研究

教科書から紐解く「習近平思想」

及川 淳子(おいかわ じゅんこ)/中央大学文学部准教授
専門分野 現代中国社会、政治社会思想

1. 「習近平思想」とは何か

 中国共産党第20回大会が開催され、日本のメデイアでも関連のニュースが注目を集めた。5年に一度の党大会では、人事をはじめ重要方針や党規約の改訂などが発表される。習近平総書記がこれまでの慣例を破って三期目の政権を発足させたことで、国際社会では今後の中国に対する展望として、強権的な統治が継続し、思想や言論に対する統制がさらに強化されるのではないかという懸念が強まっている。

 そうした中で、筆者が注目しているのが「習近平思想」である。正式には「習近平の新時代における中国の特色ある社会主義思想」という。政治指導者個人の名前を付した重要思想は「毛沢東思想」に次ぐもので、今回の党大会ではその権威性をさらに高めるために「習近平思想」と短縮された形で党規約に明記されるか否かが注視された。結果的に、改正された党規約に「習近平思想」という文言が書き込まれたわけではないが、「習近平の新時代における中国の特色ある社会主義思想」はすでに憲法前文にも明記されており、党と国家の重要思想として「21世紀のマルクス主義」と位置づけられている。ここでは、便宜上「習近平思想」と記して議論を進めたい。

 果たして、「習近平思想」とは何だろうか。筆者の理解によれば、「新時代思想」、「強国思想」と換言できる。中国共産党は、中華人民共和国の建国100周年にあたる2049年までに「社会主義現代化強国」を建設するという政治目標を掲げている。具体的には、「富強、民主、文明、和諧(調和の取れた)、美麗(素晴らしい)社会主義現代化強国」と定義され、「強国」は重要なキーワードだ。〔注:( )内は著者による日本語訳〕。「中国式現代化」を進める中で、政治強国、経済強国、軍事強国、文化強国、科学技術強国、宇宙強国、生態文明強国など、様々な分野において「強国」を目指す政策が提起されている。「習近平思想」の本質は、「強国思想」と言えるだろう。

2. 教科書から見る思想教育

 中国共産党創立100周年の節目となった2021年は、学校教育や家庭教育に対する新たな政策が相次いで施行された。象徴的だったのは、9月からの新学期にあわせて「習近平新時代中国特色社会主義思想 学生読本」と題した教科書が発行され、小学校から高校まで週1コマの授業が必修科目となったことだ。

 筆者は、小学校低学年、高学年、中学校、高校の4冊の教科書を中国から取り寄せて、教科書の記述から思想教育の実態について分析を続けている。文学部中国言語文化専攻で担当している3、4年生の授業では、ゼミに相当する「中国近現代思想演習」の授業で小学校低学年版の教科書を学生たちとともに翻訳し、議論を重ねるという新たな試みも行った。カラー刷りのイラストや写真が多用されている教科書にはアクティブ・ラーニングの要素も取り入れられており、中国の小学生がどのように「習近平思想」を学ぶのか、思想教育の一端を伺い知ることができる。

 教科書の具体的な記述を見てみよう。例えば、習近平総書記が2018年の全国思想宣伝工作会議で述べた「青少年の価値観の形成と確立のカギとなる時期をしっかりとつかみ、青少年が人生の最初のボタンをきちんとかけるように導く必要がある」という一文がある。小学校低学年用の教科書では、まさに「人生の第一ボタンをきちんとかける」と題した項目があり、「もし第一ボタンをかけ違えたら、服が歪んでしまってかっこ悪いよね」とコメントのついたイラストと小学生にも分かりやすい解説がなされている。

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写真1.「習近平新時代中国特色社会主義思想 学生読本 小学低年級」
人民出版社・人民教育出版社、2021年(表紙の写真)

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写真2.「習近平新時代中国特色社会主義思想 学生読本 小学低年級」
人民出版社・人民教育出版社、2021年(P.47)

 「習近平思想 学生読本」の発行を前に、中国政府の行政部門である教育部の国家教材委員会は教科書の「ガイドライン」を発表した。青少年に対する思想教育の重要性について、「党の話しを聞き、党とともに歩むという志を建て、正しい世界観、人生観、価値観を形成することに重大な意義がある」と記述されている点も指摘しておきたい。

3. 異なる「価値観」を理解するために

 習近平政権が思想教育において強調している「正しい世界観、人生観、価値観」とは、どのようなものだろうか。果たして何をもって「正しい」とするのだろうか。中国社会の実態を読み解くためには、一面的な評価ではなく、異なる「価値観」について理解を深める必要があるだろう。

 ここで確認しておくべきは、中国共産党が掲げる「社会主義の核心的価値観」である。習近平政権が発足した2012年の第18回党大会で提起され、12のキーワードによって以下のように定義された。〔注:( )内は筆者による日本語訳〕。

国家の建設目標としての「富強、民主、文明、和諧(調和)」
社会の構築理念としての「自由、平等、公正、法治」
国民の道徳規範としての「愛国、敬業(勤勉)、誠信(信義誠実)、友善(友好)」

 中国では政治スローガンを街頭で目にする機会が多い。「社会主義の核心的価値観」は、幹線道路、駅や空港、繁華街、大学のキャンパス、住宅地の掲示版など、至る所で見ることができる。

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写真3.北京の街中にある「社会主義の核心的価値観」のスローガン(2019年 筆者撮影)

 個々のキーワードを見れば、「民主」「自由」「平等」「法治」などが目を引き、国際社会における「普遍的価値」のようにも見える。だが、これらは中国共産党が規定した「価値観」であり、日本語と同じ漢字で「民主」と表記されていても意味するところは異なる。「社会主義の核心的価値観」は、その前提条件に注目する必要がある。つまり、「国家の建設目標」、「社会の構築理念」、「国民の道徳規範」として定義されている前書きの部分だ。「国家」、「社会」、「国民」には序列があり、それらよりもさらに上位にある「中国共産党の指導」が最重要とされている。

 中国共産党政権が思想教育を徹底し、言論統制を強化する背景には、現体制による統治の正統性を証明し、一党支配体制を持続可能にするというねらいがある。だが、実際のところ中国の社会は複雑化しており、人々の価値観も多様化している。「習近平思想」の教育は徹底されつつあるが、熱心に学んで忠誠心を高める学生もいれば、受験のための暗記科目と割り切る学生もいるかもしれない。中国では「上に政策あれば下に対策あり」と言われるように、権力に対しても面従腹誹で、したたかに、たくましく生きる人々もいる。実際のところ、党による一元的な統制と社会の多元化は拮抗し、社会が複雑化しているからこそ思想や言論の統制が強化されているといえるだろう。

4. 「中国」とどう向き合うか

 今年は1972年の日中国交正常化から50年という節目の年にあたる。日本から中国をどのように見るべきか、中国とどのように向き合うべきかという問いは、日本にとって極めて重要な課題だ。

 筆者は現代中国の社会について研究を続ける中で、近頃は「中国」という呼称について自省的に思考するようになった。分かりやすい例でいえば、授業で学生たちを前にして語る際に、「中国は~」、「中国では~」という「大きな主語」に対して自覚的になり、出来るだけ丁寧に解説したいと考えている。例えば、「中国では、就職に有利だという理由で中国共産党員になりたい大学生もいる」と紹介する時、それは中国のどこで、いつ頃、そのように言われた事象なのか、筆者自身が耳にしたエピソードならば、それはどのようなバックグラウンドをもつ人から、どのように聞いた話なのか、個別具体的な情報が必要だ。「中国では~」と大きな主語で語ることによって、ともすれば中国社会の実相を見誤るのではないかと危惧している。

 中国研究者は、自戒を込めて「群盲象を評す」と例えることが多い。辞書には「大勢の盲人が象の体をなでて、それぞれが自分の触れた部分の印象だけから象について述べたというたとえによる」と記されている。〔注:『大辞林(第三版)』三省堂〕。例えば目を閉じて象の耳に触れた場合と鼻や脚を触った感触では、思い描く「象」のイメージはまったく異なるだろう。中国語にも「盲人摸象」ということわざがある。物事の一部しか見ずに全体を推量することへの批判は、日本と中国に共通するようだ。

 「中国」とどう向き合うかという大きな問いは、まず、「中国」という大きな主語を丁寧に読み解いていくために、実証研究を続ける努力と忍耐強さが求められていると考える。

及川 淳子(おいかわ じゅんこ)/中央大学文学部准教授
専門分野 現代中国社会、政治社会思想

東京都出身。2010年日本大学大学院総合社会情報研究科博士後期課程修了、博士(総合社会文化)。外務省在外公館専門調査員(在中国日本大使館)、桜美林大学グローバル・コミュニケーション学群専任講師、NHKラジオ講座「おもてなしの中国語」講師などを経て、2018年より現職。

専門は、現代中国社会、政治社会思想。「言論空間」を中心に現代中国を読み解く研究を続けている。

主要著書に、『現代中国の言論空間と政治文化―「李鋭ネットワーク」の形成と変容』(御茶の水書房、2012年)、『六四と一九八九 習近平帝国とどう向き合うのか』(共編著、白水社、2019年)、『ようこそ中華世界へ』(執筆担当部分「社会」、昭和堂、2022年)などがある。