研究

日本語教育推進の諸政策に求められる「共生」

中川 康弘(なかがわ やすひろ)/中央大学経済学部准教授
専門分野 日本語教育学 多文化教育

"僕は忘れたくない。今回の緊急事態があっという間に、自分たちが、望みも、抱えている問題もそれぞれ異なる個人の混成集団であることを僕らに忘れさせたことを。"

 イタリア人作家パオロ・ジョルダーノ著『コロナの時代の僕ら』(飯田亮介訳、早川書房)の一節(p.112)です。移民たちに大切な知らせが届かなかったことを、彼はこう綴っています。文脈は異なりますが、私にはそれが、個人へのまなざしと共生の視点を欠いたまま外国人に日本語支援を施す、日本語教育政策へのメッセージのように響きました。
 戦後の日本語教育は1970年代の中国からの帰国者やインドシナ難民の受入れ、1990年代の日系南米人の増加、2008年の留学生30万人計画等、各時代の社会的要請に応じ発展してきました。海外の学習者数は日本文化への関心の高さ等から142の国・地域で約385万人となり、国内の学習者も留学生、外国人労働者、移動する子供たちと多様化しています。これまで「外国人に日本語を教えること」と漠然と見られてきた日本語教育は、教授法、言語習得の社会文化的な観点や異文化理解に加え、母語話者と非母語話者の関係性、障害やジェンダー、アイデンティティといった政治性も射程に入れた領域となり、学際的な広がりを見せています。私自身も本学で実践研究を試みつつ、日本語教育を社会的文脈で捉える必要性から、近年は主に留学生等のライフストーリー研究と政策研究に関心を向けてきました。いずれも具体的な個人に着目し聞き手との相互行為から生まれる語り、教育学や社会学、現代思想等の知見から、日本語教育の社会的意義を問うものです。今回の執筆に際し、日本語教育の諸政策と共生(多文化共生)について触れたいと思います。
 2006年、総務省は多文化共生を「国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的ちがいを認め合い、地域社会の構成員として共に生きていくこと」と定義しました。以来、日本語教育でも多文化共生に係る議論が盛んに行われています。しかし、文化やアイデンティティを固定的に見る本質主義を前提にした「国籍や民族などの異なる人々」とは誰か、「互いの文化的ちがいを認め合」うのは地域社会のみならず国レベルでの差異の承認や権利保障も含むものか等が不透明なため、理念の脆弱さが指摘されていました。そうした中、昨年6月28日に「日本語教育の推進に関する法律(以下、推進法)」が施行されるに至ります。法制化をめぐり、政府はこれまで「外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策」(平成30年12月25日決定、令和元年12月20日改訂)、及び「外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策の充実について」(令和元年6月18 日)をまとめ、外国人との共生社会の実現に向けた施策を進めてきました。これらの会議名で確認されるように、共生は法の下において希求されるべき重要概念であることがわかります。

見えない「共生」

 推進法は、全3章28条で構成されています。そのうち基本方針は第2章第10条に位置づけられ、予定では今月(2020年6月)に具体的施策例を含めたものが公表されることになっています。それに先立ち政府は全3章からなる基本方針(案)を示し、今年の3月~4月にパブリックコメントを募りました。約2か月が過ぎ、そう大きな修正はないと思われますので、案として示された基本方針の第1、2章の主項目を共生の視点から考えてみます。
 第1章に掲げられた「推進の目的」には、「多様な文化を尊重した活力ある共生社会の実現に資するとともに、各国・地域との交流の促進、友好関係の維持・発展に寄与する」とあります。この前件部分、「多様な文化を尊重した活力ある共生社会の実現に資する」では、そもそも日本語教育の推進がなぜ多様な文化を尊重することになるのか、どんな論理で多様な文化を尊重した活力ある共生社会の実現に呼応するのかが曖昧なままになっています。また同章では「事業主の責務」についても触れられ、「雇用する外国人等及びその家族に対し、職務又は生活に必要な日本語を習得するための学習の機会の提供その他の日本語学習に関する支援に努めることが求められる」とあります。悪質な事業主が社会問題化されている技能実習制度を立て直すには適切だと思われますが、外国人の仕事、生活にどの程度の日本語能力が必要なのかは、事業主の判断に任されてしまいます。共生を志向するなら、例えば、外国人労働者が契約上の不都合に気づき、時には異議申し立てをする日本語の力も養う必要があるでしょう。被抑圧者(外国人労働者)が言葉によって権利を訴えることは、「所有=自由」という考え方に憑かれた抑圧者(悪質な事業主)をも「人間化」に導くという、ブラジルの教育学者パウロ・フレイレの解放の教育学にも通じるものだからです。
 第2章では国内外の学習対象者について触れています。「教育課程の編成に係る指針の策定等」では海外における日本語教育の推進について述べられ、外国語教育の国際標準の一つであるCEFR(欧州言語共通参照枠)を参考にした指導方法の開発・普及にも言及しています。しかし、よく知られているように、CEFRは「複言語主義」の考え方に基づくものです。欧州言語教育政策局は、複言語主義を、個々人が複数言語を用いたり言語学習に活用したりする能力と、言語に対する寛容性を養い、多様性を積極的に容認する基礎となる価値を育むものだとしています。特に「言語に対する寛容性」は、同一言語内のバリエーション(地域・社会方言、流暢さや正確さの度合い)を受容する態度でもあることから、言語規範に固執しないやりとりを意図している点で日本語教育の共生と親和性を持つものです。そうしたCEFRの理念を、日本語教育を推進する基本方針に積極的に取り入れていくことが求められます。

「共生」を阻む「非対称」を乗り越えるために

 問題は、教える側(日本人)と学ぶ側(外国人)の関係が、極端に「非対称」にあることです。無論、日本語教育の機会の保障は外国人の日本での生活を支えるうえで歓迎すべきことであり、哲学者の柄谷行人が言うように、「教える-学ぶ」という関係を権力と混同させるべきではありません。しかし柄谷はまた、教える側がその立場にいられるのは、学ぶ側の合意を必要とするからで、それはむしろ教える側が学ぶ側に従属せざるを得ない立場であることを表していると逆説的に述べています。つまり、教育支援は双方向のうえに成り立つということです。これを踏まえると、政策立案者、また私も含む日本語教育関係者に必要なのは、社会的要請を背景に教える側にいられることへの逡巡でしょう。それがなければ、日本語教育は教える側にのみ主導権が委ねられるモノローグとなり、学ぶ側を沈黙させ、互いがその関係性に何の疑問も抱かなくなってしまう状況をもたらします。それが共生を阻むものであるのは言うまでもありません。分断と排外主義が懸念される"コロナの時代"、対学習者だけでなく、日本語教育に関わる者すべてにその立場への省察を呼び起こすためにも、推進法及び基本方針は位置づけられるべきではないかと考えます。
 なお、推進法第10条6に、政府は概ね5年ごとに基本方針に検討を加え、必要に応じて変更すると記されています。そこに共生がどう反映されるか、引き続き研究を通じて諸政策を追っていこうと思います。

中川 康弘(なかがわ やすひろ)/中央大学経済学部准教授
専門分野 日本語教育学 多文化教育

首都大学東京大学院人文科学研究科単位取得満期退学 博士(教育学)

青年海外協力隊ベトナム派遣、神田外語大学留学生別科、国際交流基金シドニー日本文化センター日本語教育専門家、大阪経済法科大学教養部等を経て、2017年より現職。

主要論文:「留学生は学内でどのように自己存在を示そうとしているか」『留学生教育』第23号(第10回留学生教育学会優秀論文賞)/「地域日本語教育支援のあり方を規定する動きに抗う」『語りの地平:ライフストーリー研究』Vol.3せりか書房刊

20206月現在、言語文化教育研究学会 学会誌編集委員/日本語教育学会 審査・運営協力員