土木工学、水文学、水資源学東京都出身。2006年中央大学大学院理工学研究科土木工学専攻博士後期課程修了。博士(工学)。2002年独立行政法人土木研究所研究員、2006年福岡大学工学部社会デザイン工学科助手・助教、2009年富山県立大学工学部講師・准教授、2021年~現職。
専門は、土木工学、水文学、水資源学。水災害と社会の問題について研究している。特に、東南アジア、タイ国における水問題研究をライフワークにしている。