研究

異文化交流のすすめ

原山 重明/中央大学研究開発機構 機構教授
専門分野 微生物学

中央大学研究開発機構20周年特集

 中央大学研究開発機構は、今年設立20周年を迎えます。1999年7月に設立して以降、「産官学の連携・研究交流の深化」を使命とする研究拠点として、持続可能社会の形成に向けて実社会が直面する諸課題の解決に取り組んできました。この20年間で、100を超える研究ユニットが展開され、参画する多くの研究者の尽力によって学術的にも、社会的にも影響力のある研究成果が数多く生み出されてきました。

 今回の特集では、現在展開されている研究ユニットに参画する研究者に焦点を当て、その研究活動の紹介を通じて、研究開発機構で研究活動によって生み出される成果の一端をご紹介します。

 私は2016年3月をもって中央大学理工学部を退職し、その後、同大学研究開発機構で研究を続けている。この研究開発機構が設立20周年を迎えるにあたり記念特集をChuo Onlineに組むので、私の研究についての記事を書かないかと担当者からお誘いを受けた。私は微生物の様々な機能について半世紀近く研究を行い、論文も色々書いた(https://orcid.org/0000-0003-2103-7796)が、「紹介するのはこれだ!」という研究テーマを選び出せなかった。結局、私が関わってきた研究の内容には触れず、研究者をめざす学生諸君へのアドバイスを書き綴ることにした。

生物学との出会い

 私が10歳の頃、父親に連れられて原子力平和利用博覧会に行った。理系少年だった私は、今でもその展示物の幾つかを思い出すことができる。その後、少年少女向けの「発明発見物語」を読んで、アーネスト・ラザフォードが原子模型を作るに至った物語に感動した。私の興味はその後拡大し、大学入学の頃には「高分子化学」というキーワードに惹かれていた。私は私立高校出身で、高校では「生物」を勉強しなかった。中学「生物」では、図Aの動物細胞と植物細胞との違いをひたすら暗記させられ、全く興味を抱かなかった。大学入学後「生物」を履修するにあたり、大学の図書館で何冊かの生物学教科書を読んだ。その中の一冊にアート紙に印刷された細胞の顕微鏡写真(図B)があり、図Aからは想像できなかった生命活動のダイナミックさを感じ取った。それからは、生物の本を積極的に読み始めた。当時、大腸菌およびそのウィルスであるバクテリオファージを材料とした「分子生物学」が欧米では最盛期を迎えていたが、大学教養学部1・2年の授業ではDNA・RNAの話はあまり聞かなかった。一方、高校の生物の教科書にDNA・RNAが登場し、デオキシリボ核酸・リボ核酸と、名前をただ暗記させられていると弟から聞いた。九大の先生が執筆した「分子生物学」という新書を買って自分で勉強した。学部3年生で生物学科に進学したのだが、講義は概して古臭く、つまらなかった。分子生物学の先達のひとりであるフランソワ・ジャコブの論文を背伸びして読んだのだけれども、チンプン・カンプンだった。当時院生だったIさんに色々解説してもらい、少し理解できたが、多くの専門知識なしには論文を読破できないことを思い知らされた。

図 A:中学教科書にあった細胞の図。B:私が研究している緑藻細胞の電子顕微鏡像(京都大学宮下英明教授提供)

海外へ

 大学における旧態依然とした教育に不満を持った学生は数多かったのだろう。その不満と日米安全保障条約やベトナム戦争に対する反対運動とが合体し、東大安田講堂事件に象徴される学生運動が燃え上がった。私は色々な理由からその運動に同調する気にはならず海外脱出を考え、学部4年生の時にフランス政府給費留学生に応募し合格した。生物学科F教授に紹介してもらい、大学院進学後休学し、パリ郊外のCNRS研究所に留学した。25歳の英国人が同じ研究室にいたが、すでに博士号(Ph D.)を持っているため私と待遇が全く異なった。劣等感を覚え、遅れを取り戻したいと切に思った。しかし集中して何かをするという訓練を受けてこなかったこともあり、朝起きて、定時に研究室に行くのが辛かった。留学一年が過ぎた時、そのボスが事故で亡くなった。研究室は解散という噂が立ち、東大に復学した。その後、博士課程に進み、同じ研究室の助手(現在の助教)に採用された。

 しかし、自分の実力は世界のレベルに比べはるかに低いという自覚から、結局、東大を辞し、スウェーデン、米国、スイスと計15年の海外生活を送った。スイスでは、フランス語圏にあるジュネーブ大学医学部に10年間奉職した。フランス語が話せたことも幸いし、自分の研究室を持ち、学部学生の教育と大学院生の研究指導を行った。ポストドクも常に若干名在籍し、著名な教授方にもサバティカル(研究休暇)を利用して研究室に滞在していただいた。その後日本に帰国して30年近く経つが、あの時の自分はよくやったなと思うと共に、多くの幸運に恵まれたのだとも思う。

海外生活で得たもの

 ヨーロッパの小国であるスウェーデンとスイスで生活したことによって、日本の後進面を知ることができた。スウェーデンでは、町の中で障害者を多く見かけ、最初驚ろかされた。スウェーデンから帰国する機内で、隣の座席の日本人(その方はスウェーデンの福祉用具の調査に来られたのだが)から、日本では障害者を外に出さないのだと教えられ、自分の不明を恥じた。それから40年、日本での状況は改善されたと思うが、公共機関でお年寄りに席を譲る人は少なく、歩きスマホで目の不自由な方にぶつかりかける人を見ると、しつけ教育の不十分さを痛感する。弱者に対する心遣いを大事にする社会の中に身を置くと自ずから徳が備わってくる。

 学問の分野に比較○○学というものがある。2つのシステムを比較すると、その共通点と違いとがわかり、システムを動かす因子の特定とそれらの因果関係、あるいは各システムの長所と短所を理解することができる。だから海外で生活を始めると、日本人として生まれた有難さを身に染みて感じるが、生活に慣れると、日本にはないその国の良さが見えてくる。日本に住んでいても各国の長所(=日本の短所)に関する情報を収集することは不可能ではないが、現地に身を置くことによって、はるかに少ない努力でそれを知ることができる。このことから、若い人には留学を薦めたい。その時、私が発見した(?)「3の法則」は参考になるかもしれない。観光で3日間同じ町に滞在すると1日目では気づかなかった町の姿が見えてくる。1週間の海外研修は余り役立たないが3週間滞在すると質が違う収穫がある(ただし、日本語から隔絶された環境で過ごすことが重要。日本語でお喋りをしながら皆で夕食をとる海外研修は金の無駄使い)。その後、3か月、3年滞在することで、より高いステップに移行できる。ただ残念なことに、歳とってから(20歳以上?)海外生活を始めた場合、日常の生活にそれほど支障を感じなくなった3年以降では、語学を含めた異文化適応速度が極端に落ちてくる。私の子供たちは、15年海外にいながら私の語学力が何故その程度なのかと不思議がっている。

まとめ

 以下、「伝えたいこと」をまとめる。

  1. 研究者を目指したいのだけれど目標が見つからないと言う学生が多い。本を読み漁るなど「もっと努力して自分自身で目標を見出すこと」が私からのアドバイス。
  2. 研究にはスピードが重要。博士課程後期まで進学することを考えている場合、前期・後期5年で博士号取得を目指すのではなく、3年目での取得(大学院設置基準第17条第1項)を目標とすること(それでも5年かかる場合が多いと思うが)。そのためには、遊びのためのバイトなど、もってのほか。
  3. 働き方改革は大いに結構だが、学習でも仕事でも集中が必須。「日本人は働きすぎ」は嘘っぱち。滞在時間が多いだけ。日本人の労働生産性は過去50年間、欧米諸国の後塵を排している。30年前の話だが、スイスの平均的大学院生は、研究室に8時前に現れ、すぐに実験を始める。昼食、ティータイムは重要。既婚者は18時過ぎると帰宅。そして作業効率は日本人学生よりもはるかに高かった。
  4. 安定な身分を得た大学教員は、更に切磋琢磨に励むこと。特に生物学は日進月歩なので勉強をかかさず、学生になめられないようにすること。スイスでは、知識の広さの点で私は劣等教員だったが、日本に戻ると博識な階層に属するみたいで、日瑞での教養レベルの違いを痛感させられた。
原山 重明(はらやま・しげあき)/中央大学研究開発機構 機構教授
専門分野 微生物学
東京都出身。 1946年生まれ。
1970年 東京大学理学部生物学科卒業。
1970年 CNRS ( Gif -sur -Yvette )研究所留学
1976年 理学博士(東京大学)
東京大学理学部助手、米国イリノイ大学 visiting professor、スイスジュネーブ大学医学部 Maitre d'Enseignement et de Recherche、海洋バイオテクノロジー研究所釜石研究所長、独立行政法人製品評価技術基盤機構 生物遺伝資源開発部門長等を経て、2007年より中央大学理工学部教授、2017年より、中央大学研究開発機構教授。国際誌原著論文・総説約300報、特許出願約90件。