言語と世界観の多様性 ――人文主義の言語思想
村井 則夫(むらい のりお)/中央大学文学部教授
専門分野 哲学・思想史
「人文主義」とは、英語ではhumanism、ドイツ語ではHumanismusであり、「ヒューマニズム」の原語であるのはもちろんだが、それは現在、人間尊重や人道主義の意味でヒューマニズムと言われるものの内実とはかならずしも一致しない。思想の伝統としての「人文主義」とは、その起源を辿れば、近代初頭のイタリア・ルネサンスの「人文主義」(umanesimo; studia humanitatis)に遡り、人間の文化的・学問的事象全般を指すものである。それは現代でも、「人文学」が英語でhumanitiesと言われる用例に名残りをとどめている。筆者が最近、翻訳・出版に関わったトラバント『人文主義の言語思想 ―― フンボルトの伝統』(共監修、岩波書店、2020年)で主題となったドイツ人文主義は、「新人文主義」と呼ばれることもあり、これもまた大元のルネサンス人文主義との関連を前提としている。そこで本稿では人文主義の特質を、とりわけW・v・フンボルトの言語思想という観点から紹介し、人文学におけるその意味を考えていきたい。
ドイツ人文主義と言語哲学
人文主義がイタリアの文芸復興(ルネサンス)に起源をもつことから分かるように、ヨーロッパにおける人文主義とは、中世のあいだ忘却されていたギリシア・ローマの古典的文献を再発見し、その文学的・思想的遺産を新たな時代につなげようとする運動である。ペトラルカやダンテにおいてそうであったように、そこでは回顧が復活となり、復古が創造に転じるという見事な逆説が実現した。古典文献の読解によって歴史的な距離を乗り越えるばかりか、新たな飛躍をもたらそうとしたところに、人文主義の独自性がある。そこで鍵となるのが、「言語」という現象である。なぜなら、文献読解を通じて歴史理解を深めるための土台となるのが言語の働きだとするなら、思想や文学の創造を可能にするのも、また言語の特質だからである。
18世紀ドイツに興ったドイツ人文主義では、ゲーテやシラーのドイツ古典主義の文芸運動を背景として、「言語」の働きを理論的に考察する試みがなされた。その代表者であるハーマン、ヘルダー、フンボルトは、特定の学派や集団とは言えないが、それでも彼らをまとめて「ドイツ人文主義」と呼ぶのには理由がある。それは彼らが、デカルト以来の近代の合理主義的な伝統に逆らい、また同時代のカントから始まるドイツ観念論の動きとも一線を画すという共通点があるからである。ドイツ人文主義は、カントの抽象的で普遍的な理性主義に対して、人間の具体的活動や生の実相を追求し、多彩な個性をもつ人間のあり方を「人間性」(Humanität)の語によって捉えようとしていた。人間は個々の文化のなかで、自身の人格を独自のものとして徐々に形成し、自己のあり方を見定めていく。これが、自己形成の意味で「教養(陶冶)」(Bildung)と呼ばれるものである。ヴィルヘルム・フォン・フンボルトは、この人間形成としての教養の理念を掲げ、ベルリン大学の創設を主導し、人文学を要とする近代的大学の構想を立ち上げた。そうした人間理解の中枢として、あるいは最も典型的な現象として、フンボルトは言語の哲学的解明を自らの畢生の課題としている。こうして、彼自身が実地に調査した言語(バスク語、マレー語など)や、探検家として知られる弟アレクサンダー・フォン・フンボルトが新大陸より持ち帰った言語資料などを含む膨大な諸言語の知見をまとめ、それを元にして他に類を見ない言語哲学を樹立したのである。
メディアとしての言語
古くはギリシア語の「ロゴス」が理性と言葉の両方を表していたように、言語は理性と切り離せない。人間が「言語(理性)をもつ動物」と言われる所以である。しかし実際に用いられる言語は、理性的な論理式や数式のように抽象的なものではなく、現実には「日本語」「英語」などの個別言語として存在する。表現・伝達手段と見る限り、数式などと比べ、言語ははるかに多くのノイズや揺れを含んでいる。個々の言語は、音声や文字などによって表現されるため、聴覚や視覚といった感覚的能力の制約を受けるからである。つまり言語は、理性的な思考を表現しながらも、その姿はあくまでも音声的・文字的記号という「物質」なのである。その点で言語は、いわば精神と物質という異なる領域にまたがり、しかも両者をつなぐ働きをしている。
言語は当然ながら、意思疎通や意味の伝達に大きな力を発揮する。その場合も話者は、言語を自力で作り出すのではなく、話者自身もある特定の言語を前もって身につけていなければならない。一見すると自発的に見える話し手も、あらかじめその言葉を教育されているという点では受動的なのである。自分の意思で言葉を使う者も、裏を返せば、言葉によって使われているとも言えるだろう。私たちはある特定の言語的環境の内に生まれ落ち、言語を身につけながら徐々に成長する。何事も表さず、誰にも話しかけない言語というものは、虚構か矛盾でしかない。言葉はあくまでも「何か」を意味して、「誰か」に意味を伝える「公共的」なものである。その面では、言語が最も生き生きと働いているのは、直接には「私」が「何か」を話題に「あなた」へと話しかけ、相互の応答がなされるような「対話」の場であろう。そしてそれこそ、私たちが言語を通して社会性を身につけ、自己を作り上げていく「教養(自己形成)」を促すものなのである。
こうして言語とは、さまざまな領域の中間にある。つまりそれは、「理性」と「感覚」の中間、「精神」と「物質」の中間、「能動」と「受動」の中間、「私」と「あなた」、「話し手(著者)」と「聞き手(読者)」、個人と社会の中間である。このように言語は、中間的現象として、対立する二つの項目のどちらにも属さず、同時にどちらにも属すという不思議な性格をもっている。こうした中間的存在を、ラテン語で「中間にあるもの」という意味で、medium、すなわち「媒体」と呼ぶ。このmediumの複数形がmedia、つまり「メディア」である。つまり言語とは、文字通りに、「中間に働く媒体」、つまり典型的なメディアなのである。
バベルの塔の「呪い」から「祝福」へ
言語とは、私たちが個々人として現実に生きる際に、その関係が成立するための条件であり、その意味では、さまざまな関係の中間にあって、それらの関係を成り立たせる生きた働きである。フンボルトが言語を「完成品(エルゴン)ではなく、活動(エネルゲイア)である」と語ったのはそのためである。媒体である言語は、異なった領域の中間に働くため、根本的には、人間と世界をつなぐ仲立ちの役割を果たしている。人間が他者や世界をどのような目で眺め、それらとどのように関わるかという点に、言語が大きく作用するのである。物を視覚的に「視る」ために「光」という媒体が不可欠であるように、人間が世界を「生きる」際には、「言語」という媒体が欠かせない。そのため、世界との関わりを形成する点で、言語は「世界の見方」、つまり「世界観」の構成に大きく関与する。ある特定の言語は、それに固有な独自の「世界観」を宿しているのである。
「世界観としての言語」という捉え方が、フンボルトの言語思想の核心をなしている。フンボルトによれば、私たちが他者や世界と関わるとき、個別の経験的事実を機械的に積み上げているわけではなく、あらかじめそこに総合的な先行理解、つまりある種のイメージ(世界観)を介在させているのであり、その「世界観」の根底に、言語という現象が働いているということになる。言語は、その言語を用いる人間の世界の捉え方、受け止め方を左右する要因であり、また語彙や文法などを通じて、それぞれ独自の世界を成している。したがって、言語の多様性は、同時に世界観の多様性でもある。
言語の多様性という問題は、古くは旧約聖書において、「バベルの塔」の神話を通して語られていた。神の座に迫ろうとする高楼を建てようとした人間の傲慢を罰するべく、神はもともとひとつであった人間の言語を分断して、意思疎通を不可能にしたという寓話である。言語の多様性は、人間の相互理解を妨げる壁ともなるため、長いあいだ「呪い」や「罰」と考えられてきたのである。しかしながらフンボルトは、言語の果たす創造的な役割を強調し、そこに世界観の多様性を結び付けることで、バベルの「呪い」をむしろ「祝福」へと転じようとする。さまざまな言語の相違、世界観の多様性は、同時に世界の「豊かさ」なのである。フンボルトはこのことを表現するために、言語を「プリズム」になぞらえた。光学機器としてのプリズムが、単一の白色光を多彩に分光するように、媒体としての言語もまた、人間の世界との関わり方を多様化し、想像力を活性化する。そして言語を「活動(エネルゲイア)」と捉えたように、フンボルトにとって言語や世界観は、固定して硬直した完成品、あるいは強固なイデオロギーなどではなく、それ自身が柔軟に変成し、創造的に新たな展望を切り開くものである。文学や芸術、総じて文化とは、そのような多様で活動的なエネルギーにほかならない。単一で抽象的な「ヒューマニズム 」に限定されない「人文主義」、そして複数形で語られる「人文学」(humanities)とは、そうした文化創造に積極的に関与し、世界を多様化しながら、なおかつ世界に深みと奥行きを与えるものでなければならない。
【図版出典】
https://www.iwanami.co.jp/book/b496848.html
https://pxhere.com/ja/photo/795387
https://en.wikipedia.org/wiki/Tower_of_Babel
- 村井 則夫(むらい のりお)/中央大学文学部教授専門分野 哲学・思想史
1962年、東京都出身。1994年上智大学大学院哲学研究科博士後期課程退学。2003年より明星大学専任講師、以降、助教授・准教授・教授。2017年より現職。博士(哲学):上智大学。
ハイデガー、ニーチェ、フンボルトなど、ドイツ近現代思想を中心に、現象学・解釈学など、超越論的哲学の現代的なあり方を考察している。またブルーメンベルクに代表される哲学史・思想史、アウエルバッハやクルツィウスに見られる人文学の展開に関心を寄せている。主著書は、『ニーチェ ―― ツァラトゥストラの謎』(中公新書 2008年)、『解体と遡行 ―― ハイデガーと形而上学の歴史』(知泉書館 2014年)、『人文学の可能性 ―― 言語・歴史・形象』(知泉書館 2016年)など。