研究

ELSIの現場 ―医学系研究の倫理審査に携わって

岩隈 道洋(いわくま みちひろ)/中央大学国際情報学部教授
専門分野 公法、情報法、宗教法、比較法学

<医療系学部における研究倫理審査委員会の活動>

 厚生労働省が発している、『人を対象とする医学系研究に関する倫理指針』[1](以下、『指針』とする。)によれば、医学系の研究機関は、「研究の実施又は継続の適否その他研究に関し必要な事項について、倫理的及び科学的な観点から調査審議するために設置された合議制の機関」として倫理審査委員会を設置することと、そのメンバーとして「倫理学・法律学の専門家等、人文・社会科学の有識者が含まれていること」を義務付けられている。筆者はある大学において、医学部および保健学部の倫理審査委員会に、上記の「倫理学・法律学の専門家等、人文・社会科学の有識者」要員として数年間参画させて頂いたことがある。

 医学系研究機関における倫理審査委員会の業務は、多忙な医療現場や、医学・保健系の教育研究の現場に所属している研究者から提出される大量の研究計画書を、効率よく審査するためにシステマティックに手続が組織化されている。『指針』及び各研究機関の規程等に基づいて定められた様式に沿った研究計画書が、毎月数十~数百件数起案され、委員会の事務局に提出される。月例の委員会の事前に医学系研究分野を専門とする事前審査担当委員が、『指針』のルールに則って研究内容や方法について第一次的なチェックを行い、書面で行う迅速審査の対象となる研究計画と、倫理委員会を対面で実施して研究者からのヒアリングを伴う本審査を行う研究計画とを分類する。特に、人体への侵襲性の有無やその必要性・安全性、診療とは別途行わなければならない研究参加に関する患者等のインフォームド・コンセントの方法や同意文書の妥当性、研究資金の提供やそれに伴う利益相反の可能性といった企業や外部機関との協力体制上の問題点など、診療行為や医学系研究に関する倫理的な問題点の検討を要すると判断された事案は、本審査に上げられる。

 迅速審査の対象となった研究計画書は、倫理審査委員に月例の委員会の2週間ほど前までに配布され、事前に目を通す。問題点があれば月例会の議題とする。全委員から問題が無かったとされたものは、一括して委員会で承認とする。対面の委員会での審議対象となった研究計画書は、やはり事前に目を通し、問題点があれば月例会において議題とし、当該研究者を呼び出して研究計画書に対する本審査を実施する。毎回というわけではないが、通例は迅速審査の対象となる研究計画が圧倒的に多く、対面による本審査を要する研究計画は全体の5~10%くらいであった[2]

 月例の委員会は月に一度とはいえ、委員が毎月こなすべき業務のフローは決して少なくはない。そのような中で、医師を中心とする倫理審査委員会のメンバーは、丁寧に一つ一つの研究計画に対して、主たる任務である医学系研究倫理面からの審査を行っている。委員には退職後も『指針』の規定に基づく守秘義務が課せられているので、具体的な審査過程を語ることはできないが、医学系の分野の専門家たちが、同僚たちの研究の内容やデザイン、体制づくりなど様々な場面に対する倫理的な見解を真摯に議論し、時に対象研究者に親身に倫理上・研究上のアドバイスをする様子に、しばしば感銘を受けたものである。(筆者は時折、研究データや検体に関するプライヴァシーや個人情報保護と、研究に対する患者等の同意の成否など、ほぼ定型的な論点についてコメントするくらいの貢献しかできなかったが。)

<倫理指針と法律>

 一方で、例えば、『指針』はかつて「連結可能匿名化」という概念(必要な場合に特定の個人を識別することができるように、当該個人と新たに付された符号又は番号との対応表を残す方法による匿名化をいう。)と、「連結不可能匿名化」と言う概念(特定の個人を識別することができないように、当該個人と新たに付された符号又は番号との対応表を残さない方法による匿名化をいう。)を用いて、医学系研究における個人データの取扱につき、他機関への提供の際に符号または対応表を渡さなければ、あるいは作成していなければ、それらのデータは提供先である他機関においては「個人情報」に該当しなくなるので、患者の同意がなくとも提供が可能であるという理解を採用していたことがある。

 しかし、連結可能匿名化に関して言えば、対応表に何らかの方法でアクセスできれば、あまりに容易にそのデータの匿名性は失われ「個人情報」に戻るのである。連結不可能匿名化を行った場合であっても、一見氏名や生年月日など、個人を識別できる情報を削除したデータであるから個人情報性が失われているように見えるものの、個人を識別できる情報を備えた元のデータベースや、個人識別情報を除去した同じ連結不可能匿名化措置を施したデータのもう1セットが存在していれば、データに含まれる一見個人識別性のない情報をキーとして、PC等で名寄せを行うことは容易であるとも言える。

 情報法や情報セキュリティに関する学会や実務界の蓄積に鑑みると、これらの「連結()可能匿名化」は、少なくとも対象となる個人データの個人情報性を完全に失わせる手法とはいえないと現在では理解されている[3]。平成29年の個人情報保護法の改正に伴い、『指針』も改正され、「連結()可能匿名化」の概念・用語は廃止された。現在の『指針』では、それらの情報も個人情報であるという認識の下、医学系研究の現場での運用体制に重い負担をかけず、適正な運用が行われるような内容となっている[4]

 しかし、この「連結()可能匿名化」の転換点においては、医学系研究者の間から、「法律家や官僚の言葉遊びによって医学の現場が混乱したり萎縮したりすることは問題だ」という批判も見られた[5]。上述のように、実際には医学系研究の現場で、「連結()可能匿名化」によって行っていた第三者への情報提供の意味付けが変わった(「個人情報」ではなくなったから提供してよい、のではなく、個人情報として適切な措置を取りながら提供する、という意味付けの変更)のであって、現場の実務に大きな負担がかかる変化でないことが周知されることで、そのような批判も収まってきている。

ELSI研究と実践の場>

 ELSIというコンセプトが唱えられたのは、DNAの二重螺旋構造の発見者の一人、ジェームズ・ワトソンが、1988年にアメリカ政府の行うヒューマンゲノム研究計画において、倫理的・法的・社会的含意(ELSI: Ethical, Legal and Social Implications)の研究に特化した予算の確保を提案したことが初めとされる[6]。医学系研究をはじめ、生命科学の分野においては、扱う対象が生命や身体であるという点からも、科学の倫理性に関する問題に早い時期から関心が醸成されていたことが覗える。

 現在では、医療技術を患者に適用する最前線である医療の現場と、そこで行われる医学系研究の世界における倫理や法に関する営みや議論は、ここまで述べてきたように、実定法やそれに近い行政機関の指針、そして専門職業集団内で共有される専門家倫理のコードなどの実定的ルールに沿って、議論を行う土壌が出来上がっている。それは血の通った倫理委員会の本審査に触れた目で見れば、医学系研究の現場において、そういった関係法規や倫理コードが「生きた倫理・生きた法」として力を発揮している証左の一つであるとも言える。一方で、「連結()可能匿名化」の議論のように、医療従事者集団にとり、特定の法制度や倫理概念が、異質な思考で現場を引っ掻き回すものとして登場すると、一時的であったとしても強い抵抗感をもって迎えられることも少なくない。

 「法律学」の立場から医学系研究におけるELSIの現場に立ち会ってみると、医学系研究者の高度な使命感と倫理観は、人権その他の法的権利を保障する考え方と通じ合うものではあるが、時に一つの結論に向かってゆく場合の思考や議論の出発点や道筋は大きく異なる場合もあるということを学ぶ機会でもあった。

 現在筆者は法学と情報学の両方を学ぶ学生を教育する立場に着任したばかりで、同僚にも情報に関する工学系の研究者が多くなった。そして、ビッグデータ活用やAIの社会的実装、インターネットを介したコミュニケーションに伴う新しい社会問題など、学生や同僚たちとELSI的に考えなければならない問題は山積している。医学系研究に関わる関係法規や倫理コードほど、体系的に組織化されていない領域であるが、その分、現在進行形の課題をこれまでとは違う「理系」の仲間たちと考えてゆくことを、楽しみにしているところである。


[1] 厚生労働省「人を対象とする医学系研究に関する倫理指針」平成29<https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-12600000-Seisakutoukatsukan/0000168764.pdf>
[2] 筆者の個人的体感であり、時期や組織によっては比率が異なるかもしれない。
[3] 藤井進「改正個人情報保護法における匿名加工情報と非識別加工情報の医学系研究に及ぼす影響」医療情報学375pp245-252.
[4] 文部科学省・厚生労働省・経済産業省「個人情報保護法等の改正に伴う研究倫理指針の改正について」平成29<https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10600000-Daijinkanboukouseikagakuka/0000170955.pdf >
[5] 文部科学省・厚生労働省「人を対象とする医学系研究に関する倫理指針のパブリック・コメントへの文部科学省及び厚生労働省の考え方」平成29<https://search.e-gov.go.jp/servlet/PcmFileDownload?seqNo=0000155553>
[6] 加藤和人「ヒトゲノム研究と医療の実施に伴う倫理的・法的・社会的課題」遺伝子医学101pp148-153.

岩隈 道洋(いわくま みちひろ)/中央大学国際情報学部教授
専門分野 公法、情報法、宗教法、比較法学

北海道札幌市出身 1974年生まれ。
1997年中央大学法学部卒業。
2001年中央大学大学院法学研究科公法専攻博士前期課程修了。
2004年同大学院国際企業関係法専攻博士後期課程満期退学。
國學院大学法科大学院講師、早稲田大学人間科学部講師、杏林大学総合政策学部教授等を経て2019年より現職。

 現在の研究課題は、医事衛生行政における疾病対策とプライバシー・個人情報保護の問題、非法的規範(職業倫理・情報倫理や宗教など)と法規範の衝突に関する問題、公共図書館における法情報提供の問題などである。本稿関連の業績として「人を対象とする医学系研究における「同意」とプライヴァシー」杏林社会科学研究34(1),(2018)などがある。