研究

ドイツでの研究滞在をふりかえって

川喜田 敦子/中央大学文学部教授
専門分野 ドイツ現代史、ドイツ地域研究

国際共同研究加速基金によるドイツ研究滞在

16世紀に創設されたヴィッテンベルク大学は、ナポレオンの侵攻の余波でハレ大学と合併した。写真は、滞在中に行われた合併200年記念祭での学内外の代表者のパレード。

 日本学術振興会が若手研究者向けに「国際共同研究加速基金(国際共同研究強化)」を新設したのは2015年度のことだった。私は、科研費の若手研究Bをもっていたため、初年度にこれに応募し、幸運にも採択されたことで、ドイツのマルティン・ルター・ハレ・ヴィッテンベルク大学にて1年間の研究滞在を行う機会を得た。

 ハレ大学のあるハレ(ザーレ)市は旧東ドイツの中規模都市である。2015年のヨーロッパの「難民危機」以来、ドイツの各都市では滞在許可を求める難民が急増しており、私が渡航した17年春にはまだその余波を如実に感じ取ることができた。難民の受け入れをめぐってドイツの世論は二分されており、とくにドイツ東部では外国人排斥の議論が強かったが、ハレは大学町だけのことはあって、雰囲気は落ち着いていた。(しかし、帰国後、19年秋にはハレでもシナゴーグ襲撃事件が起こり、大きな衝撃を受けている。)

これまでの研究をまとめる

 ハレ大学では、受け入れ先のM・ヘトリング教授(歴史学)が所属される史学科でオフィスを用意していただき、最初の3カ月間は、オフィスと大学図書館をひたすら行ったり来たりしながら、これまでの仕事をまとめる時間にあてた。

 私は、第二次世界大戦後のドイツの戦後処理に関心があり、ドイツ人の「追放」について研究を続けてきた。「追放」とは、第二次世界大戦に敗北したドイツが広大な東部領をソ連とポーランドに割譲させられることになり、その地域も含めて東欧一帯からドイツ系住民が強制移住させられたことをいう。恣意的殺害、略奪、性暴力が横行する過酷な条件の下、1500万人にのぼる人々がドイツに移住した。これは、同時期に行われた日本人の引揚の2倍を超え、世界史上、最大規模の住民移動のひとつに数えられる。

 「追放」は、私にとっては博士論文で扱ったテーマなのだが、なかなか著書にまとめることができずにいたため、ドイツ滞在中に、出版に向けて博士論文の構成を抜本的に見直すことにした。ハレ大学の歴史家たちの助言を受けて大幅に加筆修正したことで、議論の射程は大きく拡大し、ドイツ語を話す人々が古くは中世の「東方植民」によって東欧に移住した時代に始まり、ナショナリズムの隆盛と「民族自決」の思想のなかで住民交換や住民移動を通じて民族ごとに居住地を分ける試みが始まった第一次世界大戦期から、ナチ・ドイツの民族移住政策とそれがもたらしたユダヤ人大量殺害を経て、第二次世界大戦後の秩序再編にともなってヨーロッパで複数の住民移動(そのひとつがドイツ系住民の「追放」)が展開するにいたるまでの流れを描き出すものとなった。博士論文では強制移住させられた人々の戦後ドイツへの統合のみを扱ったのだが、長期的な展開を視野に収めたことで、この問題のもつ世界史的な位置づけがより明確に見えてきたように思う。この原稿は、『東欧からのドイツ人の「追放」 20世紀の住民移動の歴史のなかで』(白水社2019)として刊行され、ありがたいことに、この間に、『週間読書人』や『図書新聞』などの書評で取り上げられたほか、現代史研究会、歴史学研究会でも書評会を開いていただいた。

新しい研究の方向性

 「追放」というテーマを扱いながら長く気になっていたのは、第二次世界大戦後に類似の経験をした日独両国で、互いの事例についてほとんど知られていないということだった。そのため、第二次世界大戦後の人口移動という観点からヨーロッパとアジアの事例をつなぐ研究はできないかと常々考えていたが、実現のきっかけをつかんだのは、渡航直前に米国の日本研究者L・ワットがDiplomatic Historyに寄稿した論文を見つけたことによる。

ハダマーは、ナチ時代に行われた「安楽死」の拠点のひとつ。記念館(奥)には殺害に使われた地下室が残る。手前は被害者を運んだバスのガレージ。ギーセン大学を訪れた際に立ち寄った。

 これは日本人の引揚をめぐる連合国側の構想を跡づけた論文であり、米国務省内におかれた移民再定住特別委員会が、日本人の引揚について検討する前に、ヨーロッパにおける戦後住民移動の構想を立てていたことを教えられた。ワットも依拠したノッターファイル(Post World War II Foreign Policy Planning. State Department Records of Harley A. Notter, 1939-1945)は、ドイツではゲッティンゲン大学図書館が使いやすい形で所蔵していたため、博士論文の改稿を終えた後にゲッティンゲンに赴き、ヨーロッパにおけるドイツ人の「追放」とアジアにおける日本人の引揚が連合国の戦後構想のなかでどのようにつながっていたのかを実証的に検討する論文をまとめた。この論文は、蘭信三先生、松浦雄介先生との共編著『引揚・追放・残留 戦後国際民族移動の比較研究』(名古屋大学出版会2019)に収められている。

 なお、ヨーロッパとアジアをつなぐというこの発想の延長線上に、第二次世界大戦末期から冷戦体制が確立するまでの時期の人口移動をグローバルにとらえる研究の構想もはじめた。日独の事例に加えて、ヨーロッパではポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー・バルカン半島、アジアでは朝鮮半島・ベトナムなど、1950年代半ばまでに冷戦の最前線で生じた諸々の事例の連鎖のなかで、国際環境の変化にともなって人口移動の論理が変容していく様相を検証しようとするものである。ドイツ滞在の後半には、ハレ大学、ギーセン大学のコロキウムでこの研究の構想を報告し、参加者と議論することができた。

教育面での収穫

 今回の研究滞在では文献・史料収集、研究報告、研究交流が中心となったが、教育面でも面白い経験ができた。ドイツの大学で学部学生に対してどのような教育が行われているかを知りたいと以前から思っていたため、ハレ大学史学科の初年次教育(講義と演習2種)を複数回にわたって見学させてもらった。帰国後にはドイツ現代史の講義を始めることが決まっていたため、滞在中に講義ノートの準備を始めたが、特定の時代・テーマについて具体的に歴史を記述することと、歴史学の方法(史料の種類と扱い方、史料批判の方法、史実と解釈の関係など)の手ほどきをすることという二つの目的をいかに両立させるかを考える上で、見学した授業の内容と手法が大変参考になった。

ドイツの歴史教科書より、史料の読み解きを学ぶページ。文字史料(詩)1点、関連の図像史料2点が掲載されている。ページ左下の問いに順に答えていくことで、史料を読み解き、時代背景に思いをめぐらすことができるようになっている。

 また、卒論指導では、最終的に一次史料を用いて論文を執筆することが目標となるが、これは決して簡単ではない。ドイツ語で書かれたドイツ史の一次史料を卒論で扱うためには、4年間の学部教育のなかで、歴史学の訓練と学術ドイツ語の習得をいかに両立させるかがポイントとなる。この点については、ブラウンシュヴァイクのゲオルク・エッカート国際教科書研究所にてドイツの代表的な歴史教科書の調査を行い、歴史学の方法(とくに史料批判と分析の方法)について論じたページを使って、歴史学の方法とドイツ語を同時に学ぶ可能性を模索し、その成果をハンブルクで開催されたJaF-DaF Forum 2018で発表した(同僚の林明子先生と共同報告)。日本では、高校の新科目「歴史総合」の導入にともない、史料に基づく歴史的思考力をいかに獲得するかをめぐる議論がさかんに行われている。ドイツの高校教育、大学初年次教育で歴史学の方法についてどのように教えているかに関する情報は、今後、外国語教育だけでなく歴史教育の方面にもフィードバックしていきたいと考えている。

 今回の滞在では、研究面でも教育面でも大きな収穫を得た。得がたい機会を与えていただいたことについて、ハレ大学史学科の先生方、中央大学文学部の同僚、日本学術振興会に厚く御礼を申し上げたい。

川喜田 敦子(かわきた・あつこ)/中央大学文学部教授
専門分野 ドイツ現代史、ドイツ地域研究
東京都出身。
1997年東京大学教養学部教養学科卒業。
1999年東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。
2002年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。
学術博士(東京大学)
東京大学大学院総合文化研究科・教養学部ドイツ・ヨーロッパ研究センター特任准教授、大阪大学言語文化研究科准教授、中央大学文学部准教授等を経て、2015年より現職。
現在は、20世紀ヨーロッパにおける強制移住とジェノサイド、第二次世界大戦の戦後処理とヨーロッパ地域秩序の構築、ドイツにおける「過去の克服」(戦争賠償と被害者補償、歴史教育、国際歴史教科書対話)等について研究している。
主要著書に『東欧からのドイツ人の「追放」 二〇世紀の住民移動の歴史のなかで』(白水社、2019年)、『ドイツの歴史教育』(白水社、2005年)、イアン・カーショー『ヒトラー(上)1889-1936 傲慢』(白水社、2015年、翻訳)などがある。