研究

エジプト軍は政治組織?

鈴木 恵美(すずき えみ)/中央大学文学部教授(東洋史学専攻)
専門分野 エジプト近現代史、アラブ近現代史

 近年、世界各地で政府に対する抗議運動が増加している。私が専門とするアラブ地域では、権威主義的な政治体制にある国が大半であるため、抗議デモは少ない地域とされてきた。しかし、2011年にアラブ諸国で見られた連続的な政権崩壊、いゆわる「アラブの春」(アラブ動乱という表現の方が適切である)では、いくつかの国で激しい抗議デモが展開された。シリア、リビア、イエメンでは内戦状態となり、紛争は現在も続いている。これらの動乱で鍵を握ったのが軍であった。軍が政権側につくか、大衆の側につくかで、内戦化する国と、そうでない国で、その後の明暗が分かれたからである。私は、議会や政党など制度化された「公式の政治」と、制度の枠外で民意を表出する抗議デモに代表される「非公式(街頭)の政治」の関係について、近代以降の歴史的な視点から考察している。なかでも注目しているのが、アラブ地域で最大規模の兵力をもつエジプト軍の役割である。

 エジプトでは、2011年から約2年半にわたり続いた動乱において、軍部は大規模な抗議デモに答える形で、クーデター的に立ち回り大統領を失脚させた。その際、軍部はデモ隊に対しては、「人民の声は我々(軍部)に届いた」と呼びかけ、政府に対しては、「人民の声を聞け」と最後通牒を突きつけた。「文民統制」が前提の現在の日本人の感覚では、理解するのが難しいだろう。しかし、中東諸国では「文民統制」という言葉すら、知られていない。

 では、このような存在のエジプト軍は、エジプトの政治のなかでどのように位置づけることができるだろうか。私は、あえていえばエジプト軍は公式と非公式の政治の中間、つまり政治制度のなかではその存在が規定されてはいないが、実際は制度そのものであると考えている。以下、それぞれについてみてみよう。

「公式の政治」と「非公式の政治」

 まず、議会など「公式の政治」についてである。エジプトでは、19世紀初頭にこの地を支配するようになったムハンマド・アリー朝のもとで、1866年に議会が開設された。選挙も導入されたが、選挙人が投票する間接選挙であり、立候補する要件にも所得規定が設けられたため、議員に選ばれたのは地主出身の名士に限定された。彼らはこの後、地主としての地盤を背景に、幾世代にも亘って議席を占有する、日本でいう「世襲議員」となっていく。1952年に現在の共和国体制となってからも、議会は世襲議員で占められた。そして、議員は権威主義的な歴代政権の政策にお墨付きを与える存在となった。

 このような政治家に対する人々の怒りと不満が沸点に達すると、人々は街頭に繰り出し大規模な抗議デモを行うなど、「非公式の政治」を展開してきた。そのエネルギーはすさまじく、時には政権を崩壊させるほどの規模となった。エジプトでは、このような街頭での民意の表出を賛美する傾向がある。それは、19世紀に近代的な政治制度が導入されて以降、政党政治や議会に代表される「公式の政治」がまともに機能してこなかったからである。

ナショナリズムの担い手としての軍

 一方、「公式の政治」と「非公式の政治」の間で、したたかに立ち回ってきたのがエジプト軍である。エジプトにおいて近代的な軍が整備されたのは19世紀初頭、1805年にアルバニア出身のムハンマド・アリーが、エジプト総督の地位についてからである。ナポレオンが去った後のエジプトの混乱期、オスマン帝国から派遣された非正規軍出身のムハンマド・アリーは、オスマン政府に対して領土的野心を抱き、フランス人軍事顧問を迎えて軍隊を近代化するなど、富国強兵政策に着手した。日本よりも半世紀以上早く近代化(西欧化)が始まったが、日本との違いは、それがもっぱらトルコ系など非エジプト人で担われたことである。

 その後、歴代支配者のもとで、非エジプト人による欧化政策が進んだが、やがて放漫財政により破綻状態となると、イギリスとフランスを中心とする西欧の債務国が債権回収を理由にエジプトの財政を支配するようになった。この事態を受け、エジプト人のアフマド・オラービー大佐は、「エジプト人のためのエジプト」をスローガンに、大地主である国会議員たちの協力を得て、支配者に対し政治的な要求を掲げるようになった。19世紀の後半になると、近代教育を受けたエジプト人が増加し、自国の政治や経済が、外国人あるいは外国にルーツをもつ人々によって決定されていることへの不満が高まっていた。オラービーの行動は、この不満を背景にしていたのである。しかし、オラービーの要求がエスカレートし、イギリスとの軍事衝突にまで発展すると、既得権益を失うことを恐れた国会議長をはじめとする大地主たち(後に世襲議員化する名士層)が土壇場でイギリス側に寝返り、オラービー軍は敗退した。この運動は、アラブ地域で初めての民族主義運動といわれている。つまり、エジプトでは人々の歴史認識として、軍は人々の不満を受け、外敵に立ち向かう存在なのである。1882年、オラービーの敗退によりエジプトはイギリスに軍事占領された。軍が再び政治の表舞台に登場するようになるには、約70年後の1952年のことであった。

統治機構への浸透

 19527月、ナセルを中心とする青年将校らの秘密組織、自由将校団がクーデターを決行し、「外来王朝」であるムハンマド・アリー朝を廃止した。そして、議会と政党の活動を停止させ、大地主の土地所有を制限する農地改革を発表した。軍がクーデターを決行したのは、政治家と実業家の癒着と汚職、貧富の格差の拡大、抗議デモの頻発など、公式の政治が完全に麻痺した末のことだった。自由将校団はその後、革命評議会という名前に変え、共和制の樹立を宣言し、政権の中枢を担うようになった。そして、大量の軍人を退役させ、各省庁や政府機関の幹部、地方行政の要職に配置した。これにより、元軍人たちが民間人として、軍の意向を受け、あるいは忖度して政治を行う現在の支配体制が完成した。そして、この戦時体制のような体制を長期に温存させたのが、イスラエルという安全保障上の脅威である。こうして、政治的には何も権限のない軍が、政治を担うことが容認されるようになったのである。 

 エジプト軍は、時には「救世主」のように政治の表舞台に登場してきたが、2013年のクーデター後の混乱では、失脚させた政権の支持者に数百名を超す犠牲者を出した。その後、軍が手掛ける建設の元下請け業者の男性が、インターネット上で軍の汚職を告発する動画を配信し、そのサイトにアクセスが集中する事態も起きた。現在、軍は国民に銃を向けない組織ではなく、腐敗とも無縁でないことが広く知られるようになった。しかし、軍は統治機構の末端にまで浸透し、巨大すぎてその全体像は見えない。今後、人々のエジプト軍に対する像がどのように変化するのか、あるいはしないのか、注視していきたい。

鈴木 恵美(すずき えみ)/中央大学文学部教授(東洋史学専攻)
専門分野 エジプト近現代史、アラブ近現代史

静岡県出身。1996年東京外国語大学卒業。
2000年東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。
2003年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術:東京大学 )
早稲田大学イスラーム地域研究機構研究院准教授、在シリア日本国大使館一等書記官、福岡女子大学准教授を経て2022年より現職。

専門は近現代エジプト政治史、特に19世紀以降の世襲議員と歴代政権の関係について研究している。主要著書に、『エジプト革命』(中公新書、2013年)などがある。