「文化遺産」とは何か
泉 美知子/中央大学文学部准教授
専門分野 美学・芸術諸学
「文化遺産」とは何か
「文化遺産」の意味を『広辞苑』(第七版)で確認してみると、「将来の文化的発展のために継承されるべき過去の文化」と記されています。今日、「文化財」と「文化遺産」は同じような意味で使用されることが多いですが、「文化遺産」には「継承」という概念が含まれています。フランス語ではpatrimoine(パトリモワン)であり、この語の元来の意味は、一族のなかで代々伝えられる世襲財産でした。家族という単位が、地域、国、さらには世界へと拡大し、ある集団のなかで継承されてきた共有財産を意味するようになります。歴史の歩みを伝える貴重な遺物の保存意識が芽生えるのは18世紀後半ですが、それを共有の財産として次の世代へ継承するという意思が法律によって明文化されるのは、フランスでは19世紀末です。
さらに「文化遺産」とは、財産としてのモノの継承だけではなく、それに結びついた集合的な記憶の継承をも含む考え方です。「モニュメント」というと、今日では歴史的価値のある大建造物を指す言葉ですが、その語源を調べてみると、ラテン語にさかのぼり、「思い出させる」という動詞にたどりつきます。つまり「モニュメント」は、ある人物やある出来事を「思い出させる」ための像や墓碑をあらわす言葉であり、その目的は記憶を後世に伝えることなのです。
フランスでは1830年に「歴史的記念物」monument historique(モニュマン・イストリック)という制度が創設され、近代の国家や国民にとって歴史的・芸術的な価値のあるものが指定の対象となりました。しかしこの語にはモノにまつわる人びとの心性を尊重する考え方は含まれていませんでした。19世紀末のナショナリズムの発揚とともに、"祖国"や"祖先"の記憶の痕跡を見出そうとする傾向が高まってきます。
文化遺産が伝える記憶や精神とは何か、それをどう読み取り、どう語るかは、文化遺産が今ここに存在することの意味を問うことにつながります。そうした営みなくして、モノがただあるだけでは文化は継承されないのです。
「文化遺産」について研究する
美術館や文化財保護といった制度は、ヨーロッパの長い歴史を考えれば200年ほど前に誕生したにすぎません。フランスでは大革命によって絶対王政が崩壊し、近代社会の成立によってこうした制度が整えられます。今日私たちが当然だと思っている「文化遺産」の思想、つまり前代から伝えられた作品を保護あるいは保存し後世に継承するといった考え方が、どのような歴史的背景のもとで生まれ、発展していったのか、私は美術史研究者という立場から考察を進めてきました。
芸術作品に二つの生があるとしたら、第一の生は芸術家が生み出す作品そのものであり、第二の生は社会が生み出す作品の価値と言えるでしょう。私がこれまで取り組んできたのは、第二の生をめぐる研究、つまり作品が制作者の手を離れて、社会のなかでどのように受容され、評価され、そして保存・継承されてきたのかについて、歴史的な視野のなかで捉えることです。作り手ではなく語り手を、芸術家ではなく批評家を考察の対象にしています。
1:博士論文の出版
博士論文〔図1〕で「文化遺産」の思想形成を考えるにあたって、中世美術の再評価という美術史学の問題を取り上げました。19世紀は忘れ去られていた作品の再発見や再評価が積極的になされた時代であり、16世紀以来"野蛮な"という形容詞で貶められていた中世(ゴシック)美術を再評価するのが、近代ヨーロッパ諸国に見られた文化的現象でした。長らく中世を見過ごしてきたフランスにとって、中世美術の再発見は、自国の、とりわけ古い美術を見直すことを意味するものでした。それは「国民芸術」とは何かを問う契機となります。中世建築・美術が再評価されて、美術制度のなかに組み込まれてゆくプロセスは、まさに文化財保護制度の成立の歩みでもあるのです。
中世美術の価値を見出す眼差しは、19世紀フランスの複雑な文脈から生まれています。その文脈を解きほぐす作業のなかで、政治、宗教、思想など多岐に渡る問題が浮かび上がってきます。美術史にとどまらず、歴史、建築史、文学の領域にも目配りし、学問分野を領域横断することを通して明らかにされるのが、「文化遺産」の研究だと思っています。
パリ、ノートル=ダム大聖堂の火災
2:2019年4月15日、パリ、ノートル=ダム大聖堂の火災(fr. wikipédiaより)
3:セーヌ川から眺めたノートル=ダム大聖堂(fr. wikipédiaより)
4:炎上するランス大聖堂(en. wikipediaより)
2019年4月、ノートル=ダム大聖堂の尖塔が焼け落ちる衝撃的な映像〔図2〕は、パリの悲劇としてニュースで伝えられました。この大聖堂がパリの歴史を物語っていること、火災による損壊が人びとにとってアイデンティティの喪失を意味することも同時に伝えられました。フランス大統領はいち早く再建プロジェクトを立ち上げ、多額の寄付金が集まっているようです。
19世紀フランスの文化遺産を研究する者にとって、この火災が意味することは、当時の修復事業を証言する尖塔が失われてしまったことです。パリのノートル=ダム大聖堂は、19世紀の文化財保護を考えるうえでターニングポイントとなった建造物であり、焼け落ちた尖塔は、大聖堂の修復を担当したヴィオレ=ル=デュックのデザインによるものです〔図3〕。ヴィオレ=ル=デュックはフランス各地の歴史的建造物の修復を手掛けた建築家であり、その修復方法をめぐっては今日までさまざまな議論がなされてきました。今回の再建計画において、まず検討されるのは、ヴィオレ=ル=デュックによる尖塔を元に戻すかどうかでしょう。
フランスにおける文化財の保護論については、破壊という局面を乗り越えながら議論が積み重ねられてきた歴史があります。大革命による破壊、近代化による破壊、修復による破壊、戦争による破壊、そして老朽化による破壊です。問題に直面するたびに、文化財の価値が問い直され、前代のものを継承するにはどのような保護、保存が望ましいのか検討されてきました。大聖堂の火災で近代以降の大きな事件として思い起こされるのは、第一次世界大戦中のランス大聖堂です〔図4〕。これはドイツ軍の砲撃によって起こった火災であり、世界中のメディアが炎上した大聖堂のイメージを拡散させました。その時の議論のなかには、建造物の復元を目指すのではなく、たとえ破壊されたとしても、そのままの状態を維持する程度の保存という選択肢もあったのです。
今回のパリのノートル=ダム大聖堂の場合、そうした選択肢の可能性を議論されることはなく、大統領の権限で火災事件のその日に再建が宣言されています。今後、どのような議論のもとに再建が進むのか、19世紀の保存論と比較しながら歴史的な視座で見守りたいと思っています。
19世紀フランスにおける大聖堂と旅
最近の研究では、19世紀の大聖堂のイメージを通して文化遺産の問題について考えたいと思っています。私たちがよく知るところでは、コローによるシャルトル大聖堂や、モネによるルーアン大聖堂の連作がありますが、そうした油彩画よりもむしろ版画や写真、本の挿絵のためのスケッチ〔図5〕に関心を寄せています。複製できるイメージであることからより多くの人びとの眼に触れたということ、どういった用途で描かれたイメージであるかによって、眼差しの考察の幅が広がるのではないかという理由があります。
5:テロール、ノディエ、ド・カイユー『古きフランスのピトレスクでロマンティックな旅』ピカルディー編第1巻(1835年)におけるアミアン大聖堂(国立西洋美術館所蔵)
また、イメージを分析するにあたって「旅」というテーマを設定しています。ヨーロッパにおいて「旅」は芸術作品の鑑賞体験と深く結びついてきました。2世紀後半に書かれたパウサニアス著『ギリシア案内記』には、今日の美術史的な記述の祖型を見ることができると指摘されています。ゲーテやスタンダールのイタリア旅行記は言うまでもありません。19世紀は移動手段が飛躍的に発達した時代であり、旅は限られた階級のものではなくなり、より多くの人びとに開かれてゆくなかで、ガイドブックが登場します。こうした旅の文化がもたらす新しい感性に注目しながら、大聖堂に注がれた眼差しの諸相について考察したいと考えています。
- 泉 美知子(いずみ・みちこ)/中央大学文学部准教授
専門分野 美学・芸術諸学 - 和歌山県田辺市出身 1969年生まれ
1992年 慶応義塾大学文学部卒業
2000年 慶応義塾大学文学研究科修士課程修了
2007年 東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学
2010年 学術博士(東京大学)
中央大学文学部准教授、2019年より現職
専門分野は、近代フランスにおける美術制度(美術館・文化財保護・美術史学)、19世紀フランスの美術批評、文学作品における建築の表象
現在の研究課題は、19世紀フランスにおける大聖堂の表象研究(版画、写真、本の挿絵のイメージを通して、大聖堂への眼差しを考察すること)
また、主要著書に『文化遺産としての中世――近代フランスの知・制度・感性に見る過去の保存』(三元社、2013年)、主要論文に「国民芸術の歴史をどのように記述するか――1900年パリ万博「フランス芸術回顧展」の考察」『西洋美術研究 特集:記憶と忘却』(第17号、2013年、130-149頁)、「ランス大聖堂《微笑みの天使》という神話の誕生――第一次世界大戦と文化遺産の危機」『國學院大學紀要』(第57号、2019年、29-50頁)などがある。