文化人類学の視点から法をみる
高野 さやか(たかの さやか)/中央大学総合政策学部准教授
専門分野 文化人類学・民俗学
法人類学とは
私が専門としているのは、法人類学という学問領域である。とはいえ多くの読者にとって、それがどのような分野か、ぱっとイメージが浮かぶわけではないだろう。国内に数ある大学のなかでも、毎年開講される科目として「法人類学」が設置されているのは私の知る限り中央大学総合政策学部のみである。その意味で法人類学は総合政策学部のユニークさを構成している要素のひとつであるし、「政策と文化の融合」という学部の理念に照らしても、重要な問題提起が含まれていると考えている。
ここでいう法人類学は英語にするとlegal anthropologyで、文化人類学という学問の視点や方法から、広い意味での「法」を扱う学問である。海外ドラマなどに登場する「白衣を着て犯罪捜査に協力する研究者」を思い出した方もいるかもしれないが、そちらは英語ではforensic anthropologyと呼ばれる、別の学問領域なのである。
まず文化人類学については、最近その調査手法であるエスノグラフィがマーケティングなどにも応用されており、ビジネスやテック系の雑誌などで取り上げられることもあるので、耳にしたことがある方もいるかもしれない。そもそもは、世界各地の多様な社会の仕組みやそこで暮らす人々の生き方を、長期にわたる綿密な現地調査を通して明らかにしようとする学問である。私自身も、後述するようにインドネシアに2年間滞在して、インドネシア語を使ってフィールドワークを行った。
また「広い意味での法」と書いたのは、政策やビジネス等に関わる法令のイメージを超えて「法」を考えることを強調するためだ。法といえばまずは憲法・刑法・民法をはじめとする、国家を背景とする法(「国家法」)が思いうかぶだろう。けれども、社会の中で多様な利害をもった人々がどのように無用ないざこざを避け、それなりにスムーズに生活しているのかに目を向ければ、特に条文のかたちになっていなくても、その社会のなかで受け入れられている多くの仕組みの存在に気づく。そうした仕組みは、「慣習法」「社会通念」「慣行」「条理」、あるいは「文化」などと呼ばれ、秩序の維持やもめごとの対応などに一定の役割を果たしている。法人類学は、いわゆる「国家法」だけでなく、こうした慣習法などもふくめた「広い意味での法」と社会の関係を探求してきた。
インドネシアの「法」
私がフィールドワークを行ってきたインドネシアは、こうした法人類学の研究にとって大変興味深い調査地である。そこにはいわば「法」の重層性がある。東南アジアの大国であり、一万を超す島々、二百以上ともいわれる民族集団からなるインドネシアだが、法制度はかつての植民地支配期の影響が色濃い。第二次世界大戦のインドネシア共和国独立後も、国家法は植民地期に制定されたものが基本となっており、現在も民法や刑法などについて正式な表記にはオランダ語が用いられる。他方で、国民の9割を占めるムスリムの間では、特に結婚や離婚、相続といった領域でイスラーム法を参照することが定着しており、宗教裁判所の管轄となっている。また、それぞれの民族集団を担い手とする慣習法(アダット)の影響力も無視することができない。スハルト大統領による長期政権が1998年に崩壊したあと進行した民主化・地方分権化のなかでは、アダットを公的に承認するべきだという議論が起こった。その後、特に森林などの資源管理において、アダットに基づく共同体の権利が尊重される傾向が指摘されている。
こうした歴史的経緯にもとづく複数の法の併存は、人々と「法」の関わりを考える上でとても興味深い。これまでの研究は、もっぱらアダットの記述に力を注ぐ(≒文化)、あるいは長期政権下で腐敗した司法制度をどう改革するかを論じる(≒政策)ことが多かった。しかし私は、まずは「法」がどう扱われているのかを知りたいと考え、地方裁判所で調査を行うことにした。場所はインドネシア第3の都市、北スマトラ州メダン市である。
地方裁判所という日常
私たちの多くにとって、裁判所は「非日常」な場所に思える。それはインドネシアにおいても変わらない。しかし実際に訪問してみれば、その厳めしい建物の中や周囲に、多くの人々――裁判官や裁判所の職員、弁護士から新聞記者、物売りまで――が出入りしており、さまざまな書類や噂が行きかう日常があることが見えてくる。時に開け放たれた窓から大音量で歌が聞こえてくることもあれば、迷い込んだ猫が法廷を横切ることもあった。
そこで扱われている問題はといえば、窃盗や麻薬関連の刑事事件、離婚訴訟(ムスリムでない人々にとって正式な離婚のために必要な手続きである)、あるいは賃貸契約・土地所有・売買契約についての民事事件などが挙げられる。
では、これらの処理に「法」はどう関わるのか。たとえば、かつて国家に収用された土地をめぐる訴訟があった。そこで訴訟当事者は、アダットに基づく所有権を主張し、さらにその正当性を、植民地期に結んだ契約書という司法制度の枠組みに依拠して裁判官に訴えていた。ここには国家法とアダットの複雑な関わり合いがある。かと思えば、もっとささいな、うまく訴訟を進めるためのテクニックが垣間見える場面もあった。あるいは、離婚訴訟において、夫婦に裁判官が、アダットというよりも人生経験に基づくアドバイスを与えることもあった。
散発的なエピソードに見えるかもしれないが、人口200万人を超えるこの地方都市には多様な背景を持つ人々がおり、特定のアダットがそこに住む人々全体に共有されているわけではない、ということを考え合わせると示唆的である。つまり、一方に国家法、他方にアダットあるいはイスラーム法があり、裁判所ではどれかを使って裁く、というわけではない、あいまいな領域があることを指示しているからだ。
「法」をめぐる棲み分けを超えて
国家法、慣習法、社会通念、宗教的な倫理などは、一見するとそれぞれ交じり合わない別物のようにとらえられうる。しかしこの地方裁判所から見えてきたのは、「法」をめぐる実践のなかでは、相互に参照しあったり、対立したり、あるいは相補的な位置を取ったりしながら、そのあり方を変容させ続けている、ということであった。それは「もともと慣習法があったところに、西洋起源の国家法が持ち込まれた」とか、「国家法の影響力の下、慣習法が表面上は見えなくなったが、依然として人々のあいだでは共有されている」といったイメージとは異なる「法」のあり方だといえる。
そしてこの視点からは、国家法(≒政策)、慣習法(≒文化)を区別し、それぞれをバラバラに扱うのではなく、双方を視野に入れ、両者の関係を考えることの重要性が指摘できる。たとえば、何が慣習法として想定され説得力を持ちうるのかは、時代や立場によって大きく異なる。さらにこれはインドネシアに限ったことではなく、人々の暮らしのなかで法規範に関係するカテゴリーは不可分に関わり合い、また不断に変化し続けているのである。総合政策学部に「法人類学」が存在するからには、こうしたことの意義を考え続け、これからの世界をつくっていく学生たちに向けて伝えていきたいと考えている。
高野 さやか(たかの さやか)/中央大学総合政策学部准教授
専門分野 文化人類学・民俗学2001年東京大学教養学部卒業。
2003年東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。
2010年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。 博士(学術)。
東京大学大学院総合文化研究科助教、日本学術振興会特別研究員(PD)を経て2016年より現職。現在の研究課題は、法人類学における慣習法概念の再検討、法と開発の民族誌的研究などである。
また、主要著書に『インドネシア―民主化とグローバリゼーションへの挑戦』(共著、旬報社、2020年)『ポスト・スハルト期インドネシアの法と社会―裁くことと裁かないことの民族誌』(三元社、2015年)などがある。